半世紀前の

17日の夜、地震。すこし長く感じたけれど、震度3か4ぐらい。震源地どこだろうとテレビつけたら愛媛南予、高知西部。宇和島から宿毛のあたりが震度6とか5とか。遅いし、兄の電話はつながるかわかんないし、と思っていたら、息子から安否心配のメール。

大丈夫よ。あの人たちは、いのちさえあれば、壊れて困るものも、失って困るものもなんにも持ってない。最強の人たちだから。兄上におかれましては、仮に避難所暮らしでも、食べるものあれば、むしろありがたい話だわ。

などと返事していたら、兄から無事の電話。上の叔父の壊れかかった市営住宅が無事なら、まず無事。津波もないなら。4年前の父が亡くなる前の局地風のほうが凄かったかもしれないし、もうすこし前の、みかん山崩れた大雨被害のほうが大変だったと思う。

息子、ハザードマップ調べたらしい。津波来たら、だいぶん浸かるよって。夏はまた宇和島に帰りたい、と言う。あの子はあの町が好きみたい。

去年の夏の港の写真。
ニュースで町の映像が流れると、少し胸痛い感じする。商店街こぎれいだけど、シャッター街だし。私が子どもの頃はにぎわっていたんだけど。港がお祭りの大漁旗で華やかだった記憶もあるんだけど。
平成の大合併のときに、人口10万人って言っていたのが、いま6万人。2060年には3万人を切るっていう。

さて、伊達博物館があるんだけど、できて、もう50年経つらしい。三月になると、伊達のお雛様見に行こう、って誘われて、見に行ったりしてた。子どものころ。
狭くて古くて、耐震の問題もあるし、建て替えの話があるらしい。向かいの広い公園に、隈研吾氏の設計で、って。でも反対する人たちもいて、建設費維持費がすごくかかるせいだけど、人口が減るのに、50億かけるなんてとんでもない、ってことらしい。市役所に押しかけて、公務員だろ、話を聞け、とか、宇和島一揆だ、とか、叫んでいる映像を、ネットで見た。博物館なんかいらん、ものは伊達に返せばいい、とか。

さびしいよな。

むかし父が、伊達家の蔵の修理をしたことがあるらしいんだけど、その蔵のなかに、もともとあったものを、博物館つくって展示したんじゃなかったっけ。蔵の修理には、城山の棕櫚の皮を剥いで使ったんだって。

隈研吾氏は、四国でいろいろつくってるのかな。高知の梼原町の図書館は、よかった。あんなのが宇和島にできたら、帰省するのも楽しいと思うけど。それで住民が増えたりはしないし、観光客来るかな。

過疎化は加速する一方だろう。  

「旅の重さ」という映画があって、素九鬼子原作、高橋洋子主演、吉田拓郎音楽、1972年の映画。家出した少女が、遍路道に沿って旅をする、あの映画の風景のなかに、子ども時代の私もいたんだけど、突然、あの映画をまた見たくなった。
宇和島、石垣の外泊集落も、宿毛も、オールロケのロードムービー。半世紀前の風景を、見たいかな。風土の生命感。

今日までそして明日から(1972映画『旅の重さ』より/詞・曲・唄:よしだたくろう (youtube.com)

旅の終わりの手紙。
「ママ、この生活にわたしは満足しているの。(略)この生活には、何はともあれ愛があり孤独があり詩があるからです」

半世紀を経ても、それは憧れ。

あっというまに

4月。あっというまに、桜も終わった。向かいの森の桜。

2日、パパ、脳梗塞で入院。2週間ほど入院っていうので、そのつもりでいたけど、幸い後遺症も何もなく、リハビリも必要なく、一週間で退院となった。薬が一種類増えた。

ひとりになったら、私、ふとんあげないし、ごはん作んないし。怠けて過ごした。
外は桜咲いてるし、鶯鳴いてるし。バスに乗って、太田川上流まで、遊びに行ったり、近くの山の山桜見に行ったり、ひとり花見していた。

 

退院の朝に、熱があるって話で、検査したらコロナだった。それでも帰ってきて、
感染避けられないと思う。パパがなんでもなくなったころ、私が熱と咳。
近所の高齢者たちみんなお世話になる病院で、院内感染なんて、あんまり言いたくないので、しばらく居留守。咳がまだ少し、残ってるかなあ。

兄が脳梗塞になったときの話が思い出されて、兄に電話をしたが、電話とまってるので、叔父たちに電話。久しぶりに叔父たちと話ができてよかった。「元気?」って言ったら、「死にかけとる」って言うんだけどね。

