よもだ

「小説家になるくらいなら、くたばってしまえ。
くたばってしまえ。くたばってしまえ。
ふたばていしめい。
そうだ、ペンネームはふたばていしめいにしよう。」
ゆうべ子どもが、何度も言う。
「それでママ、小説家って何。ふたばていしめいって何」
ってきく。

学校の図書館の、日清戦争日露戦争の歴史まんがに、そういう場面があったらしい。それでその「くたばってしまえ」に魅了されたんだな。

二葉亭四迷。大学の頃に読みましたが。なんでこれが文学史に残る本なのか、わかんなかったな。とりとめもなくて。言文一致でしたか。さらさら読めたけど。



「よもだ」という言葉を思い出した。
共通語だと思っていたけど、どうやら、思いっきり方言らしい。

「よもだ言うな」とか、「よもだ話よ」とか。
何かしゃべると「あんたはよもだばっかり言う」と叱られてましたが、
まあそういう意味。
へ理屈を言う、道理に合わんことを言う、そんなニュアンスかな。
「あのばか、よもだばっかり言いやがって」とか。
あるいはそういうことを言う人間のことも「よもだ」って言う。
「あいつはよもだやけん」
くだらんことや、文句ばっかり言って使いもんにならん人間、というぐらいの意味か。翻訳するとおそろしいな。

自分の話を「よもだ話よ」と言うようなときには、
自分のしゃべりたいことをしゃべりたいようにしゃべったことへの、謙遜の気持ちみたいのもあったりとか。
「うちのよもだ話につきあわせてわるかったね」とか。

「よもだ言うな」って、あの土地の子どもなら何百回も聞いて育つだろう。ふざけてると「ぞえるな」、動いたり走り回ると「つばえるな」、ききわけなかったり、抗議すると「よもだ言うな」と言われますね。

女の子が本なんか読んだら最悪である。尻の重い(手伝いをしない)口数の減らんよもだになる。
「ブンガク? よもだやろが」
と、うちの父あたりが、吐き捨てるように言うのが、目に浮かぶ

二葉亭四迷が書いたのは、よもだ話である。
と思ったら、なんかおかしくなった。
くたばっちまえだ、たしかに。

よもだ、の語源はなんだろな。四方? 与太話? 「よもしれん」(とんでもない。世も知れん、か)と関係あるかな。
なんでもありいだ。

面白い話は、よもだのなかにある(ないこともある)。自由も。

詩歌も、よもだである。自由だ。
でもたぶん、よもだにすぎないのを忘れると、不自由になる。

それで、よもだの言うことやもん、蔑まれてなんぼ、ぐらいの話だ。

だけれども、
「あんたのよもだ聞くわい、うちのよもだも聞いてや」
となると、心通うお話ができる(可能性がある)。



ああそうだ、加藤治郎さんの新歌集『しんきろう』の帯の言葉、
「この寸寸(ずたずた)の世界は再生できるか。ぼくはきみと話したい。」

この「話したい」は、よもだを言い合いたい、だと思う。

おじさんのよもだを聞くのも、悪くないなと思った。
よもだによって開かれる回路もあるのだ。

という感想は、たぶん歌会向きではないので、ここにこっそり書いときます。



昨日の午後は、子どもと畑。
イチゴ狂想曲は、そろそろ終わりも近そうだが、それでも昨日もひと袋とれた。
農家の人が言うには、土との相性がいいと、苺は育つんだそうです。よっぽど相性よかったんだわ。
子どもは、なんか勝手なことしてる。あっちこっちに、立て札がわりの石を置いたり、ひまわり踏みつけたりっ。
ここに小屋をつくるとか、段ボールハウスならできるんじゃないの、とか、折りたたみ式の段ボールハウスがいいよ、とか、あこがれている。

しっかし。この子ども、よもだばっかり言って、全然手伝わん。
おかーさんはひとりでイチゴを摘んで、ひとりでニラを植えて、ひとりで水をやりましたっと。