モラトリアム
というなつかしい言葉を思い出した。
意味は、
学生など社会に出て一人前の人間となる事を猶予されている状態を指す。心理学者エリク・H・エリクソンによって心理学に導入された概念で、本来は、大人になるために必要で、社会的にも認められた猶予期間を指す。日本では、小此木啓吾の『モラトリアム人間の時代』(1978年(昭和53年))等の影響で、社会的に認められた期間を徒過したにもかかわらず猶予を求める状態を指して否定的意味で用いられることが多い。(ウィキペディア)
まさにこの意味でのモラトリアム。
大学に行こうと思ったのは、家を出て行きたかったからでした。毎晩ヤクザが借金の取り立てに来る家にいるのはしんどかった。
それから、働きたくなかったからでした。大学に行っても自活しなければならないのだから、働かないということはゆるされなかったのだけれど、でもこのまま社会人になるなんて考えられなかった。
モラトリアムがほしかったのよ。
で、大学に行くと、たちまち疲れて、一年の終わりごろには講義に出れなくなってましたけども。卒業まで6年半かかりましたけども、それは私が怠け者だからだとずっと思ってましたが、そうでもないなと、今になって思う。
いろいろと疲れすぎてて、無理だった。
よく単位揃えて卒業したよ。
私はそれくらいモラトリアムが必要だったし、それでも全然足りなかった。
この世の中での息の仕方がわからない、という感じのなかにいて、大学生っていう身分は、わからないままでも、存在していることはゆるしてもらえるような気がした。
単位よりも大事なのは、モラトリアムでした。ありがたいモラトリアムだったと思う。
さて。なんでそういうことを思うかって。こういうことがあって。
産経の記事。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140521/plc14052108180007-n1.htm
その記事に対する日本科学者会議広島支部幹事会の声明。
http://www.twitlonger.com/show/n_1s1rui0
准教授の講義を気に入らなかった学生が、産経にタレこんだ。確信犯だ。学生はなんかおそろしい勘違いをしてると思うけども。
歴史認識の違いとか、考え方の違いとかはいいと思うわけ。
たとえば昔、北方領土とソ連のことについて、高校の日本史の先生と大学の日本史の先生は真逆の見解だったから、私は、すごくとまどったけども、
アジア史の先生に「広島大学は軍国主義の教師をつくった大学なんですよ」と18歳の4月、突然言われてなんのことやらですけれども、
でもそのとまどいから、学びがはじまるのだと思う。
そういうあたりで、とまどったり翻弄されたり、反発したり、考えたり、わかんなくなったり、葛藤したり、そういうなかにいるのが学生であるということであったと思うわけ。
そういうモラトリアムを許される時空間っていうのは、ものすごく大事なんだよ。
それをみすみす貧しくえぐり取っていくような、愚かなことをして。
本当に愚かなことをして。
「反日」というのは、罠である。
反日だとレッテル貼って、たちまち外部マスコミにたれこむ、という行為が、ためらいもなくできてしまう、それを正しいことと思っている、というあたりが、すごく不気味に思える。
学生が教師を売る、っていうのは、思想がどうこう以前に、倫理的にだめだ。文化大革命の紅衛兵のようだよ。
講義するっていうのは、学生への信頼がないと成り立たないので、
だいたい、人の話を聞く心がまともに育っているかどうかもわからない不特定多数の学生に向けて、自分の思うところを述べるというのは、それなりに勇気のいる仕事と思いますけども、
主義主張の違いを超えて、そこのところの信頼を受け止められないというのは、学ぶ側の人間としては、むざんだ。
勇気ある行為だなどと、一部の人たちにもちあげられていい気になってても、しあわせはならないよ。
それでその勘違い学生のタレこみを利用した産経は、とても卑劣で、すばらしく醜悪だ。悪魔的だと思う。
☆
それはそれとして、思うのですが、右か左かよくわかんないし、あっちが正しいかこっちが正しいかよくわかんないし、っていうモラトリアムが、もっとあっていいのにって思う。
ネットとかだとまあそうなるのかと思うけど、なんにつけても、右か左か、敵か味方か、まずはっきりしろ、みたいにせまられる感じがするのが、なんだかなあと思うこの頃。