最近、兄がまた生活がままならなくなってる様子で、言い訳も、嘘も本当もわかんないからどうでもいいけど、貸した金は返ってこないということは、この兄から学んだね。なぜこうなってしまうのかは、本人も一生解けない謎なんじゃないか。

別れた息子に、もう生きてる間は会えないかもしれないと、ちょっと切なそうにしばらく前に言ったりしてたけど、会わせないという、もと嫁さんの気持ちもわかるかな。

郷里の友だちが、「桜が大好きなんやけど、あと何回桜を見られるかと思ったら、せつなくなる。あと30年生きても、30回よ」って、言ってたのを、ふと思い出したりする。
長くても短くても、短いし、はかない。

のどかな春の

三月最後の週は、息子を送って鹿児島へ。あったかいわ。ツツジが咲いていた。好きなことは、したほうがよい。綿の抜けたぬいぐるみみたいにへたっていた息子が、旅が終わると、元気になっていて、あんなに心配したのはなんだったんだろう、って感じ。   

 

春休みの最後を、指宿、山川あたりにドライブ。開聞岳はやはり美しい。空も海も青いし。道の駅のごはん、おいしいし。たまて箱温泉、気持ちいいし。指宿の菜の花畑はもう刈られていたんだけど、傍らに、橋牟礼遺跡。遺跡の竪穴式住居は、土と木の匂いがした。

その次の日は、早朝から嘉例川駅へ。桜を見に。鶯がよく鳴いていた。2年前の5月の連休にはじめてここに来たのだ。私の友人のお父さまが、この路線の横川あたりの生まれで、帰省して、私たちをドライブにさそってくれた。天気もよくて、楽しい気持ちのいい日。滝を見にゆき、温泉にゆき、忘れがたい日になった。まさか、その翌年に亡くなってしまうなんて思わなかった。

 

それから移動して、植村駅あたり。バス停見たら、バスが1日に1本だけくるらしい。菜の花と桜。雲が、なんかしあわせそうに浮いてる。いかにものどかな春の日。

30日。息子を置いて広島に戻る。

春になれば、鶯が鳴くように、花が咲くように、ものごとは自然に動きはじめる。怠けものの私にも、何か不思議な力が働いて、なすべきことはできるだろう、と感じてはいた。のどかな春の日に。

春の旅。北へ。

春の。弥生三月、息子と青春18きっぷの旅。15日朝、始発で出発、名古屋にたどり着く。移動と宿泊は一緒だが、あとはそれぞれ勝手、というスタイル。私は友人に会って、きしめん、はじめて食べる。息子はどっか、電車おっかけてる。

翌日は、はるか群馬まで。高崎前橋を過ぎ、車窓に関東平野の夕焼けを見て、太田市にたどり着く。
駅前で、いい匂いさせていたケバブのキッチンカーで、中東の人かな、ケバブつくるのを30分ほども見ていたら、なんか、小さな子どもに戻っていく感じがした。お祭りのわたあめとか、いつまでも見ていた気持ちの。まわりは、ブラジルかな、インドネシアかな、外国からの若い人たちばかり。街に工場があるから。30分待ったケバブはたいへんおいしかった。

だいたい息子が、前橋であるコンサートのチケットが当たったので、来ることになったんだよね。二次元世界の女の子が、ただ萩原という名前が一緒というだけで、たちまち聖地っぽくなってるのが、ふしぎ。前橋駅から、文学館まで、それからたぶん、コンサート会場まで、黙って、ひとりで、静かに歩くお兄さんがたが、つづいていた。
前橋文学館に二次元の女の子が飾られていて、それだけで、お兄さんたちの列ができているのだ、大盛況の文学館だった。

息子がコンサートから戻るまで、そこで待ってたわけなんだけど、朔太郎の詩の朗読を、寝転んで聞くことができるスペースが、よかったな。

高校生のとき、娘の萩原葉子の「葦麻の家」を読んで、あまりの陰惨に、衝撃を受けたことを、いきなり鮮明に思い出す。祖母の虐待の話、制服のブラウスが一枚しかなかったから、週末に洗って干して週明けに着ていくのだ、というエピソードがあった記憶。朔太郎は、死ぬ前にやっと娘の前にあらわれた、んだっけ。

