ツルと菜の花と温泉と

HAPPY NEW YEAR 2025

低空飛行 大切と思うぞ

 

2025年もすでに10日を過ぎてしまった。息子が帰省しないというので、年末に鹿児島に行って、出水ツル観察センターに。風景が広いのは、いいね。

どこらへんでしょう。行きは海のほうを通った。帰りは、山のほうを通った。温泉が250円って、なんでしょうその値段は。いや、気持ちよかったです。

市比野温泉郷、というところ。中華屋さんに入りましたら、これまた信じられない価格で、普通においしかったです。昔、学生の頃に、下宿の近くの中華屋さんでごはん食べたら、こんな味でこんな値段だった、と、ここがどこでいまがいつか、ちょっと混乱する感じ。妖精みたいな、かわいらしいおばあちゃんがいた。今度行くときも、いてくれますように。

それから次の日は、また枕崎に行って、おさかなセンターでカツオ食べて、これが、食べたくてしょうがなくて、食べてしまって写真がない、帰りに指宿の町のお風呂屋さんに寄って、菜の花も見る。菜の花の向こうは橋牟礼遺跡。

季節をさかのぼるようにして、帰る。

お正月は、省略。

息子帰省しないし、兄にも、じゃこ天もかまぼこも、送ってこなくていいよといっておいたので、お正月はこないのだ。じゃこ天なしに何にもできないわと思っていたけど、枕崎の鰹節のお雑煮は、しあわせだった。

今年もよろしくお願い申し上げます。

 

冬景色 「なりくり」とか「ゆるさと」とか

気がつくとすごく寒くなっていて、ことしももう終わるって、何かにだまされたような気がする。時間の歩幅がざっくんざっくん巨獣のように大きくなり続けてる。平和、なのだろう。生活の綱渡りは、なかなか、なかなかなのだが。

九州の南のはしにいるはずの息子が、12月のはじめにいきなり、函館から写真送ってきた。旅したらしい。

飛行機で羽田乗り継ぎで青森に行き、連絡船で函館に渡った。上野発の夜行列車がないのが、とても残念だと、以前から言っていたが、津軽海峡冬景色の旅をしたかったらしい。函館では雪の舞うなか市電乗り尽くした。
一泊して早朝、朝市に行ったら、店のおじさんと目があったらしい。数日後我が家にカニが届いた。おいしくいただきましたが、あとで絶対生活費足りなくなるやつやん。お金ないので、年末年始帰省しないそうで。

次の夜は連絡船で寝て青森渡って、弘前に行って、今度廃線になるらしい大鰐線乗って、大鰐温泉入って、ストーブ列車は乗っていたら飛行機間に合わないのであきらめて、羽田乗り継ぎ無事、夜中にもどって、翌朝は授業。
息を切らせながら遊んでるよな。こんなにひとり旅の好きな子になると思わなかったけど。試験さえ落とさないでいてくれたら、いいです。

でもそういえば、息子と同じ齢のとき、私は韓国にひとり旅した。まだビザが必要だったころ。戒厳令が解除されて、まもなかったころ。下関から船で釜山。慶州、ハプチョン、ソウルとめぐって、1週間かな、ひとりで言葉もわかんないのに。知ってる人もいないのに。旅費のほかに2万円だけ持ってた。不安はなかったんだけど、別に。全然。本人はね。なりゆきまかせの旅が、嘘のように楽しかった。

