行楽日和

行楽日和だった。

28日から、鹿児島。息子のところに、まだ運ばなければならない荷物があったので。電子ピアノとか。
中国山地は、やあ、春が来たなあ、という感じだったのに、九州を南に行くにつれて、山の緑の迫力が違ってきて、着いた頃には、初夏の感じ。
息子は、電車やバスを追いかけてよく歩いているらしく、顔、マスクのかたちに日焼けしているのが、笑えた。
30日夜、花火大会らしい。遠くで花火があがってた。あがってたけど、遠いな。それでも近所の人たちが道に出てながめて、子どもの歓声や拍手が、聞こえるのはいいね。

大阪の友だちのお父さんの郷里が、霧島らしく、帰省するから、霧島を案内してくれるっていう。それで、1日、肥薩線嘉例川駅で、待ち合わせてからが楽しかった。
嘉例川駅のお弁当は、食べて見たかった。がね、というものははじめて食べた。これは楽しい食べ物だ。今度つくってみよう。

 


うちの男の子たちは、列車を待つ。壊れかかったコンデジと同じく壊れかかったビデオカメラが、遊び道具。
そのあと、大隅横川駅。ホームの柱に戦時中の機銃掃射の跡が残っていた。

 

そのあと、連れてってもらった高台の公園からは、霧島連山が一望できて、そのあとに行った曾木の滝が、いつまで眺めてても飽きない、素晴らしかった。


車は、山道を走って、どこまでも山道で、ふいに山の中に、キャンプ場と温泉があらわれて、温泉入る。「旅の湯温泉」というところ。

それからまた緑のなかを走って、日が暮れて、お蕎麦食べて、私たちは鹿児島に戻ったんだけれど、体が緑に染まったような、滝の水音がいつまでも体のなかに響いているような、ほんとにこころよい1日だった。
湧水町の名水百選の水を汲んで帰ったが、その水で炊くと、ご飯が劇的に美味しくなった。水、大事。

友だちとお父さまにありがとう。息子にもありがとう。

2日は平日なので、息子を連れて、郵便局と市役所へ。支払いの振り込みのことや、手続きのことは何度も言ったのに、なんにもすませてなかったのだ。郵便局や市役所に行くぐらいで気後れするような子を、成人扱いしていいのか、一人暮らしさせていいのかとか、思うけれども、思い返せば、私はもっとひどかった。
デパートでも小さな店でも気後れした。自分で行けたのは本屋だけ。市役所とか病院とか、怖がらずに行けるようになったのは、妊娠出産後である、たぶん。
ずっとさかのぼれば、小学校のとき、職員室に鍵を返しに行くということができなくて、職員室の前の下駄箱の、誰か先生の靴、のなかに鍵入れたもん。鍵をどこに返すか知っている、ということと、それができる、ということは別である。そのくせ、隠れ場所を探すのは好きで、講堂の床下とか、宿直室の天井裏とか、もぐりこんだものだった。
世の中、というものに対する、あの激しい気後れは何だったんだろう、と今さらに不思議だけれど、自分が暮らしている街の、地名ひとつ、覚える勇気がないほどだった。
それにくらべたら。ずいぶんましである。
電車とバスを追っかけて歩き回っているうちに、この子は街になじむでしょう。

市役所の帰り、本屋と喫茶店に寄る。
兄が喫茶店大好きな人だった。70年代、田舎にも雨後の竹の子のように喫茶店ができていて、父の仕事の現場も喫茶店ばかりだった頃、私は中学生で、喫茶店に入ってはいけませんの校則だったけど、しょっちゅう兄が連れて行ってくれていた。
一度だけ、母と2人で、喫茶店に入った記憶がある。そのことを思い出した。あのときの母の姿が、自分と重なって、あれ、私はもう死んでいるのに、なぜまだここにいるんだろう、とへんな気持ちがした。私が大学進学で、家を出た5月に、母は倒れてその年の11月に亡くなったから、子どもが家を出たということは、母はもう死ぬということなのに、私はまだ生きていて、なんかそのことが、ものすごくふしぎだ。

こないだ、ふいに母の視線を感じて、振り向いたら、鏡に映った自分だったということがあり、似ているとは思っていなかったのに、最近、鏡のなかに晩年の母がいて、とまどうんだけど。このあとは、どうしましょう、おかあさん。

3日は、指宿枕崎へ、ドライブ。列車、指宿のたまてばこ、とか追っかけていた。それから、JRの日本最南端の駅へ。開聞岳は、きれいな姿の山で、見とれた。
山も空も、ぴかぴかに磨かれた、という感じの、すがすがしさ。

 

それから枕崎へ。指宿枕崎線の終点に行く。駅の空にカツオのモニュメント。
終着駅、というのは、そこにたどり着く、というのは、なんというか、旅の納得をくれる、と思う。楽しかったわ。

パパが、本当に楽しかった、とうれしそうなのでよかった。思うに、こういう行楽は、人生を、好きでいようという勇気になるね。

4日に帰る。