スクールカースト

連休前のことだが、息子は学校で不愉快なことがあった。
同じクラスになったこともなければ話したこともない男子のKが、息子に聞こえよがしに、
「××(息子の苗字、同姓男子がもうひとりいる)死ね」「陰キャラ、死ね」
と言ったらしい。
陰キャラのくせにおれさまの挨拶を無視しやがって」とも言ったらしいのだが、話したこともなければ、目もあっていないので、まさか自分に挨拶しているとは思わないし、それで因縁つけられても困る、という。
なるほど。それはいやな気分だろう。

観察すると、Kは、誰彼なく「死ね」と罵倒しているらしく、特に狙われる数人のなかに、自分ははいってしまったようだが、直接何か言ってくるわけでもないので、さしあたり無視している。
そういえば、小学校のとき、息子の顔を見る度に「バカ」と言っていた女の子がいた、と思い出すが、それは同じクラスだったし顔を見て言うのだったが、今度は、見知らぬ男子からの、通り魔的な暴言であるところが、新種かも。
「ふりむいたら負けなので、ふりむかない」そうだ。
念のため、メモ。

それで、陰キャラって何って聞くと、
スクールカーストの下のぼう」と言う。「で、ぼくは陰キャラ認定されている」。
陰キャラっていうのは、自分の立ち位置が不安な人たちが、とりあえず誰かを陰キャラだと言って蔑むことで、自分がその上にいると錯覚して、気持ちを安定させるために、使われる言葉」
と、しごく冷静に分析していた。

f:id:kazumi_nogi:20180516010459j:plain f:id:kazumi_nogi:20180516010628j:plain

さて。いちごの季節がやってきた。空き地の畑は毎日100個超えの収穫。いちごパフェにいちごアイスクリームにいちごジュース。
一年のうちの2週間ほどの、贅沢。

 

He is not alone.

連休は、山口のおじいちゃんおばあちゃんの家へ。中国自動車道は、中国山地の新緑が眩しかった。
春にも帰省したのに、また山口へ行くという息子の狙いはSLやまぐち号である。切符はとれなかったので、撮影をがんばるんだって。
4日の夕方、湯田温泉駅近くで、D51がやってくるのを、ずいぶん前からパパと一緒に待っている。たぶん待っているのがしあわせなのだろう。私とおばあちゃんはその近くで、おしゃべりして時間をつぶす。おじいちゃんは、離れたところで車の中で待っている。
f:id:kazumi_nogi:20180507020654j:plain
5日はD51とC56の重連で走るんだという。重連なんて言葉はじめて聞いたけど、機関車が二つ繋がって走る。つまり煙がふたつあがるらしい。
昼に長門峡駅。これもずいぶん待つのだ。私は退屈なので、ひとりで長門峡の峡谷をすこし散歩した。水音を聞いたら、満足したので、駅に戻る。
f:id:kazumi_nogi:20180507020847j:plain f:id:kazumi_nogi:20180507020937j:plain


駅は、撮影にきた人たちや家族連れでいつになくにぎわっている。やまぐち号がやってくる。毎年ここでこうして見ていると思う。出発のときの汽笛が大きくて、息子はビデオを持ったまま逃げ出したので、出発場面、撮れず、だったらしい。
日頃学校でも我慢しているので、我慢できる、と思って油断していたんだろう。耳栓用意したほうがいいと思う。自分で工夫しなさいね。    

f:id:kazumi_nogi:20180507021118j:plain  f:id:kazumi_nogi:20180507021035j:plain

そのあと、津和野までおじいちゃんの車でやまぐち号を追って、途中で待ち伏せして、また撮って、のはずが、道が渋滞で追いつけず、撮れなかった。いたるところ、写真を撮る人たちがいて、津和野もまた観光客がたくさんだった。
いい天気で、お散歩日和。
息子は鯉に餌やり。私は教会の見学。
津和野の教会のステンドグラスが好きだ。シンプルな幾何学模様の。畳に色付きの影がゆれているのが、とても愛らしい。

f:id:kazumi_nogi:20180507021345j:plain f:id:kazumi_nogi:20180507021745j:plain


それから山口にもどって、また湯田温泉駅近くで、戻ってくるやまぐち号を待つというので、私だけ別れて、近くの中也記念館に行く。入館料無料の日だったので。企画展示は散歩の詩。
記念館を出て、駅のほうへゆくと、息子は、すこし年上のカメラを抱えた男の子と、親しそうに話していた。列車がやってくるまでずっと話していた。He is not alone.どこにでも仲間はいるみたいだ。終わりなき鉄道の話。大阪から来た専門学校生、だそうだ。やまぐち号を撮るためにやって来た。

