ニューロ・ダイバーシティ

朝、外に出たら、金木犀の香りがする。10月。
雨が来る前に、花を摘んだ。半分砂糖漬け、半分焼酎+氷砂糖漬けにしてみる。息子の弁当にも飾ってみたが、花小さすぎて、気づかなかったらしい。

f:id:kazumi_nogi:20191002172303j:plain

私の、中学のころの通学路の(ほんとは通ってはいけない近道)角の家に金木犀があって、あの道を通っていたあの頃の自分、あれから見失った友だち、幼馴染たちのことを思い出す。
故郷を出てしまったら最後、地元に残った誰かとつながっていなければ、消息なんてわからなくなる。そしてたぶん、私も行方不明のひとりだ。

息子と2年間同じクラスだった女の子、今年は美術のクラスが同じ、はずの、ぎりぎりちゃんが、学校をやめたらしい。「仲間がひとり去った」と息子。ASDの聴覚過敏仲間だった。2年のとき、クラスが美術の時間がとりわけうるさくて、ぎりぎりちゃんが、うるささの源の男子(ADHD)に向けて、使い捨てカイロを投げつけ、息子は消しゴムを投げつけしていたという話を思い出すけど。
朝、お母さんが車で送ってくる、その車のなかで、いやだ、帰る、と泣き叫ぶ姿は何度か目撃されていて、ずっと不登校ぎみだったのが、もうほとんど来れなくなって、前回の定期考査は受けに来たけれど、吐いてしまった。
美術の時間の出席をとるのが、先生が名前を呼ぶけれど、返事がないという状態から、先生が名前を呼ばない、に最近変わった、ので、ああ、去ったのだな、と。

私の1歳年上の幼馴染の利恵ちゃんは、今から思えば自閉症仲間だったに違いない。中学で不登校だったらしい、高校で同学年になった。中学のときに彼女はいつのまにか引っ越していたから、何年ぶりで再会したのだったけれど、お互いになぜか一言も言葉を交わすことができなかった。体育が同じクラスで、1年の秋、出席をとるときに返事がなくなり、冬休みがあけたときには、もう名前を呼ばれることもなかった。あの時の、不安感、喪失感。
でも、いつかまた、会える気がしていたんだよ、そのときにはまだ。

息子はいまのクラスが、いまだに居心地が悪い。女子が多いのもあるが、男子も半分は苦手らしいのだ。席が一番端の一番後ろだったときは、疎外感半端なかったが、いまは一番端の一番前で、後ろが洪水ちゃんなのが、また大変らしい。「ぼくは彼女の個性は理解しているよ、ぼくと一緒だと思うよ、でも授業中に背後で突拍子もない声でひとりで話しはじめるから、もう、耳が死ぬ」
その洪水ちゃんは、最近、授業中にお菓子を食べるそうである。席が近い人たちは気づいているが、言いつけたりはしない。言いつけたりはしないが、ばれる。授業中、先生に呼び出されて叱られた。
はずだが、懲りずにまたこっそり食べている。ばれないように、以前より工夫している、みたいだけど、まわりにはばればれ。「良くも悪くも、嘘のつけない人ですよ」と息子の洪水ちゃん評。

そういえば私、中学のとき、給食の残りのパンを、午後の授業のときに食べていた。という話を息子にしたら、えええっ、とひかれた。

でも居心地悪いといいながら、息子のまわり、同じように居心地悪さを感じている男子たちが、ひとりふたりといるようで、それはそれでひとつの居場所だ。

さて。16歳のグレタ・トゥーンベリの登場で、何より印象的だったのは、話の内容はさておき、その文法のわかりやすさだった。何このシンパシー、何このはらはら感、と息子も思ったらしい。彼女が自分がアスペルガーであることは誇りだと語っているという記事を目にして、ああそれで、と何か納得していた。
彼女の記事と一緒に、目に飛び込んできたのは、「ニューロ・ダイバーシティ」(脳の多様性)という言葉だ。これはいい。
私が子どもだった頃には、名前がなかった。「へんな子」としか。それから名前がやってきた。アスペルガーとか自閉症とか発達障害とか。でも、私には私があたりまえなので、「ニューロ・ダイバーシティ」という把握はとても自然で、すごくいい。
グレタちゃん、誕生日が私と一緒だわ。

f:id:kazumi_nogi:20191002172420j:plain

シュウメイギクも咲いていた。