冬休み

あけましておめでとうございます。

といっても新年もう10日も過ぎました。遡って12月何をしていたかしらと思うんだけど、さて、何をしていたやら。写真見ましょうか。とりあえず。

雪が降りました。クリスマスの時期。雪降るし、息子いないし、クリスマスは省略。たぶん家族がいなくなったら、私は全てを省略するんじゃないかしら、と思う。実際1人で暮らしていた間はずっとそのようだった。

12月、息子は自動車学校と塾のバイトで忙しくしていたらしい。一年前は、塾や予備校の無料講座をときどきハシゴしていた。翌年の浪人生確保のためにそんなのがあったみたいだけど、親は塾に課金してやることもできないので、浪人して予備校なんて、絶対無理だった。現役で行きたいところに行けて、本当によかった。行けなかった塾も、バイト料までもらって堪能している。
それで塾の課金、聞きましたらおそろしい。なるほど、経済格差は教育格差になるかも。貧困については、私はそれなりに想像力は働く、と思う。貧しいお家に育ったし、ずっと厳しいし、フィリピンのゴミ山のスラムに通いつづけてきたし。でもお金がある、ということについては、ほとんど何にも想像力が働かない。
「あん人たちゃよか衆」と五木の子守歌が、脳裏を流れるくらい。

息子が、進学して家を出て、何に驚いたかって、心配が吹き上げてくることだった。4月に法律が変わって、18歳成人なので、あとはひとりでがんばってねって話のはず。私も18歳で家を出て、そのあと帰る家はない感じで生きてきたし。親が、家を出た子のことを心配するなんて夢にも思わなかった。

とすると私の母は、はやく死んでよかったな。家を出たあとの私が母にどんだけ心配かけなきゃいけなかったかを思ったら、あんまり罪深くてこわい。心配する人がいないというのは、それはそれで気楽だった。
父は、心配したくてもできない運命だった。想像力が働かないから。よその土地がどんなかも、大学がどんなところかも、誰も知らない土地でひとりで生活するのがどんなことかも、まったく想像できなかったと思う。
娘はよその星に行ったぐらいの感じかも。父が私に電話をかけてきたのは、親族や隣人が亡くなったときだけだった。よその星に電話をするのは難しい。
想像力が働かないのは、それはそれなりに幸せなのだ。心配の種をいちいち拾わなくていいから。

ところが私たちは、大学進学したが、留年休学中退、といろいろ踏み外しているので、無駄に想像力が働くのである。だいたい受験勉強しなければならないとなったら、受験勉強だけしているわけで、何にもしらんもんね。こないだ行ったら、水道、水もれしているのに、気にもとまらなかったらしく放置していた。こういうときは大家さんに連絡するんだよというようなことから。
何でもないこと、本当になんでもないことで、ものすごく躓く。これからが、人生の失敗本番だぞ、という意識があるもんだから。失敗の可能性を考えて、どうフォローするか、できるかできないかを考える。
ああ、あの子がひとつずつ、親たちの想像力の範疇を裏切りながら、良い人生を生きてくれればいいなと思う。

 

自分をふりかえって、大学1年の正月に、母が死んだあとの家に、どんなふうに帰ったのかどんなふうに過ごしたか、おぼえていない。

  母のなき家は黒々と凍えいる父の大き手虚空に垂れる

というような短歌(たぶんそんな感じの)をむかし書いた記憶があるから、何か寒々した景色のなかにいたんだろうなと思う。父も、私も。
で、息子が帰省する。出て行ったときと変わらない景色のなかで、迎えてやれる。そのことを、私はすこし、もしかしたらかなり、うれしく思っている。オセロの玉を裏返したみたいにうれしい。
きみが帰ってもいい家は、まだ、ある。

 

年末に帰省した子は、3日からバイトなので2日には帰るという。新幹線代も大変だろうから送っていくとパパが言う。片道の新幹線代で、高速の往復できるから、まあ、悪くはない。南九州、あったかくてほっとする。

