百家争鳴

 放射能あらゆる唇でふるえ何か言えばだれかを傷つける


百家争鳴している。鳴くのは自由だ。
思うに、科学者やらジャーナリストやら、いろんな肩書きの、あるいは肩書きのない、競馬場の予想屋がいろいろいて、馬券売ってるんだわ。
さて、どれが正しいだろう。福島でも健康被害は起きない、のか、東京でも危ない、のか。
これだけ百家争鳴したらわけわからないが、素人は素人なりに、それぞれ自分のカンなり知力なり尽くして、選ばなければならないわけだ。何らかの考え方と行動とを。
それなりになんとかなるかもしらんし、ひどいめにあうかもしらん。


昔読んだ、ジョルジョ・ボッカの本を思いだした。マフィアに牛耳られた南イタリアの社会を描いたルポルタージュ。見せかけの繁栄、進歩と発展の幻想の裏側にはびこる巨悪。生産も消費も、警察も裁判所も、人の営みのすべてがマフィアなしに成立しない。底なしの腐敗を描いていて、恐ろしいなあと思った。『地獄』というタイトルだった。20年ほど前の本。あの本と同じだなあと思った。
原子力ムラ、は、原子力マフィアと呼ぶほうが正しいと思う。それで、マフィアに牛耳られた社会をボッカは「地獄」と呼んだのだ。


「低線量被ばく 揺らぐ国際基準」
http://www.dailymotion.com/video/xnb9h8
NHKのドキュメンタリーで放映されたものらしい。
この番組に対する抗議文はこちら。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/aesj/snw/media_open/document/nhk_kougi120112.pdf
番組をつくるのは自由だし、抗議するのも自由だと思うけど、番組が正しいか、抗議の内容が正しいか、私は判断できませんが(難しいだろ、だって)、ほかの人たちが抗議するならともかく、この人たちは抗議してはいけないのではないだろうか。原発推進する人たちはその安全に責任をもたなければならないのに、それができなかったのだから、「ごめんなさい」のほかに言える言葉はないでしょう、いま。盗人猛々しいと思った。「ごめんなさい」を住民は言ってもらってないと思う。


最近、目にとまって、信じられないなと思ったもの。なんでそんなに科学を信仰できるのだろう。

吉本隆明が言っている。
(徒に恐怖感から文明が生み出した原子力という文明を水泡に帰してしまうのは)「人間が猿から別れて発達し、今日まで行ってきた営みを否定することと同じなんです」
「科学技術や知識というものはいったん手に入れたら元に押し戻すことはできない。どんなに危なく退廃的であっても否定することはできないのです。それ以上のものを作ったり考え出すしか道はない」

石原慎太郎がそれを引用して。
「その成果を一度の事故で否定し放棄していいのか、そうした行為は「人間が進歩することによって文明を築いてきたという近代の考え方を否定するものだ。人間が猿に戻ると言うこと-」と吉本隆明氏も指摘している。人間だけが持つ英知の所産である原子力の活用を一度の事故で否定するのは、一見理念的なことに見えるが実はひ弱なセンチメントに駆られた野蛮な行為でしかありはしない。」

岡井隆が書いているらしい。(『わが告白』)
原発の話でも、四月のいつだったか、ハーバード大のサンデル教授が、NHKで特別講義をした。原発問題がテーマのひとつだった。参加した学生たちのうち、ハーバードの学生は全員が原子力エネルギー利用を容認していた。中国の上海の大学生も大部分そうだったし、東京で参加した東大、早大、慶大の学生男女でさえ、うち半数以上が原子力エネルギー容認派だった。
彼らの冷静な判断に、わたしは共感した。ひょっとすると若者はこの傾向が強く、大人たちだけが冷静さを失って感情的になっているのかもしれないと思うとわたしは悲しかった。」

私はこの老人たちの言ってることがわからない。全然理解できない。一度の事故で十分でしょうよ。住民たちの苦しみを「センチメント」で片付けられる神経が信じられない。
私はこの人たちの文明論が理解できない。この老人たちの(若者たちも、か)原子力への執着は、奇怪なものとしか思えない。


文明論としては、真逆だと思う。

鶴見俊輔が言っている。(『オリジンから考える』)
「言葉にさえならない身ぶりを通してお互いのあいだにあらわれる世界。それはかつて米国が滅ぼしたハワイ王朝の文化。太平洋に点在する島々が数千年来、国家をつくらないでお互いの必要を弁じる交易の世界である。文字文化・技術文化はこの伝統を、脱ぎ捨てるだけの文化として見ることを選ぶのか。もともと地震津波にさらされている条件から離れることのない日本に原子炉は必要か。退行を許さない文明とは、果たしてなにか。」
「人間はみずからを文明の進歩にゆだねる値打ちがあるか? 退行を許さない進歩ひとすじの文明は、人間にとって何か? そうした問題は私たちの目の前にあります。日露戦争以来、大国になったつもりで、文明の進歩をひたすら信じ続けてきた日本国民は、日米戦争の敗北にさえも目をそらしてきた根本の問題に、今、直面しています。」

加賀乙彦が言っている。(『科学と宗教と死』)
「震災後の日本に宗教は重要な役割を果たす、いや果たさなければならないと考えています」
「宗教の力がないところに、科学の力だけがのさばっていることに私は危険を感じるのです」
「科学が発達すれば「わかった」ことが増え、有限の範囲が広がっていく。けれども同時に「わからない」こと、はかり知れないこと、無限の暗黒にも触れざるをえない。そこに祈りが生まれてきます。」
「私が一番願っているのは、全世界から原発原子爆弾がなくなったのを見てから死にたいということです。」

こちらがまっとうだと私は思う。ふつう、こう考えるよな、と思うけど、私のふつうが他の人のふつうであるかは知らない。



昨夜、寝る前に子どもに読んでやっていた「楽しいムーミン一家

スナフキンときたら、生まれたときからきている古シャツ一枚で、すみからすみまで幸福だったのです。」

そんなふうに生きたい。へんな「地獄」から抜け出して。