それがいま、息子が冬に北の海を渡るというだけで、心配してるのが、ふしぎでしょうがない。息子は楽しかったらしいから、いいんだけど。

「小山さんノート」読んでいて、死んだホームレスの女性の手記、読んでいたら、「なりくり」という言葉が出てくる。小山さんの造語、のようだ。すごいなあ、と思って。なりゆき+やりくり。
月に〇万円しかないから、それでなんとかしましょう、というのが、やりくり。
小山さんの場合、今日100円拾えるなりゆきなら100円のやりくり、明日200円なら200円の、何も拾えないなりゆきなら、それはそれでのやりくり。身近な男の機嫌も毎日どうなるかわからないなりゆきのなかの、やりくり。切り離せないんだな、なりゆきとやりくり。
この小山さんの手記が焼かれる寸前で救い出されて、ノートを読む会ができて、本になったのは、小山さんがかわいそうだったからじゃなくて、小山さんノートに癒される、という体験をした人たちがいたからなのだということに、ふるえる。
たしかにそれは、癒される、という体験なのだと思う。えんえんと、ホームレス暮らしが綴られているだけなんだけど。ペンとノートのしでかすことは、とてもふしぎだ。

「なりくり」で思い出した。「ゆるさと」という言葉。もしもどこにもない言葉だったら、私の造語。昔、たぶん10年くらい前に書いた短歌。

 ふるさとをゆるさととまちがえて書いて、考えているゆるさとのこと  /野樹かずみ

たまにXを見ていて、発達障害関連の記事が流れてくると、そんなに他人事でもないというか、わりと自分ごとで、ちょっとたまんないなとおもいながら、悲鳴のような記事のあれこれたどっていたら、
ASD山脈」という言葉でてきて、人に干渉されるのに疲れ果てた感じ? ASD山脈つくって住みたい、とかいうことなんだけど、
ASD山脈に笑えて、涙が出るほど笑えて、ああ、自分の陣地があるといいなあというか、そういう気持ち。ゆるされている+ふるさと、があってほしいの気持ち。
が託された「ASD山脈」という言葉と思うんだけど。

思えば、ずっと、陣地なしで、塹壕もなくて、どこにいてもアウェーの感覚で、異邦をさまよってる感覚でいたと思う、私も。味方って敵になるんだーって思い知らされたりしながら。
でもいつからか、見えないけれど、ASD山脈を発見している、と思う。あっちの山にAくんがいて、こっちの山にもう死んだけれどBくんがいて、そっちの山にCさんがいる、そういう感覚を、私はこの世の心強さに、思ってるかもしれない。
同じ塹壕にいる家族かな、とか。

ゆるさとが、あればいいな。ゆるさとにいられればいいな。塹壕がある、程度でも。

クリスマス寄付のお願い

12月‼️
たいへん。クリスマス🎄が来る。サンタ🤶が来ない、なんてあってはいけない‼️
パアララン・パンタオへの送金準備中。
日ごろ、最低賃金の3割の日給で子どもたちを見てくれているボランティアの先生たちへも、厳しい暮らしのなか、子どもたちの教育を心にかけているお母さんたちにも、一年をねぎらってあげられるように❗️
謹んで、寄付のお願いさせてください。

 郵便振替 名称 パヤタス・オープンメンバー
   番号00110-9-579521

どうかよろしくお願いします🙇
写真は去年のクリスマス🎄

https://blog.hatena.ne.jp/kazumi_nogi/paaralang.hatenadiary.com/entries

きばらん海、ってさ。

11月も半ばになってる。何があったわけではないが、それなりに心を使いながら疲れながら、過ぎてゆきます。毎年10月はじめに咲く金木犀が、今年は2週間遅かった。そして、あっという間に散ってゆく。中学校のころ通学路沿いの家に咲いたのを、いつも思い出す。何かに誘われていく気持ち、いまはまだわからないけれど、いつか世界というものがわたしにもひらかれてゆくのだろうと、かたちのない憧れの、香りだ。
そして、ここにしか世界がないということ、この人生のほかに人生がないということを、なかなか苦く了解しながら、ここにいる。あの憧れはどこへ。

町内会の大掃除があるので、もうどうしようもなくジャングルになっていた庭と、ほぼ放棄している空地の畑の枝切り草刈りがんばったら、手足あちこち痣だらけになっていた。ずっと暑すぎて手入れする気にならなかった。
パソコンの画面もおかしくなっていて、たぶん10年ほども使っているから、買い換えたほうがいいよとパパが言うので、金ないよと悔しく思いながら買ったが、涼しくなったら、画面落ち着いて、もとどおり使えるではないか。暑さにやられただけだったのだろうか。私、ほんのすこしの変化がわりと大きなストレスなので、まだ古い方を使っている。