息子はバイトに行き、私たちは、何はともあれ桜島。温泉で、窓の向こうに樹々の緑と海、西日がゆれるなかで、お母さんと小さい子たちがお風呂に入ってるのを、ぼうっと見とれていた。写真が撮れるなら撮りたい。絵を描けるなら画きたい。
以前にきたとき、両手のない女の子が、お母さんにお風呂に入れてもらっていて、ユージン・スミス水俣の女の子のお風呂の写真が、目の前にあらわれたようで、私の死んだ従姉の娘のことも思い出して、あのときも、何か宗教画の世界にまぎれこんだような気がしたのだったけど。

翌日、息子は車の免許、学科試験通った。送り迎えの途中に竜ヶ水の駅に寄る。無人駅。また、いい天気で。桜島よく見えて。

駅で、乗らないけど列車を待っていたとき、弟から電話がかかってきた。
いったい何ごと。あんたが持ち込んでくるトラブルは、想定外すぎて手に負えないぞ、と緊張する。
あけましておめでとうと、誕生日おめでとうだった。
自宅にかけてもつながらないから。だっていま鹿児島にいるから。なんで。息子が大学でこっちにきたから。えっ? そういえば言ってなかったのである。そんなにかしこかったのか、と驚いている。たぶん、学校の成績は天地ほど違うのだが、息子と弟と、なんとなく似ていてシンパシーあるのだ。お祝いしてやる、という。しなくていいから、自分の生活破綻させるな、と私は思う。大丈夫、らしいけど。
近くのたこ焼き屋でたこ焼き買う。店、極楽、って名前だった。すごいな。

翌日、指宿の温泉に行った。砂蒸し温泉は高いので、町営温泉のほう。町のお風呂屋さんが好き。鹿児島は、町のお風呂屋さんがふつうに温泉って、うらやましいかぎり。前に来たときは、中国人のお嫁さんと女の子がいて、お嫁さんが、聞き取りやすい日本語で、農作業に慣れてきたって話をしていたなあとか思い出しながら、お風呂入りましたら、

「ごくらくごくらく」ってお婆さんがお湯につかっていた。2人のお婆さんが、「なんととなえてもいいらしいよー。なんまいだー」「いちまいだー、にまいだー」とかわいらしい話をしていて、でもそのあとの話が、なんにも聞き取れない。いや、無理、全然わからん。
お婆さんのひとりは、目が見えないらしい。それをもうひとりのお婆さんが、ていねいにていねいに、頭を洗って、体を洗ってしてあげていて、幼馴染みかな、たぶんずっと近くに住んで、長く一緒に生きてきたのだろうけれど、こんなに自然な思いやりのにじむ光景を、見ることができるなんて。自分をとてもしあわせに思った。

そうだわ、宗教画のようだと思ったのは、そこに思いやりがにじむからだわ。

こういう景色に遭うとわかる。正義って、思いやりのことでしょう。そうでない正義なんて何でもない。
きっと、地上のどこにでも、このふたりのお婆さんはいて、フィリピンにもいたし、ロシアでもウクライナでも、手をつないで体を寄せ合って生きていると思う。このお婆さんたちがいるのなら、この世界は生きてみるに値するし、いつでも私たちは宗教画のなかにいる。

指宿の菜の花畑は有名らしい。去年、受験のあとに来たときに見たよね、と寄ってみたら、まだ1月なのに、菜の花咲いて、出荷作業をしていた。乗らない列車を待ちながら、その出荷作業をずっと見ていた。黄色いバケツに入れられて、青いトラックに乗せられて、運ばれていった。

前の日、私は竜ヶ水の駅で、つわぶきの黄色い花を見た。11月の、秋の終わりの花と思っていた。指宿では菜の花が咲いてて、出荷作業していた。春の花のはず。とすると、冬はどこへ。

で、中国山地に近いあたりの我が家に戻って来ましたら、雪がまだ消え残っていた。