夜、息子はずっと鼻をかんでいて、もしかしたら風邪ひいたかもなあ、翌朝もしんどそうだなあ、という感じだったのに、雨のなか、おじいちゃんの車で、またやまぐち号を撮りに行った。6日は、C56のラストラン、なのだそうである。つまり、3日間すべて編成が違うから、違うすべてを撮りたかったらしい。
荷物をまとめて迎えに行って、夕方広島まで帰る。

雨の中、私は畑にいちご摘み。83個。
息子は微熱あり。遊び過ぎだと思う。

 

 

 

きみのいたところ

今年は桜もはやかったけど、季節の進み方がはやいかも。畑のいちごも例年より1週間ほどはやいみたい。昨日初収穫2個。今日1個。

ピンボケだったりうまく撮れなかった写真は、なにか気になって記憶に残ったりする。ほんとうはそこには、もっといいものがあったような気がして。
つかみ損ねたものを探しに行きたい気持ちがときどきする。
で、絵を描いてみた。モデル10歳かな。植物園に行ったときの。
描いていると、「ゲゲゲの鬼太郎」に似て来たり、絵本の「かいじゅうたちのいるところ」みたいだったり、面白かったけど、少しぼやけた写真のなかの、子どもの、表情の複雑には、はじめて気づいた気がする。(絵で、それが再現できたというわけではない)
f:id:kazumi_nogi:20180502225845j:plain 

学校でいじめにあったのが3年のとき。それが解決して、まあまあ落ち着いたクラスで過ごしていた4年生の頃だけど。きみのこころがどこにいたかを、私たちは知らない。

だいたい、大切なことは、ずっとあとになってからわかる。赤ちゃんときのビデオで、上機嫌で部屋を這っていた子が、ベビーベッドに入れられて、ブーブーと口を鳴らしている場面があるのだが、ブーブー言うのは、ベッドに入れられるのが気に入らなかったからみたいだと気づいたのは、10年もそれ以上もあとだった。子ども、歯が生え始めると、ベッドの木の柵を齧り倒していたが。

 

高校のときに、美術を選択しなかったのが、心残りだった。それで高校の社会人講座に油絵をならいに行った。絵の具セット買ったので、家ではじめて描いてみた。心残りな気持ちが、ちょっと晴れたよ。

f:id:kazumi_nogi:20180502225956j:plain

 

両手を広げて

f:id:kazumi_nogi:20180501031041j:plain

家に男の子がいるというのは面白い。それも14歳くらいの男の子がいるというのは、本当に面白い。その子がすこし自閉スペクトラムの子なら、さらに面白い。
最近息子といると、兄といるようで、弟といるようで、昔すこしだけ憧れた同級生といるようで、どこかに忘れていたような私自身にも出会うみたいで、不思議な、夢のような、なつかしさの感覚に包まれて、暮らしている。


あるとき、息子が、ものわかりの悪い母に、何かをわからせようとして、両手を広げて「……なんだよ」と力説したときに、思い出したのは、寺山修司の短歌だった。

  海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり   

へえ。男の子って、本当にそういうふうにするんだと、感動したのだった。
この歌の少年は、少女に海を教えようとしたのだ。両手を広げた息子が、私に何を伝えようとしたのか、感動のあまり忘れてしまったが。

寺山修司はやさしい少年だっただろうな、と思った。

気づくと、すでにゴールデンウィークらしい。週末に山口に遊びに行くというので、それまでに宿題は終わらせる約束の宿題が、遅々としてすすまない。
昼から机に向かっていて、数学は相似の証明のプリントなんだが、机の上には、いつのまにか、iPad(ゲームそのほか)や電子辞書(電車の情報がいろいろ)やカメラ(電車の写真がたくさん)や時刻表やノート(架空の町の架空の路線図の架空の電車の架空の時刻表作成中)が、載っている。
それらをひとつひとつ取り上げていく。
そんなに宿題いやなのか。

わからない、というより、証明問題なので、たくさん文字を書かないといけないのが、面倒なのだと思う。考えるのももちろん面倒だし。その気持ちはわからないでもないんだが、証明問題は怠けずにやっときなさい。怠けずに文字を書きなさい。いつか役に立つから。
人とのコミュニケーションは難しいでしょ。何か言って、わかるわかると共感してもらえるならそれでいいけど、なかなかそうもいかない。誤解されることも多い。そんななかで、自分の思うことを正確に人に伝えようと思ったら、せめて、ものごとを筋道たてて説明して、納得してもらえるような力を、身につけておかないといけない。
きみが、いまやってる数学の証明問題は、その訓練になると思うよ。

