インディペンデント

もう7月も終わり。
6月の最後の日、イワツバメの子が巣から出てきた。
その前の日に、親が一羽、巣の下で死んでいた。ので、庭に埋めた。
親ツバメ一羽と二羽の子ツバメの三羽が、近くを飛び回っていた。

 

またかえっておいで。
イワツバメの子たちを見ていたら、「インディペンデント」って、レティ先生の声が耳に戻ってきた。息子を連れていったときに、そのように声をかけてくれたのだった。
2019年の夏、別れ際に「カムヒアアゲイン」と私の子に言ってくれたときの、レティ先生の笑顔がすばらしくて、イエス、と答えている息子も笑顔で、帰り支度しながら見た、その一瞬の光景が、ほんとに美しくてしあわせだったのを、思い出したりした。
あれが、レティ先生を見た最後。声を聞いた最後。

「また、おいで」

地元の新聞に、パアラランのこと紹介してもらったり、いくつかお話する機会をもらったり、地元のラジオに呼んでもらったり、ばたばたしてましたが、パアラランの30年をどう話せばいいのか、いたらなくてごめんなさいの、終わったあとの脳内反省会がががが。でも、私が、うまくお話ができなかったからといって、消えてしまうパアラランの価値ではないので、くじけない。
気にかけてくださったみなさまに、ありがとうございます。
まだ、天に見捨てられていない。
新学期はじまっています。おかげさまで、新学期の送金もできました。

ヒロシマの修学旅行について、調べて書く仕事をした。大学時代にお世話になりました小林先生の「原爆碑を洗う中学生 被爆教師江口保さんの平和教育」という本、読み返したら、語り部の沼田鈴子さんのことや、江口先生の同僚だったという石川逸子さんの文章などもあって、石川さんのミニコミ誌「ヒロシマ・ナガサキを考える」全100号の源流に触れる思いがした。
「世界子ども通信プラッサ」2003年の誌面には、修学旅行の小学生への沼田鈴子さんのお話が、語り言葉のまま、掲載されていて、それを東京から来たプラッサの代表の小池さんと一緒に聞いたときのこと、思い出して、胸がつまった。
沼田さんは2011年に、小池さんも今年、亡くなった。
2002年の秋の午後、平和公園で、沼田さんの車いすを押した。貴重なお話を残せてよかった。
「とってもつらいことがあっても『明日天気になあれ』って言って、心をいいお天気に持っていってね」
って、沼田さんは、子どもたちに語ったのだ。

映画を観た。

「急に具合が悪くなる」。あまりの素晴らしさに、声が出ない。認知症患者たちがホームの庭で芝居を見ている場面、患者のひとりが車椅子で、煙草を吸っているのが、パアラランのキッチンでレティ先生が煙草を吸っていたの思い出して、たまらなかったな。
出会ってきた、と思う。出会ったら、別れないのだ。命に終わりはくるんだけれど。
認知症患者たちも自閉症の少年にも、登場人物たちには幸福感がある。存在のもともとの幸福感が、あらわれてくる、関わりによって。それが、さわやかで気持ちがいい。

「大統領のケーキ」はフセイン時代が舞台のイラク映画。
大統領の誕生日に、クラスでケーキをつくってくる係になった貧しい女の子の話。子どもたちが可憐ですばらしい。ろくでもない独裁者国家が、異世界ファンタジーの設定みたい。遠く近くに降るアメリカの爆弾。

壊れて、修理に出していたパソコンが無事もどってきた。

インディペンデント。息子は、ローンで中古車を買ったらしい。

薔薇が咲いた。もうすぐ散りそう。

野放図に伸びたつるばらが、門にアーチのようになっている。
昔、父が、玄関先の薔薇もうすぐアーチになるかしら、というところまで育ったのを、ちょっとした工事のときに、あやまって根っこを砕いて枯らしてしまった。
これは薔薇じゃない、と父は言い張ったが、花盛りの薔薇は、みるみる枯れていったのだった。

もう、半世紀前なのか。

野球にも、よそのお家のことにも関心はないんだけども。娘がAIに相談して、児相に電話したら警察に連絡が行って、父親が逮捕されて、父親は監督辞任に追い込まれた、という話。

