こんなに急いでいいのだろうか

2日遅れで誕生日のケーキ。炊飯器がつくってくれたのに、息子が自分でかざりつける。春と夏、畑のイチゴとブルーベリーを冷凍しといたやつ。ろうそくは省略。

 

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それから夜遅くになって、前日の模擬テストの解きなおしの宿題やら何やら、やっていたが、もういい加減寝てくださいという時間になってから書き始めた作文。
なんでも、数学の小テストが満点でなかった人に課された宿題らしく、他のクラスでやっていたのを、息子のクラスでも導入したらしい。A4の半分もないくらいのほんの小さな紙片に十数行、テーマは自由。
息子、書きはじめたらどんどん長くなった。
声を大にして言いたい、そうなので、載せておこ。

★★★

「旅の極意とは ~ローカルな格安旅行の入門~」
 今日では、遠距離の主な移動手段は新幹線、飛行機、在来線特急の三つに大別される。三十年ほど前まで主流であった夜行列車は急激に数を減らし、格安な高速バスが台頭している。ここまで挙げた乗り物はすべて目的地同士を結ぶもの、いわば点Aと点Bの間を跳躍しているような存在である。この二点の間はほとんど無視されていると言ってもよい。もちろんビジネスでの移動ならば時間の節約は重要であろうし、観光でも目的地で最大限楽しむためには移動の手間は省きたくなる。しかし、私はそれはあまりにも勿体ないと声を大にして言いたい。
 私にとっての旅行の醍醐味は、二点を結ぶ線分ABに大半が詰まっていると言っても過言ではない。長期休暇に青春18きっぷを一枚持ち、点Pという鈍行列車に乗り込む。人もまばらな車内のボックスシートに腰掛け、ぼんやりと外を眺める。瞳に映るのは時にはビル群、時には田園風景、時には青い海と青い空と水平線…。対向列車を見て、中の乗客はどこへ向かうのか、その人々はどんな人生を抱えているのか、また貨物列車のコンテナに積まれた荷物は誰のもとへ届くのか、そんなことを考えても終わりがないではないか……と、とりとめのない思考に耽る。
 途中下車の乗り継ぎ待ちも楽しい時間だ。三十分や一時間くらいは退屈しないだろう。駅前を散歩するもよし、待合室に座る老人との会話に花を咲かせるもよし、店などで名産品を探すもよし。マニアな視点として、駅構内や折り返し待ち、留置中の車両を観察するのも一興だ。
 改めて見返すと、この13行(注:前の二段落のことを指すらしい)…もっと増やすこともできるが…の濃い体験は、冒頭で挙げた移動手段ではほんの一瞬しか味わえない。繰り返しになるが、なんと勿体ないことだろうか。
 このご時世、そこまで時間をかける余裕はないかもしれない。それでも、否、だからこそ、敢えてスローな移動手段を選択し、心にゆとりを持たせることが大切なのではないか。
 最後に、谷川俊太郎氏の詩「急ぐ」を載せておく。氏が初めて新幹線に乗ったときの創作である。

「こんなに急いでいいのだろうか/田植えする人々の上を/時速二百キロで通り過ぎ/私には彼らの手が見えない/心を思いやる暇がない/この速度は早すぎて間が抜けている/苦しみも怒りも不公平も絶望も/すべては流れてゆく風景/こんなに急いでいいのだろうか/私の体は速達小包/私の心は消印された切手/しかもなお間に合わない/急いでも急いでも間に合わない」

★★★

 

いじょ。配られた紙の表だけでは書き足らず、裏面までびっしりと、読みづらい小さな文字で書き終えた息子、「これから紀行文を書こうかな」などと言う。彼の最近の愛読書は司馬遼太郎の「街道をゆく」なのだが。小テストで満点とるより、こっちのほうが楽しそうだ、と気づいたらしい。
中学の時、英作文の宿題を電車の話ばかり書いて、ついに電車の話を禁じられたことがあったのを思い出すけど。

たしかに。こんなに急いでいいのだろうか、と思うよ。あああっというまに16歳だよ。