息子、コンサートに感動してしあわせそうなので、よかったです。光る棒をせいいっぱい振ってきたらしい。架空の女の子に。
その夜は高崎。きれいな半月。風が強い。

浅間山を見たいと思った。鬼押し出し、行こうと思った。高校の修学旅行で行って以来。それならついでに列車の終点まで行くというので、行きましたわ、吾妻線大前駅まで。風吹いてる、雪残ってる。それから少し引き返して、どっからだっけ、バスに乗ろうとしたら、バスがない。時刻表にはあったらしいんだけど。タクシーで行く。浅間山近づいてきて、どきどきする。鬼押し出し園、着いて、降りましたら、
風強すぎる。寒すぎる。なんという日になんというところに来てしまったんだろう。でも、浅間山美しすぎる。ずっと見ていたい。山肌をさらさら雪が流れるの、さわれそうな気がした。

それから東京へ。ホテルはネットで最安値あたりを探すけど、南千住というところははじめて。泪橋。山谷のドヤ。母との旅はいつも安宿、と息子は言うんだけど、そうでなければ、7泊8日の旅なんてできない。きみだって、ひとりならネットカフェを転々するんだし。

翌日翌々日は、私は友人たちと会って、息子は、天気と自分の疲労を考えて、遠出はあきらめて、都内東側と川崎あたりで電車乗ったり撮ったりをして過ごしたらしい。

ある人の、国立での個展に行った帰り、むかしむかし、半年だけ暮らした武蔵境の駅に降りてみる。桜並木の桜の頃を知らないまま、町と別れた。昔住んだ建物はもうなくて、たぶん、大家さんも亡くなったんだろうな。さようなら。

友人たちと飲むときに息子連れていったら、飲んでるし。二十歳だからいいけど。私の二十歳の頃よりは、ずいぶんお行儀いいけど。

遊んでくださったみなさま、ありがとうございます。

21日、東京を出て大阪へ。車窓に伊吹山が見えるあたり、息子のスマホ画面には、進級判定書。 進級おめでとう。

秋からの謎の体調不良→本試験4科目不合格→再試験1科目不合格 (1問3点の不足だが、その1問は誤答とは言えないはず、として)→1問の可否を争って異議申し立て→異議申し立て認められる、ぎり合格点になる→からの、進級決定。
奨学金も継続。驚異の粘りを、ありがとう。

大阪。とりあえずお好み焼きで進級お祝い。駅の北側に星野リゾート。南側に旧職安とか安宿とか。私たちは南側。閉鎖された職安のまわりに机や毛布やいろいろ積み上げてあるのが、何か巣のようなものが連なっている感じ。生きるたたかいがあるのだとおもう。

翌日、神戸に寄って、広島に戻る。夕焼けの時間なので、混雑を避けてわざわざ海まわり。

 

へたっていた

何から書けば。

冬に帰省したときに、息子の様子がおかしかった。頭皮を引っ掻いて瘡蓋になっていたし、眉毛も抜けていた。試験ぼろぼろ落としていた。秋から謎の体調不良だったらしい。きっと、自分で思っていたより体力がなかったし、思っていたより集中力がなかったし、思っていたより、不器用だった。
結局4つ再試で、2月は潰れ、でも大丈夫よ、と言っていたが、1つ不合格だった。
そんなはずはない、と息子は思った。解答開示を求めて異議申し立てする、と言った。

自分が学生だった頃のこととか、きれいさっぱり忘れて、しあわせだったのに、私。

朝起きれず夜眠れず、講義に出れず、血圧も低くて献血できないほどだったけど(ジュース欲しさに献血車には近づいた)、めまいや立ちくらみは、あたりまえではないのだ、とも知らず、
他人の言うことに従っても、その結果がどうなるかは、他人はかまわないのだ、とか知らず、

留年するわ、次の年も留年するわ、授業料払えなくて、ほぼ一年中掲示板に名前張り出されるわ (前期の授業料を前期の終わりに、後期のは後期の終わりに持っていってたせいで。毎月すこしずつ貯めて)

掲示板見なければ平気なので平気だけど、それがちょうど、いまの息子と同じ20歳の頃だ、とか思い出すのが、すんごい、いやだ。

助けてって、言いなさいね。まわりに優秀な大人の同級生いるんだから、教えてもらいなさいね。自立って、依存先を増やすってこと、ヘルプが言えることだからね。自分が助けてもらってないと、人を助けてあげることもできない、、と息子には言うんだけど。

助けてって言えなかったし、言うことを思いつかなかったし、言う先もなかった、あたしは、ま、いっか、死んだっていっか、と思って生きてたな。

万が一、留年したら、奨学金が支給停止になる、授業料免除もなくなる。どうやって学生生活を続けさせられるだろう。授業料だってバイトして貯められるような金額じゃない、どこに借金すればいいのか、考えなければならず、親も、かなりぞっとしたのだ。

