pray for Japan

善意だから「善」とは限らない。
きっとボランティアの現場に立った人は、多かれ少なかれ、そのことに直面すると思うのだが、パアラランの支援をはじめるときに、まず思ったのはそのことだった。いくつもの善意がうわすべりして、かえって人々を困らせているのを目撃したからだった。
でも、見てしまった、聞いてしまった、関わってしまった自分をどうするか。かなり途方にくれながら、毎日ゴミ山にのぼっていたんだなあ。

善意が、善であるためには、どれだけの「注意深さ」が必要なのだろう、と思ったときに、ヴェイユを思いだした。
祈り、とは注意深さである、というようなこと。

原文を探す気力がないので、wikiにたよると、
ヴェイユの注意は隔たりをもったはるか遠くの弱きもの、小さきものに注がれる。注意力はヴェイユの思想の中で大きな位置を占めている。」
とある。

3・11のとき受け取った海外からのメールにはことごとく、pray for Japanとあった。被災地から遠く離れて何もできない位置にいるものとしては、私もむしろ海外の友人と同じ立場だったのだが、無力なものが無力なものとして「祈り」を送る、その「祈り」を信じているということが、新鮮だった。
日本語で耳にするのは「がんばろう」ばかりで、がんばれない私は立つ瀬がない。

たぶん私たちに決定的に欠落しているのは、祈りのような注意深さだ。
愛の反対は無関心だと言ったのは、マザー・テレサかな。祈りが消えたら、無関心がはびこる。
善とは限らない善意のはしきれが、ただようかもしれなくても。

注意深さ。注意力。ボランティアの現場で、ボランティアに限らず生きている現場で、苦しくなるときっていうのは、自分にそれが欠落していることに直面して苦しいんだわ。



大飯原発のストレステストをめぐるやりとりなど、さっぱり理解できないが、それじゃあ、私自身は、どうすれば原発容認できるだろうかなあ、原子力文明を擁護する気になるだろうと考えていた。私的には、原発で弟が働いていただろうというだけで、原発の安全性は信じられないのである。
弟が車の免許をとったあとの、幾度もの事故の後始末を誰がどうつけたのかつけなかったのか、知らないんだけれど、なんであいつに免許なんか取らすんや、と兄が怒っていたのは、そうとう、面倒かけられたんだろう。

だいたい、祈りも注意力もあったもんじゃない私たちが、扱うのである。原発を。無茶だ。

人間は、核を安全に扱えるほど、賢くもなければ注意深くもないんだと、またしても露呈したのが、今回の事故と思うんだけれども。そのことは、考えないんだろうか。

ふと思った。もしも、千人の釈尊と千人のイエスと、一万人のガンジーと一万人のキング牧師原発で働くんなら、容認してもいいかもしれない。
釈尊もイエスも、注意深かったと思う。ガンジーキング牧師も祈りとともにあったと思う。
でも彼らが、いま生きていたとして、原発なり、原子力なりを容認するだろうか。

広島の被爆者たちをもころっと欺した「核の平和利用」という言葉だって、もしかして、千人の釈尊と千人のイエスと、一万人のガンジーと一万人のキング牧師の、激烈な祈りがあるなら、ほんとうに平和利用になる可能性もあるのかもしれない。
だけど、実際はだれもほんとうに祈ってないでしょ、原発なんかもちこんできた政治家も科学者もその他の人たちも。平和なんて。

という話をしていたら。
釈尊やイエスガンジーキング牧師が、そういう人たちがたくさんいるとなったら、そりゃパライソとか仏国土とか、そういうところだ。放射能あってもいい。わし行くで。とパパが言った。