私、一度父に殴られたことある。たぶん、中学3年のとき。父は私を殴ったうえに、逆上して何かふりまわしたから硝子戸が割れて、私はその上に転げて血だらけになった。血だらけになっても、私が悪態つくのやめなかったので、母が動転して泣いたのが、かわいそうだった。「あんなやさしいおとうさんを怒らせて」と母は言った。

よくある話、と思ったけど、あってはいけない話ですね。

家のことを誰かに、相談しようとか、相談できるとか、思わなかったけれど、母を泣かせたのは悲しかったし、父を怒らせた私が悪い、ということになるし、そうなのだろうと思っていましたが、

 

信田さよ子さんがXで書いていたのがさすがで、

「家族の暴力は家族を壊さないように被害者が責任を感じるのが通例だ。いかなる暴力も許さない(家族も例外ではない)という姿勢が加害者逮捕につながる。児相も警察も当たり前のことをしたまでだ。
にもかかわらず娘に責任を負わせる(手紙を読み上げる)なんて、それを許容した父(逮捕された本人)も含めて全てが許されない。家族の美風に見せかけた加害者擁護だ。」

私、フィリピンに行けてつくづくよかったのは、家父長制とは別の、家族のイメージをもてたことかもしれない。私、レティ先生のキッチンを大好きだったけれど、一番最初に思ったのは、男のいない台所って、こんなに平和なのか、ってことだった。
男、って、もちろん父だけのことではなく。

自分が家族に与えてる何かいやなもの、暴力的または抑圧的なものに気づけない、むしろそれを正義と思ってる、その正義というかプライドを、守ってやらないと面倒だから、したがってみせるふりしてスルーする知恵、を、女たちも説くんだけど、

いらない知恵。AIのが正しいと思う。

殴ったことを私は父に謝ってもらってない。
父は暴力をふるったことはない。「あんなにやさしいお父さん」なので。
本当はやさしいのではなく、弱かったのだと思うんだけど、
やさしいお父さんは他人に暴力などふるったことがない、
それが、生涯にただ一度だけ、手をあげたのが娘の私だった。

そのことについて、私は一度も父に言ったことはないし、おおかた忘れてもいたし。
でも、父から金はもらわない、という決意を、高校を卒業するときにしたのは、たぶん、やさしいお父さんの、何かがいやだった。

15年ほどたって、父が、あのときは、などと話し出したことがあって、それから晩年にも一度、話し出したことがあって、

父が七歳のときに、弟を背中におぶって遊んでいて、寒い日に風邪をひかせて、その弟がそのまま死んでしまったことも、娘を殴ったことも、
父の生涯の悔いだったのだろうなあ、と思った。

悔いを抱きしめて、母の死後の長い歳月を生きた父は、なかなか立派だったと思うんですけども。

父の「一生の悔い」になることができて、私は、なかなか親孝行な娘ではないだろうかと思っているんですけども。

 

明日は小さな国に生まれる

連休の話だけど。愛媛に帰省したときに見かけた花。忘れそうだからメモ。
トベラの花。海辺や、家の庭に咲いていた。みかんも花ざかりだった。こんな花が咲く頃に、帰省することってなかったかもしれない。

 

そして私たちがいないあいだに、軒下の、もう何年も、空き家で壊れたままだったイワツバメの巣が、穴をふさがれて修繕されていた。ほんとに姿を見せないんだけど、ここで子育てするらしい。4年前かな、真夜中に、玄関の灯を消し忘れていたら、子どもたちが飛ぶ練習をしているのを見たっけ。それから巣立っていった。

元気に生まれて巣立っていってくれるといいな。

  ポスターを替えるくらいの気軽さで明日は小さな国に生まれる(蝦名泰洋)

                  短歌両吟「天体育ち」から
                                                                  

カルビーの包装が白黒になるというので、思い出した歌。

ナフサ、という言葉なんて、この春まで知らなかった。不足する、と3月頃には、SNSで言われ始めていたと思う。これからこの国どうなるか知らないけど。

カルビーの工場にバイトに行こうかなと、求人情報見ながら考えたことが、学生の頃にあったなと、思い出した。でも、これ以上バイト増やしたら、ますます大学に行けなくなるかなと思ってやめたけど、大学にはやっぱり行けないままだった。朝起きるのが、無理だった。

知っていた子が、大学をやめたらしいという話を聞いた。大学に行けなくて単位がとれなくて、って、なんか、自分の昔を思い出して、せつないわ。発達障害の子は、というべきか、親元離れての進学は、というべきか、生活習慣のようなあたりまえのことが、あたりまえに壊れやすいリスク、あると思う。

