朝のテレビで、切明さんを見た。いまも被爆体験を語りつづけていらっしゃる。私の死んだ母と同年同月のお生まれなので、何度かお会いしたこともあるので、慕わしく思いながら。戦争中、母は広島に行こうと友だちに誘われていた、いいお給料がもらえるらしいよ。親に反対されて行けなかったけど。
この手もて友の亡骸焼きし日よその桜色した骨を拾えり
切明千枝子歌集『ひろしまを想う』
8月6日。息子が小学校1年のとき、6日は夏休みの登校日で、「きょうは、原爆がおちる日なんだ」と現在形で言って、登校したのを、いまも思い出す。あんなにこわい現在形はない。それから、財布以外のすべての荷物をバスのなかに置き忘れて学校に行き、帰ってきたのだった。
★★
暑くてどうしようもない。
7月の終わりは鹿児島。息子が車を買ったので(中古車を5年ローンで)気になる。
地方で暮らすなら必要になるし、実習はじまって車がないと不便だし、というので。
しばらく前に、その車のことで急ぎの用件で、うちに固定電話で電話かけて、「私です」としか言わないから、詐欺と思われて、母に冷たく電話切られてしまっていたな。
電話の用件は一緒だよね、振り込めって。それ以外に親に用はないし。
さて息子の車。私は車種の区別なんてできなくて、最近はなんか、ダースベーダーみたいないかつい顔つきの車が増えた気がする、と思うくらいなのだが、息子の車は見つけやすそう。昭和や平成のはじめごろに、兄たちが乗ってたような車で、においも昭和。
子どもの頃に遠出すると酔っていた、あの頃の車のにおい。消臭剤の大きいのを置いてもらって、あとは運転次第かな、私を乗せてドライブして大丈夫なら、ほかの人を乗せても大丈夫だと思うよ。木曜は天草へ行こうか、と話していた火曜日、地震。

火曜日は枕崎に行って、開聞岳を見ながら帰りに指宿あたりのスーパーにいたとき、地震がきた、らしい。パパと息子は気づいたが、私は気づかなかった。車で揺られたので、その揺れがつづいている感じのなかにいたから。
もし、2日前なら、その時間は九州自動車道の八代あたりにいた。もし2日後でも、その時間は熊本八代あたりにいただろう。
と気づいて、防災訓練のときに、震度7の揺れを体験したのが、思い出されて、こわい。
何年前? 広島の豪雨災害のときに、真夏の後片付けで、そのあと、持病悪化でみるみる弱っていった高齢者のことなど、思い出す。気づかれる関連死もあるだろうが、数年かけての、気づかれない関連死も、きっとある。ほんの1時間か2時間外は、なんでもない日常なのだから、逃げて、涼しい季節になるまで、離れて過ごすのがいいと思う。そこにいなくて、いいと思う。怠けて生きていいと思う。
夜に知人にメールして無事確認して息をついた。こんなに暑くなかったら、連絡して熊本までたずねていこうかなあと、思っていたりもしていた矢先だった。
木曜日、大隅半島のほうから桜島一周。温泉。

九州自動車道が通れないので、宮崎まわりで帰る。10年前の地震の翌年の春に熊本、人吉まで、息子と旅行したときは、まさかこんなに九州に通うことになるなんて思わなかったけれど、災害の度に、交通網がずたずたになるのが、、、
いつもより、3時間余分にかかった。
中国自動車道の夕焼け。

息子、車にお風呂道具載せていた。新しい洗面器買ったらしい。
部屋では、新しい洗面器だから大丈夫だよと、洗面器で麦茶つくっていた。
洗面器でもいいわ、自分で麦茶つくったり、中古車を自分で探してローン組んだり、離島の病院に実習に行ったり、いろんなことができるようになっている22歳。
ただ、家で勉強している気配がない。
帰省はしないよ、という。しないのが正解だと思う。

