ハン・ガンのノーベル文学賞。夏に「別れを告げない」「少年が来る」読んだばかりだった。この作家、スベトラーナ・アレクシーエヴィチやトニ・モリスンのように、いつかノーベル賞とるかも、と思ったけど、まさか今年。うれしく思っていたら、次の日はノーベル平和賞が、被団協で、私も広島にいるので、かつて被爆体験を聞かせてもらった人たちの(多くは故人の)ことなど、思い出した。

学生のころのバイト先だった店は、もう何年も前になくなって、老夫婦は、次女さん一家が暮らすウルグアイへ行った。マスターさん、被爆しているけれど、そのことは絶対に話さないのよ、と奥さんは言っていた。でもウルグアイで、まわりの人に促されて、ごく小さな集まりで、話していた。3年くらい前、youtubeで見た。あの日お兄さんを亡くしたし、自分も死にかかっていたと、話しながら泣いて、泣いてしまうとわかっていたから話さなかったし、反核運動をやっている人たちとは政治的信条も違っていたから話さなかった、と言っていた。
見つけたとき、根掘り葉掘り聞きに行きたい気持ちになったけど、地球の裏側まで行けない。
どんなかたちでも、ひとつでも、被爆体験が残ったことはよかったのだろう。なんていうんだろう、樹の洞をさがす旅だったのかも。人生の終わりまでかかって、地球の裏側まで行って、はるかなふしぎな。
思い出して、SNSを久しぶりに辿ったら、奥さんの胸に遺影のマスターさんがいた。亡くなったんだな。たぶん去年くらいかな。 
生まれて初めてバイトした店。大学よりも長く通った。よくしてもらった。私もよく働いたけど。お世話になりました。
ゆきてかえらぬ。

11月はじめ頃は、息子の誕生日とパパの誕生日があるので、一緒にケーキでも食べようかと、鹿児島まで行って、ケーキだけは食べ忘れてきた。
たぶんそんなことだろうと思っていたとおりの、息子の部屋の惨状だったが。
枕崎で食べたカツオが感動的においしかった。開聞岳は形の美しい山だなあ。桜島でカンパチ丼と小みかんうどん食べたのも良き。

 

息子が学校行ってる間、天文館の図書館に行って、落ち着いて本読めたのがよかったな。それで。

息子に連れて行かれたのが閉店セールの古本屋で、1キロ200円の量り売り!
6600円分買った。本積み上げてゆくの楽しかったね。114冊とCD3枚。こんなめちゃくちゃなぜいたく、久しぶりかな。もうないかもな。
本を救ってくれて、ありがとうございます、とお礼言われた。こちらこそ。一期一会のあづさ書店。
すでに持ってる本も、処分されると思うと、まあ買ってしまって、息子の部屋に置いてきた。息子、自分では何を買えばいいかわからなかったらしい。お金もないしね、半世紀前の本とか謎だよね。

思えば本なんて、面白いか面白くないか読むまでわからないのだから、本を買うってギャンブルみたいなもんで、こんなに本が高くなっては、こわくて買えない。
学生の頃、たいていの本は古本屋で買ったのだ。いいかげんな値段がありがたかったし、卒論も、古本屋で偶然に出会った本からはじまったし、なんかそこは、人生の入り口だった。
そういう本屋が消えてゆくのは、さびしいな。
持って帰って、置き場が! ってなってる。

海が青くて空が広くて、気が晴れた。鹿児島は、人類の半分がまだ夏服だったが、戻ってきたら、朝夕さむい。秋ふかくなるころだよ。

 