時間感覚のバグとか、環境の変化や人間関係のストレスとか、脳が暴走したり止まったり、本人もまわりも、理由のわからない何かが理由で、通えなくなる、そんなの、すぐに。
あのころの、世の中から剥がれ落ちていく感覚、でもそれを、どうやってくいとめていいか、全然わかんなかった。

午後になんとか大学まで行って、でも講義には出れなくて、そのままバイトに行く、みたいなことをしてましたね。真夜中に帰ってきて、疲れたなーと思って、でも眠れなくて本など読んでいたら朝になる。寝て起きたら午後になる。留年休学繰り返しながら、なんとか卒業したけど。


あのころの大学の先生の消息、ふと知って、いつまでも単位のとれない学生でしたが、私は。勉強したかったんですよ本当は。面白そうだなって、思ったんですよ本当は。

 

★★

短歌両吟は、noteのほうに。

短歌両吟第2集 天体育ち|野樹かずみ

フリートたち

ブリューゲルの「悪女フリート」(狂女フリート、とも)の絵をはじめてみたのは、15歳のとき。友だちの家に遊びに行ったら、日本文学全集があり、強烈に羨ましく、ぱらぱらめくった本の口絵に、この絵があった。野間宏「暗い絵」。
借りて帰った。暗い絵の最初は、ブリューゲルの絵の話。その部分を戦慄して読んで、画集を欲しいと思って、のちに買って、
小説の内容はすっかり忘れているんだけれど、Wikiが思い出させてくれたりする。
暗い絵 - Wikipedia

 

こんな世界を見ることがなければいいなあと思い、けれども、トランプの戦争の影響が免れがたく、おそらく苛酷に、生活に及ぶだろうと思うにいたって、またしきりに、この絵を思い出しているんだけれど、あまりに心に触れるので、

ブリューゲルは、何を見たんでしょうか、というようなことをAIにきいてみた。

★★

ピーテル・ブリューゲルが1562年頃に描いた『悪女フリート』は、一見すると不気味で奇妙な地獄絵図ですが、そこには当時の悲惨な時代背景と、人間の愚行に対する鋭い風刺・警告が託されています。ブリューゲルがこの絵に込めた意図と、彼が生きた激動の時代について解説します。

 

1. ブリューゲルが生きた「狂気と弾圧」の時代背景

ブリューゲルが活動した16世紀半ばのネーデルラント(現在のベルギーやオランダ周辺)は、宗教対立と政治的弾圧が渦巻く、いつ戦争が起きてもおかしくない一触即発の時代でした。キリスト教の分裂と対立:当時、ヨーロッパでは宗教改革の嵐が吹き荒れていました。カトリック(旧教)とプロテスタント(新教)が激しく対立し、人々の心は不信感と恐怖で引き裂かれていました。スペイン(ハプスブルク家)による恐怖政治:ネーデルラントを支配していたスペイン国王フェリペ2世は、プロテスタントを徹底的に弾圧しました。「異端審問」によって多くの市民が逮捕・処刑され、密告が横行する極めて息苦しい社会でした。迫りくる戦争の足音:実際にこの数年後(1568年)には、スペインの圧政に耐えかねた人々が蜂起し、後に「八十年戦争」と呼ばれる泥沼の凄惨な戦争へと突入していきます。

 

2. ブリューゲルが『悪女フリート』に託したもの

「フリート(Griet)」とは、当時のフランドル(ベルギー)の民話に登場する「悪口雑言を撒き散らし、悪魔さえも恐れさせる狂暴な悪妻(悍婦)」のキャラクターです。ことわざでは「地獄の門の前で略奪しても無傷で帰ってくる」と言われるほどの存在でした。ブリューゲルはこのお馴染みの民話を借りて、主に以下の3つのメッセージを絵に託したと言われています。

① 人間の「強欲(ごうよく)」と「盲目さ」への風刺

フリートは鎧をまとい剣を持っていますが、地獄を攻撃しているわけではありません。彼女の目的は、地獄から「金目のものを略奪すること」です(抱えた袋から鍋などの家財道具が溢れています)。後ろに続く女性たちも、悪魔を叩きのめしながら略奪に狂奔しています。ブリューゲルは、迫りくる地獄(破滅)の恐怖も目に入らず、目先の利益や物欲・強欲に突き動かされて狂気へ向かう人間の浅ましさと愚かさを痛烈に皮肉っています。