思い出したくもないんだけど、むかし高校生の頃、借金の取り立ての電話が毎晩鳴りやまず、ヤクザがやってきてたころのことを、思い出す。
あのころ、学校からの帰路、家が見えてくると、体がふるえた。古い木造の二階家だったけど、家は怯えた獣のように思え、私は、怯えた獣の腹のなかに帰っていかなければならない。

自分にお金がないのは全然かまわないけれど、借金はいやだ。子どもに借金させるのはもっといやだ。

だから、給付型の奨学金は、ほんとうにありがたいのでしたが、留年したらたちまち支給停止される。その奨学金だけをたよりに進学した子は、どうなるんだろう。留年なんて、するときはする。18歳や20歳の子が失敗せずにすむとしたら、そのほうがむしろ奇跡で、あたりまえじゃない。それをあたりまえというなら、そのあたりまえに追いつかない子に対して、制度はとても冷酷だ。
奨学金が支給停止されて経済的に詰んでしまうのは、それは学生の落ち度でなくて、制度の不備だと思う。せめて、進級したら再開できるのでなければ。

3月になってしばらくして、解答開示から、1問の可否を争って、学部長宛て異議申し立てしたという息子を、迎えに行く。いろいろ疲れたんだろうな、息子はへたっていた。なんというか、綿が半分抜けたぬいぐるみみたいな感じ。もう、疲れて、どうでもいいって感じ。

私も、どうでもいいって感じ。どう転んでも、きっと楽しい人生だわ。

 

それで温泉いくのだ。たまて箱温泉。開聞岳のあたり。海に向いた露天風呂。雨模様の空で、風が吹いて、お湯は温かいけど、風は寒い。遠く屋久島のほうの海に、雨の柱が立っていて、やがて雨も降り始めて、顔は雨に濡れる。あったくて寒い、なんだかすごい天候を裸で存分に堪能した。

結果だけ書いておくと、異議申し立ては通って、無事進級になったんだけど、それを待ってる1か月がさ、なかなかしんどかったよ。

 

他人の青春

新年も、もう1か月過ぎようとしていて、はやいなあ。
年末に、息子が帰省してきたのが、青春18きっぷで2日かけて帰ってきたのはいつもの通りだけど、ちょっと心配な感じだった。頭皮をひっかいてかさぶたになってるし。

疲れ果てながら、自分が疲れていると気づかない、そして何も手につかない自分が不可解、という状態なら、私も身に覚えありすぎる。

わりとあたたかい冬だなあと思っていたけど、寒い寒いと、息子は言う。
きみは南の国からかえって来たんだよね。渡り鳥だな。
郷里の兄から、じゃこ天とかまぼこ届いて、まあまあお正月。

1日、息子と一緒に映画に行った。去年も行ったな。「窓ぎわのトットちゃん」は、いい映画だった。ポップコーンもお正月のぜいたくのひとつ。映画が終わって、スマホを見た息子が能登地震のニュースに気づいた。
この寒い時期に、つらいことが起こった。

2日、電車でどっかに行った息子は、風邪ひいて帰ってきた。ゆっくり休めばいいのに、電車に乗らないと死ぬとばかりに、出ていって。
中高の同窓会は出席しないつもりだったらしい、最初から。成人式は、日程あわないし、出席しない。
私もそうだったけど。きみは出席してもよかったんだよ。男子はスーツで事足りるのだし。

あとで同窓会の写真、友人たちのインスタのを見せてもらったら、女の子たちが着飾って、きれいになって。その数日後には成人式の着物も着るわけで、いやいや、ひるむ。私はひるむ。

自分の成人式の日に、昼から深夜まで働いていたのは覚えている。着物姿の若い子たちが次々くるから、水やら料理やら運びながら、結婚式かなと思って、ああ成人式かと思い至ったときの、奇妙な気持ち。おんなじ二十歳だけど、向こう側にいる人たちのことが、見当もつかない、あちらは異星、さもなければ私が異星。

 

家族で車で鹿児島まで行く。息子も運転するので、パパは楽になった。
風邪と頭痛鼻水。息子の部屋でぐうたら過ごす。でも、たまて箱温泉には行った。開聞岳見ると、果てに来たことの満足感あるよね。開聞岳みながら露天風呂のぜいたく。

去年、バス停ができたので、鹿児島市内からバスで行けるようになったらしい。
石蕗の花は秋と思うし、菜の花は春と思うけど、ここではいまごろ一緒に咲いている。

道端で不思議な看板を見かけた。
「密航・密輸の発見にご協力を」と書かれた指宿警察署の立て看板。

「密航とかあるのかな?」と私が言ったら、「あるだろ。その昔はポルトガルとか」とパパ。
いつのポルトガルよ。

 