あれこれ励ましてはみたんだが、途中で力尽きて、寝た。
そのプリントいま見ているんだけど、いやだわ、宿題やっぱり。

 

 

脱畜生道

f:id:kazumi_nogi:20180429150409j:plain

畑の牡丹も咲いた。ティッシュペーパーでつくった花みたいなのが。何年ぶりかな。


息子のクラスの洪水ちゃんは相変わらず洪水ちゃんらしい。英語の新しいネイティブの女の先生とやりとりしていて、「I love you」と先生が言ったら「I love you,too」と答えた。なんか目に浮かぶみたい。
そこは「me too」でいいんじゃないの? いや、いまそれは使えないでしょ、違う意味になりそうだよ、みたいな話を私たちはしたんだけど。

「セクハラのニュースは、誰が何をしたかとか、たくさんあってよくわかんないよ」と息子が言う。私も面倒でよく見てないのでわからないが。

思えば、セクハラという言葉があるだけでもありがたい、というか隔世の感がある。me tooなんて私もひと山あるが、長いことそれは言葉をもたなかった。気持ち悪さも怖ろしさも、言葉を持たないまま、体の深くにしずんで、なんとなく自分はやましくて、正しく生きることができない人間だという感覚をつくってゆく。うしろめたくて言葉にならない、外に向けられない憎しみは、私をうちがわから壊していく。
セクハラで会社をやめた友だちもいた。専務のしたことを社長に言ったら、それはもう、自分がやめなければならないということ。女の事務ひとり、会社が守ってくれるはずがないので。それは運が悪かったのであり、彼女の素行に問題があったのかもしれないのであり、せいぜい気をつけるしかないねと、まわりは言うのだが、たとえばあのとき、やめなければならないのは専務だとわかるためには、セクハラという言葉が必要だったと思う。
セクハラをハニートラップと言い換える向きもあるみたいだけど、それは卑怯だし、ふつうに畜生だよね。

さて、息子はパパに叱られていた。ゲームをやめて寝るように母に言われても、無視してきかないでいたからだ。ママは怒らないからママの言うことは聞かない、パパに叱られたら聞く、そういうのを畜生って言うんだよ。それははずかしいだろ。誰に言われても、正しいことはきけ。
ひとしきり泣いてあやまりにきた。「お母さま、ごめんなさい」。こういうときだけ、おかあさま。
それで、メモに、「脱畜生道」と書いたりしているのが、なんかすごい。

そういえば、と思い出して探した。昔読んだ本。桐生悠々畜生道の地球』。すごいタイトルだとあらためて思う。

 

 
 
 
 
 
 

 

最強のぼっち

先週、今年度最初の授業参観と、懇談会があった。
数学の授業はプリントの問題を解いているだけで、静かで、面白いこともなく。
懇談会はクラス別、これまでに親しくなったお母さんたちはみんな別のクラスになって、お母さんたちとも先生とも、はじめましてだった。
お母さんたちの話が、なかなか壮絶だった。反抗期の娘が家で暴れて、壁に穴が開く、とか、全然しゃべらないので、毎日学校でどう過ごしているのか、さっぱりわからない、とか。学校では自分なんかいてもいなくてもいい存在だと、拗ねているとか、子どもをかわいいと思えない、どこをほめていいかわからない、とか。うちの子はなかなか学校に通えなくて、とか。うちの子は騒がしいと思う、ごめんなさい、とか。
反抗期……。息子はたまに不機嫌だったり、することはあるけど、私がにゃあ、と鳴くと、にゃあ、と返事するし、毎日笑って暮らしているので、同級生のお母さんたちの話に、少しおののいた。
とおく自分を振り返ると、部屋にバリケードを築いたことは何度かあった気がする。父とけんかして殴られたこともある。泣きわめいたことももちろんある。部屋にこもって、ひたすら日記を書いていたり、布団にもぐって泣いたり。朝起きて赤い目をして学校に行くのが憂鬱だった。楽しかった感じは、あんまりないかも。もっと楽しく過ごしてもよかったのにな、と今になって思うけど、どうすれば楽しく過ごせるかなんてわかんなかったよ。
たぶん、子どもは子どもで、自分自身にお手上げでどうしていいかわかんないし、親も親でどうしていいかわかんないのだ。
隣の席がぎりぎりちゃんのお母さんだったので、お互いの子の聴覚過敏の話をする。去年は授業が騒がしくなることが多くて大変でしたね、今年は騒がしくならずにすむといいですね、と話したりしたあとで、そういえば、息子は同級生たちにカミングアウトはしていないので、私が勝手に喋ってはいけなかったかなと思ったけど、あとで、息子にぎりぎりちゃんのお母さんとお話したよと言っても、何にも気にしていないようだったので、この場合はよかったのだろう。