② 戦争の狂気と不条理に対する抗議画面

全体を覆う血のような赤と黒の煙、破壊される家々、怪物たちの暴力は、まさに「戦争がもたらす地獄」そのものです。男たちが戦争の理屈(宗教や政治)を並べて争っている間に、世界は狂気に染まり、人々が鬼夜叉のようになっていく。ブリューゲルはフリートの凄まじい突進の姿を通して、「戦争という狂気がいかに人間性を破壊するか」という強烈な反戦のメッセージを込めたと考えられています。

③ 「世界の反転(秩序の崩壊)」への危機感

当時は「男性が社会や家庭を支配するのが正しい秩序」とされていた時代です。そのため、「女性が武装して暴れ回り、男(悪魔)を圧倒する」という構図は、当時の人々にとって「世界の秩序が完全にひっくり返ってしまった絶望的な状況(末世)」を意味していました。宗教や政治の対立によって、正しいモラルや社会秩序が崩壊していくことへの、知識人としての強い危機感が表明されています。

 

野間宏『暗い絵』とのつながり

ブリューゲルが描いた「宗教や政治の対立で社会が狂気に染まり、人々が破滅に向かって暴走していく16世紀」は、野間宏が『暗い絵』で描いた「軍国主義へと暴走し、若者たちを死へ追いやった1930年代〜40年代の日本」と驚くほど一致しています。野間宏はブリューゲルの絵から、時代を超えて共通する「歴史の狂気と不条理」を感じ取り、それを自著のタイトルとして選んだのです。

★★

 

地獄の口をあけている顔は、どっかの大統領に似ている、
フリートは、悪というより、空虚と愚か。だからたぶん、どうしようもない。

フリートは「悪口雑言」をまき散らしているらしい。
そして突然、私は、中学3年のクラスで、女子たちが自習時間を他人の悪口で埋め尽くしていた気持ち悪さを、思い出して、成績のよい子も悪い子も、悪口がおしゃべりだった、思い出して、とても生々しく気持ち悪い。悪口が楽しい転校生がひとりいて、またたくまにその空気感に、クラスが呑まれていった感じだった。
すさんだクラスで、教室にいるのがとてもつらい1年だったので、思い出したくなくて、覚えている。

どこにでもいたフリートたち。

 

消えた町名を探せ

消えた町名を探せ。

6日。息子の運転で、四国へ。愛媛南予の海の方へ向かう。息子の最近の趣味のひとつらしい、平成の市町村合併で消えた町名村名が残っている立札とか、看板とか、そんなものを探す。そんなの、田舎にゆくほどに、道を歩けば楽しい遊び。磯の匂いがする。私の親たちが旧町名で呼んでいた近くて遠い町や村、私には遠いまま、触れずに消えてしまったのを、息子がその痕跡を拾い集めているのが、ふしぎ。

 

帰省したけれど、誰にも会わない。父が暮らしていた家のあたり、なんにもなくなっている。昭和50年頃につくられたトーフ型住宅はすべて消えて更地になっている。その跡地の半分くらいに、新しいアパートがA棟からE棟までできていて、住民たちは住み替えた、ということなのだろう。かつてそこには小さな保育園があり、小さな公園もあり、幼馴染みたちもいた。牛も鶏もいた。たくさんの噂話がゆきかい、諍いや涙や、子どもの私の頭を撫でてくれたおばさんもいた。名前も忘れた。ひとりでこの路地を通ってはいけないと言われた記憶があり、でも、人々がおそれた何かは、何だったのか。この更地にすぎなくなったもののうえに、何の幻があらわれて消えたのだろう。

昔、中上健次が、宮本輝との対談で(いつだろう、80年代の文芸誌の対談で)、路地が消えてしまったことを言っていた。路地が消えたんだ。文学の豊かな舞台が、行政によって物理的に消されたことが、やるせない感じの発言をしていた記憶。
愛があった、というわけでもないけれど、トポスまるごと消えている衝撃。

駅のあたりの宿、商店街あたりはシャッター街。なんて静かな。高校も、半世紀の間に、どれだけ消えただろう、消えてゆくだろう。消滅都市、ということになるかもね。夕映の閑散とした町を歩きながら、こういう滅びゆく町に住んでそのまま一緒に滅ぶのでもかまわない、と私の息子は、言うのであった。辺境でしずかに生きていく人になりたいらしい。