青春18きっぷの残り2枚で、パパと肥薩おれんじ鉄道に乗りにゆく。フリーきっぷを買い足すと、どれだけでも乗れるのだ。朝、鹿児島を出て、熊本まで行って、夜、帰る。

昼、天気がよかったので、海の青さが、すばらしかった。帰りは夕焼けが。

熊本城は地震のあとの、崩れたのを見て以来。石垣をいまもなおしていた。楠の大木に会いたかったのが、あたり整地中で立ち入り禁止残念。
八代で、おれんじ鉄道乗り換え。八代の駅で鉄道のカレンダー買って、ちょうどそこで、八代亜紀が亡くなったことを知る。八代の人だよね。またひとつこころぼそい感じがする。

出水は、ツルの飛来地だけど、ここに出水があるとは知らなかった。来年の楽しみにする。1日中がたんごとんゆられていた。窓からの風景見ていたら、久しぶりに、子どものころの暖かい冬の、おだやかなお正月を思い出したりした。

がたんごとんゆられているのが、楽しかった。この路線はすごくいい。夏に片道乗って、また乗りたかったの。そしてまた乗りたい。

 

広島に帰ってきたら、寒いね。

そして忘れずに、雪も降った。

高校生のとき、修学旅行ではじめて行った東京で、一度だけ会った人の名前をふいに思い出し、この世いやですね、検索なんかできる。ま、わかんなくてほっとしたんだけど。修学旅行で遊びに行った、とある編集室の話は、たどれた。有名になった人、亡くなった人も。ずいぶん年上と思っていたけど、まだ20代30代だったのか。

あれやこれやの、他人の青春を、思ってみる、など。

 

月を追う途中の

なんて久しぶり。ブログひらくの。何があったわけでもなく、何もなかったわけでもないのですが。
パアラランの写真展終わり(3月にまた隣町の別の公民館でやる予定)、国際協力バザーも出店できた。パアラランにクリスマスの送金もできた。友人のみなさまには大変にありがとうございます。クリスマス・パーティのご報告はまた。

今年も終わりますね。こないだ雪が降って、靴に穴が開いていることがわかった。私いま、息子の履けなくなった靴をひとつずつ履きつぶしているんですけど、穴が開いていることに気づくのは、必ず冬の雨か雪の夜だったなあと、思い出したり。
夏に足が濡れてもつらくないから、やり過ごすんだけど、冬は痛くて冷たくて泣けるから、やり過ごせなくて、靴を買うのはいつも冬の日だった。
次の靴を履こう。

そんなに何もかも覚えているわけではないのだけれど、それなりに記録していることを、読み返せば、ついさっきまでそこにいたみたいに、思い出せる。子どもがまだ小さかった頃のこととか、ほんとにありありと。2歳か3歳くらいの子が目の前に浮かんで楽しいんだけど。
二十歳になった息子からは、試験不合格だったーとか、再試がいくつ、みたいな楽しくない話が届いて、むかむかしてくるのであった。
(この心配のむかむかは、私がまさに、二十歳のころに、生活も学業もどちらもどうにもままならなくなってしまったことが、フラッシュバックされてしまうせいでもあるんだけれども。ほんのすこしの知恵とか知識とか工夫とか、それで避けられる苦しみを避けられなかった悔しみとかとか。)
離れていて、目の前にいないからね。私のなかには、かわいいほうの坊やも、かわいくないほうの坊やも、同時に存在しているのが、不思議な感じだ。
それにしても、あのかわいい子はどこへ行ったのだ、私のかわいい坊やを返してくれないかな。
かわいくないほうの坊やは、年末ぎりぎり帰ってくるんだろう。

振り返りましたら、この1年、蝦名泰洋さんの歌集が出せたことが、まずよかった。もうそれだけでじゅうぶんです、私。歌人の仕事としてじゅうぶん。

短歌研究年鑑の「2023歌集歌書展望」に、林和清さんが「ニューヨークの唇」とりあげてくださっていた。
「なんという寂しい心を持った人なのだろう。そしてまちがいなく優しい心を持つ人なのだ。無国籍風の物語的な歌だと思われるが、彼の歌にはそれを超えた根源的なものがある。孤独を知り尽くしたものだけが、孤独を通じて届けられる明るみを読者は手にするだろう」

昔、蝦名さんと親交のあった、詩人の別所真紀子さんから、お手紙いただいた。「潔癖な勁い魂を持った方でした。惜しまれます」
うれしく、ありがたく。そうでした。あの人は勁かったのでした。さびしさとなつかしさと。
本、読まれてほしいと思います。読まれるでしょう。月を追う途中の私たちに。