下宿人

ときどき息子は、私のパソコンを使う。宿題終わってからね、という話になってて、だいたい普段は宿題終わらないから、触れないけど、連休なので、パソコン使っていた。
で、
母のブログを読んだらしいのだ。
「なんで読むのよ」って言ったら、「開いたら出てきたんだよ」というので、私がちゃんと閉じないでいたのだろう。
息子、「ブログを読んで、おかげで自分のことが客観的に見つめられたよ」
と、えらく客観的なコメントだった。
なに、その冷静さ。

「ママは、母親というより、下宿人だからな」とパパが言った。
「この家の下宿人であるママが、もうひとりの下宿人であるおまえをあれこれ観察して、その観察日記をつけているわけだ」

母親でも妻でもなくて、下宿人。そういう言い方は以前からときどきする。最初は、不満の響きがすごくあったけど、だからといって、ほかにどんな存在の仕方が、私に可能なわけ? みたいな不毛な口論もあったような気もするけど、いまは、不満の響きはないので、あきらめか受容か、の境地にいたったのだろう。
「でも、こういうママでも、おまえのことをものすごく愛して、心配もしていることはたしかだ」
と、それはフォローしてくれているつもりでしょうか。

でもママは嘘は書いてないし。「ちっとも」と息子。
おもしろかったでしょ。「とっても」と息子。
「ママだけ書いているの、ずるい。ぼくだってブログ書きたい」と言う。
私、それ読みたい。
って、きみのことだから、電車の話でしょ。

英語の長文読解の✖のところ、間違っているのは、たぶんこういうことなんだろうなと、国語の現代文でも同じような間違いかたをするんだけど、たとえば、ある言葉やある文章に触れると、記憶のなかの何かが作動して、そこに書かれてある文章とは違う物語や論理が自分のなかで流れてゆく。それで、目の前の文章が、脳内の別の文章とすり替わってしまう。
クラスの洪水ちゃんが、思いついたことを勝手にしゃべりだすみたいに。こないだ観た「フォレスト・ガンプ」のおしゃべりみたいに。
で、頭のなかのもうひとつの物語にひっぱられて、実際には書かれていないことを、書かれていると思い込んで、答えて間違える。
「ママ、それ図星。フォレストになるんだ。」
やっぱり。
私もよくやった、そういう間違い。

文章に書かれていることと、脳内に流れていることとの区別がきちんとできるようになると、試験の点数はすこし取りやすくなる。そこの区別ができないと、私たちの読解は、期待されている正解から、いつもすこしだけずれてしまう。
そのずれに、自覚的になれると、たぶん、すこしだけ楽になる。

読解の間違いは試験に限らない。人生のあらゆる場面についてまわる。書かれてあることだけを、読解すればいいのだから、簡単な話だ。テストなんて。
書かれていないものの読解をまちがって、ひどい目にあうこともある人生なので、たいへんなのだ。

「ママは下宿人だからな」の言葉の裏に何が貼りついているのか、読解を誤ってはいけないところだな、という気はしたんだよね。でも、間違うときってどうしようもなく間違うし、でも幸い、持続可能な平和な距離感として、まあまあ正解かなと思うんだけれどね、この家については、いまのところ。たぶん。私が読み誤っていなければ。