純度の高い……

可憐な冊子をいただいた。ノルドトモコさんの個人誌。「純度の高い……」というタイトル。
ありがとうございます。

何がありがとうございますって、
両吟歌集『クアドラプル プレイ』(蝦名泰洋✕野樹かずみ 書肆侃侃房)
蝦名泰洋歌集『ニューヨークの唇』(書肆侃侃房)

そして、このあと出版予定の蝦名泰洋詩集『王国を見にいくと言い残して』を紹介してもらっているのでした。
クラウドファンディングで偶然見つけてくれたそうです。
うれしいですね。『ニューヨークの唇』から

  手をつなぐうべなうように道があるひびわれながらつづく大地に 蝦名泰洋

の歌を引いてもらっていて、この歌、蝦名さんがボツにしていたの、私がお願いして残してもらった歌。良かったじゃん、伝わる歌だよ、と蝦名さんに言いたい。

ついでに思い出すのが、この歌のほかにボツになった歌で、

  ぼくたちのあたまのうえをからすゆくママの個性をわらうことなく

親のひとりとして、ちょっと救われたの。ママの個性をわらうことなく、の歌には。

冊子、そのほかには、画家の田中一村について。
東京都美術館で展覧会中。とても行きたい。30年以上前に、広島で展覧会があったときに見て、本物があまりに素晴らしかったので、画集を買う気にならなかったほど。

そのほかには、『小山さんノート』( 小山さんノートワークショップ編 エトセトラブックス)という本のこと。
ホームレスだった女性が遺した日記。その本、さっそく買って読んでいる次第。


上京すると、蝦名さんと上野で待ち合わせしたんだけど、もう十数年前かな、駅の階段に、長い時間すわりつづけている女の人がいて、汚れた服を着ぶくれてすわっているのが、お茶を飲んでいた店の窓から見えて、「ずっとすわっているね」と私が言うと、「いつもあの場所にいる」と蝦名さんが言った。「炊き出しがあるから、待っているんだと思うよ」。

別の日、その場所に女の人がいなかった。私、その場所にすわってみた。すこし臭いがあった。すわって菓子パンを食べた。モノ食べるにふさわしい場所でもなかったけど。

そういうことを思い出した。

天皇が上野の美術館に来られるので、テントを撤去するバイトに行った、という話を蝦名さんから聞いたことがあるのも、思い出した。そのときはテントの住人みずから、テントごといなくなっていて、仕事あんまりない。天皇の御幸が終わって、見に行ったら、テントもいつも通りに戻っていた。

小山さんが遺したノートを纏めた人たちの、小山さんへの共感に、共感する。痛みもあるが、癒しもある、と思う。

  癒しは他人に言えないものだ

というフレーズが、どこかにあった、と探す。蝦名さんの詩のなかにあった。

 

30年めのパアララン

郵便代が値上がりするので! 10月から。
そのまえにニュースレターを発送しようと、準備。
現地からの写真とレポート(ああ、赤字の報告が、きっちり赤字で)、夏休みに訪問してくれた学生さんたちからの写真と感想、整理して、割り付けて。印刷して、折って、封筒に入れて糊づけして。切手貼って。

レティ先生が亡くなって3年、ゴミ山が閉鎖されて7年、途中でコロナによる休校もあった。変わったことと変わらないこと。いろいろ思いながら。

はじめてパヤタスのゴミ山を訪れたのが1994年7月だから、30年が過ぎたのだ。そこに、パアララン・パンタオという学校があった。

この写真は1999年頃の。手前の女の子は、前の年まで、子守しなければならない小さい妹を抱いてパアラランに通っていたけど、やめていた。10歳くらいになると、働き手なので、やめる子が多かった。パアラランがなければ読み書きできないまま大人になる。

たった昨日のことのように思えるんだけど、この写真から25年たったのだ。いまはここにゴミの山もないし、ゴミを拾う子どもたちの姿も見ない。戸籍のない子もいなくなったし、フィリピンの経済成長と教育改革目覚ましくて、子どもたちは公立のキンダーガーデン(幼稚園の年長クラス)に通える。国公立は大学まで無償化になって、望めば、わずかの奨学金があれば、大学までゆける。
(日本も無償化すべきと思うよ)