小学生のときの同級生のムーミンと区別するために、ムーミンNとでもしとこうか、去年息子と同じクラスで、今年は別のクラスになった、ムーミンNのお母さんとはちょっと挨拶しただけだけど、心配は尽きないみたいだった。
息子が言うには、Nは小学校で一緒だったムーミンと、性格も体型もよく似ている。彼は、人との距離の取り方が全然わからないみたいだ、それで普通なら、距離をとるところを、べたべたと近寄っていっては嫌われる。
そういえば生徒たちが年間の目標なんかを書いたカードが貼ってあって、勉強や成績のことを書いているカードのなかで、ムーミンNが友だちをつくる、と書いてあったのが、なんか切なく見えたのだったけど。
ムーミンNはひとりがさびしいし、明るくはしゃいでいる人たちも、やっぱりひとりにならないですむようにそうしている。「みんな、孤独への耐久力がなさすぎるよ」と息子は言った。
おお。

小学生のころ、人とのコミュニケーションが難しかった息子に、パパは言ったのだった。「無理して友だちをつくらなくていい。最強のぼっちを目指せ」
ひとりでも楽しく過ごせる自分をつくろうよ、と心がけてはきたのだと思う。息子も私たちも。ピアノや電車や本が、ぼっちの味方だった。
息子はもう、ぼっち飯も平気なら、ひとりで1日中、鈍行列車に乗って知らない土地を旅しているのも楽しい。気づけば、一緒にいて楽しい友だちも先輩もできた。
たぶん、目指すところは正しかったのだろう。

孤独への耐久力って……。きみにそんなに耐久力があるとも思わないけど。


f:id:kazumi_nogi:20180422052356j:plain

庭のぼたんが咲いた。何年ぶりだろう。自分がぼたんだったことを忘れていなかったらしい。……私が世話しないせいで、何かが足りなくて、ずっと咲けなかったのだと思う。赤いぼたんでした。もうひとつ白いぼたんもあるんだけど、それは咲かない。

 

 

 

 

変身

f:id:kazumi_nogi:20180420023241j:plain

畑では、いちごが、ぐん、と背を伸ばしていた。季節がくれば成長するのだ。

息子、熱はいちおう下がったので月曜から登校しているが、まだ少し熱っぽい感じが続いている。喋ると喉に違和感があるそうで、声がまたいちだんと低くなり、続・変声期らしい、返事したくないから話しかけるなときたもんだ。
身長もこの2年間で20センチほど伸びて、声が低くなり目つきが変わり、またいっそう声が低くなって、なんか、成長というよりは、違う生きものに変身しつつある感じだ。

というわけで、通学かばんに入れとく文庫本候補に、カフカの「変身」を加えてみた。これ以上かばんを重くしないために、絶対文庫本。(最近の中学生の荷物の重さは尋常じゃない。教科書は紙質を落としていいから、軽量化を工夫して欲しいと思う)
本棚にあるのは自由に読んでいいよと言っているんだけど、自分で本を探すことはしないんだよね、(自分で探すのは、もっぱら電車の本と時刻表)。で、なんか本出しといてって言うので、思いついたのを、思いついたときに、何冊かまとめて息子の机の横に置いといてやると、適当に、かばんに入れている。
私の頭のなかでは「変身」のとなりにはカミュの「異邦人」と三島の「仮面の告白」が並ぶので、それも一緒に渡してやる。読むかどうか知らないけど。

f:id:kazumi_nogi:20180420024140j:plain

いま彼は太宰の「ヴィヨンの妻」を読んでいるみたいだ。その中に入っている「トカトントン」が私は大好きだったよ、となつかしい。「トカトントン」面白いよねえという話を、目の高さが同じになった息子としていると、なんか同級生と話している気分になる。
それらの本、私が高校生や大学生の頃に古本屋で買ったような、買ったときからぼろぼろの本なので、紙は黄ばみを通り越して茶色くて、文字は小さくて、私もう目がつらくて読めないのだが、息子は「おお、昭和50年の本だよ」などと言いながら、古さにも汚さにも字の小ささにも臆することなくめくっている。若いっていいなあと思う。

でも本棚眺めると、あれですね、読ませたいような読ませたくないような、微妙な気持ちになる本があれこれある。コクトーの「怖るべき子どもたち」は、私が中3だったときに夢中になった本で、いくつかのフレーズはいまも覚えているけれど、これを勧めるというのもなあ、と母は思ったりする。やっぱり、こっそり探してこっそり読むもんだよ、本は。