翌朝、まず松野の芝不器男の生家にゆく。ときどき立ち寄りたくなる、まるで、実家をのぞく感じに。

 

  あなたなる夜雨の葛のあなたかな 不器男
郊外学習の中学生たちが、大きな声で、おはようございますって、挨拶してくれるのが、ほんとうに大きな声で、笑ってしまった。ふと、都市は、声をひそめて生きるようになる、と思った。
駅の温泉の木材の匂い。広見川。こんな景色のなかで暮らしたかったよね。

さて、檮原経由して、竜馬脱藩の道あたり、昭和なお蕎麦屋さんで、蕎麦食べて、高知に向かう。息子の好きに走らせたら、おそろしい山道をゆく。ふるえる。あちこち、消えた町名を探しながら寄り道もする。旧大野見村役場の、新しい多目的トイレが感動的だった。子ども3人、年寄り1人連れて入っても余裕の広さ。

高知のどこか山の中。こいのぼりが翻っていた。

絶景も。遠くに須崎の海。

それから高知一泊して、広島に戻った。

 

海から海へ

いまのうち、という言葉が響いていた。
冬頃に、息子のためにディスクトップ型の新しいパソコンをパパが買っていた。まもなく高騰していたから、いいタイミングで買えた。
あの子のノートパソコン、役所の払い下げの安いのを使い倒して、キーボードのキーがもげてもなお使っていたの、そろそろ限界っぽかったのだ。

その他あれこれ、一人暮らしの行き届かなさは、想像つくので、生活の備品なども抱えて、4月の終わりに鹿児島に行く。まだガソリンが安いうちに。
いまのうちに。

椅子が壊れそうになっているのに気づく。リサイクルショップで見つけた中古を4年使ったから、新しいのを買おうか、車のあるときに運んでしまおう。で、買った。高いの、選んでくれて。でも、いまのうち。
冬に本棚を買ったのが、棚板が足りない。品切れでしばらく買えなかったのを、買い足してくるが、数百円値上がりしている。

休みの日、東シナ海を見に行く。ちょうど干潮だったけど、それはそれで迫力ある干潮だった。

海に面して、昭和な食堂がありにぎわっていた。安いし美味いし。地方は、食はしあわせ。枕崎まで出て温泉へ。夜は、家族で部屋飲み。

連休は帰省して、四国にも行きたいというので、そうすることにする。

6日、瀬戸内海、しまなみ海道を渡る。

夕方、宇和島に着いて、宇和海沿いをドライブする。

7日、四国山地を越えて、太平洋、桂浜へ。
桂浜は3度目。最初は中学か高校のころ、兄たちに連れられて行った、着いたら暗くて、雨で、海は荒れていてこわかったわ。2度目は息子が高校1年のお正月(父が亡くなる前の月なので憶えている)、特急列車とバスで。晴れていて暖かくて光が眩しくて、記憶の上書きができてよかった。3度目は、曇り。

8日、帰りは瀬戸大橋を渡る。車で渡るのは17年ぶりくらい。知人を乗せて、香川までお墓参りに行ったのだ。そのひとも、もういない。

9日は、国道191号を、走破する。中国山地を日本海へ抜けて、下関まで。

そこで、息子と別れる。鹿児島から広島、愛媛、高知、広島、山陰まわり下関まで、すべて息子が運転した。どれだけ走ったんだろう。夕方下関で息子と別れてから、パパの運転で、さすがに高速にのって帰ったけれど、12時間ドライブだったのだ、車を降りても、しーばらく世界がゆれていた。

息子、車が必要だと主張する。中古で買うという。田舎住みには、絶対に必要なのはわかってる。反対もできない。やりくりが、やりくりが、いろいろ心配すぎて、私はもう考えられないので、いずれもっと苦しくなるかもしれないし、いまのうち、旅先で、食べたいものは食べておこう。
宇和島で、じゃこ天、鯛めし、さつま飯、高知で、カツオの藁焼きを、家族に食べさせることができたので、満足です。子どものころは、日常的に、よく食べていたのに。いつのまにか郷土料理、という高級っぽいものになっていた。
あと、長門でふぐの刺身も、少し食べた。

東シナ海からはじまって、瀬戸内海、宇和海、太平洋、日本海をめぐった、目が海になって溶けていきそうだった。昨日日本海は真っ青で。



 

