星ヶ丘ゆき

kazumiの日常雑記

クリスマス・イブ

気づけば12月も半ば。
どうしようねえ。今年も終わってしまう。

この時期になると、わたしんちのBGMは、山下達郎の「クリスマス・イブ」である。パパが毎年かけているのだが。
今年は、それに、息子のピアノが加わった。ピアノ教室のクリスマス会で弾くのらしく、先月からずっと練習している。
ピアノの練習しながら、させながら、父も子も、なんか妙に熱いのである。 まあ、楽しそうかも。

渡辺京二『逝きし世の面影』をうっとりと読んでいる。 外国人の眼に映った近代以前の日本人の姿が、あまりに愛らしく、慕わしい。
貧しい庶民が嘘みたいに陽気で、子どもっぽくもあるけれど、とても幸せそうだ。 

四国の、郷里の山や海の景色を思い浮かべる。なんとなく腑に落ちるようでもある。暮らしの幸福感なしに、あんなふうに、天に至るまでだんだん畑を切りひらいたりできないだろう。

「逝きし世」なんだろうな。

正月の光景がなつかしい。冬休みになると、百人一首を引っ張り出して、おさらいして、母と競った。正月3日間は、脳性麻痺の寝たきりの女の子がいて、遠出できない従姉の家に、うちの家族や叔父や近所の子らや、集まって、酒飲んで、寝る間も惜しんで、花札してトランプして、凧つくって凧揚げした。
大人も夢中で遊んだし、子どもの私も酔っぱらっていた。 自分を笑っても、人をからかっても、傷つける、ということがなかった。
あんなふうに、陽気でおだやかな空間が、かつてあったことが、夢みたいだ。
気難しい年頃になっても、あのお正月の数日間は、子どものころと変わらずに、風土にも、人間にも、うちとけていた。

私が子どもに、伝えることができないのは、そのような風景で、それはたぶんさびしいことだ。百人一首やトランプをひっぱりだしてきたって、どんなふうに語ってみたって、あの慕わしさを伝えることはできない。
私ひとりでは決して再現できないことなんだと、ひっそりとせつない。

パパの家族の文明はまた全然似ていないので、あの消えてしまった光景の代わりはついにないのである。

息子がなんでもないことで、ほんとに阿呆みたいなことで、笑ったり、わけもなく機嫌よく歌っていたり、するのを見ていると、ときどき吹き出してしまうんだが、こんなふうな機嫌のよい陽気さで、一生生きていっていけない理由はない、と思った。

不機嫌な大人にならなければいけない理由なんかなんにもない。

あれこれのやりくりとか、心配ごととか、あったんだが、途中でもう、笑いたくなった。

兄が、食料を送ってくれたのが届いて、ついに冷凍庫に入りきらないので、がんばって調理した。肉もある魚もある。このまま正月明けまで籠城しても、大丈夫。
電話して、兄や叔父の声聞いたら、昔のあのお正月の景色が、またふっと浮かんでくる。

「逝きし世」の。

今年もゆきますね。やっと冬物衣類、出した。あとは掃除だ。