柘榴

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「ぼくとしては、心臓が破れたほうがましだよ
割れ目のなかはとっても愛らしく暁の万華鏡のようなんだから」
                 D.H.ロレンス

最初の1ページめで、こんな詩に出会う。柘榴の詩。
「嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書」自閉症者と小説を読む、という本。文学作品を、自閉症者と読んだ、読書セッションの記録。

「白鯨」「心は孤独な狩人」など、とりあげられている本を、読んでいたほうが楽しいかなとは思う。
簡単に言うと、こんなすてきな読書体験をしてるんだぜ、イエイ、って話です。

自閉症のよく知られた「三つの障害」(コミュニケーションの障害、想像力の障害、社会性の障害)について、私は、療育の診察室で聞いたわけだけれども、
それは本当にそうなのだろうか、といういぶかしさを感じた。
スペクトラムの問題、症状の程度の問題はもちろんあるのだとしても、「障害」は私たちの側にだけあるわけではなく、なんかそれは、定型発達、というか多数者の側からの理論にすぎないのではないか。

ということなんだけれども。

人の気持ちがわからない、ことで人を怒らせるということはよくあったんですけれども、けれどもそれは、もしかすると、(互いのエゴイズムにすぎない感情というものをそれなりに忖度しながら、人間関係やりくりしている世界で、忖度する気がないという態度をされるのはむかつく)ということであったにすぎないような気がするし、
でも忖度したくないものはしたくないのだ。

そこんところをわかれという、定型発達の多数者の、わがままなあつかましさのほうをこそ、どうにかしてほしいと思うわけなんだけれども、

共感や理解ということは、ときとして、相手と同じになるというほどに、過酷な傾斜を要求する危険なことなのだということを、よくわかっていないのはむしろ、想像力のあるらしい、定型発達者の側ではないかと思うわけなんだけれども、

過酷な傾斜を要求するに値するほど、素晴らしい心でしょうか、それは、ということをむしろ問いたいけれども、

正確に表現できているかな、わかんないけど。
それはそれとして。

この読書セッションの記録は、(コミュニケーションの障害、想像力の障害、社会性の障害)の先入観をとても快く、覆してくれる。でも、いくぶん読みにくい本ではあるかも。

広い水路だけが水路ではないし、聞こえる足音だけが足音ではないし、気づかれないやさしさもあるよ。

★★

話かわって、
選挙が10月最終日らしく、それじゃあぼくは、選挙権ないんだ、と息子は思った。11月1日が誕生日なので。ぼそっと、ツイッターでつぶやいたら、彼のラインは、鉄道ファン界隈なのだが、一瞬後に、某大学の法学部の学生から、いや、選挙の翌日生まれまで、選挙権あるよ、と返ってきて、つまり一番若い有権者になるんだな。

それはそれとして、小説というもの、息子にとっては、テストに出てくると、点がとれるかとれないか、さっぱりわかんない、賭けの分野らしいんだけど、
読まないわけでも、読めないわけでもない。
あるとき、太宰治の小説の話を、ツイッター友だちとしていたのが、印象的だったんだけれど、どういうことを言ってるかというと、列車の路線の話から、太宰の風景描写はすばらしいよね、風景がありありと見えてくるよね、と、大いに共感しているのだった。
ふうん、と思ったなあ。太宰の小説、私はもっぱら、心の追いつめられ方に戦慄して読んだ記憶だけれど、そうかあ、風景描写かあ。
人間のことは記憶していないけれど、どの話にどんな風景があったかは、しっかり印象に残っているらしいのだった。
文学ってすばらしい。

ところで息子、鉄道さえ通っていれば、知らない土地もこわくないらしい。
入試の二次試験の宿を、そろそろ確保したほうがいいと言われて、けれども、志望校がいまだに決まらない決められない。つまり、点数がはかばかしくなくて。
それでもどっか受けるので、とにかく受ける可能性のあるところを、言ってごらんと言ったら、北は弘前から、南は鹿児島まで、しょうがないから、5つの街のホテルに予約入れたよ。
そこだけは楽しい旅の計画だった。お城の近くがいいよね、とか、帰りは温泉ね、とか。
たのもしいのかたよりないのか。雪が降っても灰が降っても、鉄道さえあれば、大丈夫らしいのだった。どっかには行ってくださいね。

急に寒くなってきた。季節が変わる。