それでも、キンダーガーデンの一歩手前に、子どもたちがスラムの外に出てゆく一歩手前に、ステップがほしい、そのステップがとても重要なことを、経験的に知っていて、スタッフもあたりまえにパアラランを守る決意。

なので、私もがんばろう。

 

本、書いてよかったかも。昔のパアラランのこと、ゴミ山も消えて、レティ先生もいなくなって、ほかに記録は残っていないし、記憶はあやふやになるし。

以前は、パアラランに行ってもらったらわかる、ゴミ山もあるし、レティ先生もいるしと思っていたけれど、いまは、行ってもわからないこともあるのだ、ゴミ山もないし、レティ先生もいないし。パアラランの歴史も。

もう10年前の本だけど、たぶん、売れないで残っている。パアラランに関心のある人は、どうぞ。

来年で支援はじめて30年になる。30年。名簿に名前があると、ニュースレター送りつづけているんだけど、日ごろ、人間関係不義理しているから、近況報告のつもりもあったり。あまり深く考えてこなかったんだけど。

こんなに歳月が過ぎてはいろんなことが変わっている。亡くなった方もたくさん。

たくさんお礼を言いたいけれど、スポンサーでありつづけてほしいけど、負担になってもいけないし、忘れてもらってももちろんいいので、わりとそっけないほうがいいかなとか、思っていたり。

考えようによっては、過去の方角から、望まないのにやってくるゾンビレターかもしれない。一度支援したばっかりに、10年以上もやってくるニュースレター。

郵便代あがる。経費のことを考えると、例えば10年応答のないゾンビレターは、やめるべきかな。ああ、私のぜいたくな遊びだったんだけど。10年ぶりの応答もあったりするから悩ましいんだけど。

パアラランの友人でいてくださる、いてくださったみなさんに、喜びがありますように。

ニュースレター 2024年10月 - paaralangの日記 (hatenadiary.com)

夏休みの終わり

8月の終わり、台風10号の迷走のせいで、息子だらだらと家にいたが、台風過ぎたので、鹿児島にもどる。荷物もあるし、私たちも温泉行きたいし、で、いつものように送っていった。

台風情報で全国に知られた枕崎のヤシの木。
なぎさ温泉は、とおくに枕崎の港が見える露天風呂。
犬の白浜という海岸。

 

 

あたりにドライブして、開聞岳見て、夏休みの終わり。

風景が広くていい。空が広くて、海があって、山があるっていい。住んでしまえば、どこでも都ではないのだろうが、海の色と空の色と白い雲と、山や木々や草の、無限の緑と、私とそういうものとを取り換えっこしたいというか、私を裏返して空っぽにして、空っぽの袋の私をそれらで満たしたいというか。まるで石鹸みたいな、石鹸の泡みたいな雲たちで、磨きたいけどな。

せいぜい深呼吸する。

いつものことながら、リュックが次第に重くなってて、取り出してみると、いろんなものを突っ込みっぱなしにしているなかに、小石がごろごろ。行く先々で、何げなく石を拾う癖があり、きれいな石でもかわいい石でもなんでもないのに、拾う癖があり、
お土産のつもりだったんだろうけど、

だれもほしがらないわ、自分でも、どこで拾ったかも思い出せなくて、あとで庭にばらまくしかないんだけど、小石たち。

犬の白浜で拾ったサンゴの死骸は、円形で真ん中に穴が開いているのが、ペン立てになりそうで、息子が使うというから、置いてきた。(けど、使わないんじゃないかな)

夏休みは終わったが、夏が終わらない。

先週、市内に降りて街を歩くのが、日が暮れても風吹かないし、空気悪いし、たまらなかったな。息吸えば、胸焼ける。9月も半ば。なんでしょう、この暑さ。