何が私をかうさせたか

ずっと昔、たぶん二十代の初めころに、ヴァージニア・ウルフ「私だけの部屋」を読んで、泣きそうになった記憶があり、のちに、アリス・ミラーが、ウルフの精神分析をしている本を読み、最近になって、フェミニズムの文脈で何度も出会う。読み返したいが、古い文庫の文字は小さくて、紙は茶色くて、売ることもできないほど古いから手もとにあるのだが、読み返せないでいる。
ボーヴォワールも同じ頃に読み、実存主義はサルトルより、ボーヴォワールのほうが断然わかりやすかった。読み返したいが、これも、文庫の文字が。

それらがいまにして、フェミニズムの言葉で繋がれるとは、当時は思ってもいなかった。読んで、きれぎれの共感で、なぐさめられていたのだ。

フェミニズムの話になると、いやな感情に触れる。被害とか加害とか、妙に感情に絡むのが、あれですけど、歴史認識からの出発が適切だと思う。こういうときは岩波新書。江原由美子「フェミニズム」。

近代、フランス革命からの話。フランス革命の人権宣言(すべての人間は平等である)から女は排除されていた、という話に驚く。「女性は理性がないから」という偏見が理由だが、女は人間じゃないんだって。女性に市民権は認められなかった。
私、中学2年の夏休みの自由研究、フランス革命調べた。本何冊も読んで、ノート一冊書いたけど、女性に人権がない、なんて書いてなかった。知らなかったよ、そんなこと。
ないだけでなく、ないことさえないことにされていたのだ、ということか。

フランス革命の有名なあの絵は、ドラクロワの自由の女神の絵は、女性が旗をもって民衆を導いているのに。あの女性に、人権はない。

その後、貧困階層への慈善活動や奴隷解放運動のなかから、女性参政権を求める動きが起きてくる、という歴史の流れ。
人類史が、自ら片翼を捨てたり虐げたりしてきた、その片翼を、すこやかに存在させようという大きな流れ、問いと模索と連帯の流れのなかにある、ととらえたうえで、考えるのがいいと思う。正しい答えがどこかにあるのではなく、問いつづけ模索しつづけるほかないことだと思う。

親しくしてもらった在日二世の被爆者のチャンポッスンさんが、亡くなって20年くらいになるのかな、たぶんもう40年くらい昔だけど、子どもの頃のお話聞かせてもらったときに、
自分が朝鮮人だと思い出したら、足元から地面が消えるような気がした、と言ったとき、
私、中学生高校生だったころ、自分が女だと思い出したら、まさに足元から地面が消える、恐怖と不幸の予感のなかにすべり落ちる感覚に、とらえられたことを思い出した。その感覚を振り払うように、勉強しなきゃ、本読まなきゃ、と思っていた記憶。

女だということは、2分の1の確率であたりまえのことなんで、少数派の不幸や抑圧につながるものがそこにあるとも思わなかったんだけれど、つながるものがあったんだ。

 

映画を観た。「金子文子 何が私をこうさせたか」
最初の場面。親戚にいじめられていた十代の文子が、川で死のうとする場面から。そのときに、私が死んだら、大人たちは、勝手な嘘を言うだろう、それに対して、それは違うと言い返すこともできないのだ、と気づいて、死ぬのをやめる。
共感を呼ぶ場面と思う。ずっと昔に、私もそう思ったことがあると錯覚するもん。
そこから無政府主義者になってゆく、文子に文子の素直な理屈があることが、映画でもわかって、美しかった。

本、持っているのでした。「金子ふみ子獄中手記 何が私をかうさせたか」黒色戦線社。1972年刊行。
どこでどうして手に入れたものか記憶にないんだけれど、20代のどこかで読んだ。素直な自我だと思った。それが獄中死につながってしまうのは、世の中が狂ってるからだが、この素直なまっとうな自我が、本として傍らにあることは、私には何かしら、心強いことでありつづけた、と思う。

子どものころ、母が、
「女の子なのに、こんなに我が強くて、どうやって生きていけるのだろう」と、娘の私のことを嘆いていた。その後の私や、私の兄弟のことを心配せずにすんだぶんだけでも、母が早く死んだのは正解だと思うけれども、
我が強くてよかったんですよ、もっと我が強くあるべきだったんですよ、
とお母さんには言いたい。