ニューロ・ダイバーシティ

朝、外に出たら、金木犀の香りがする。10月。
雨が来る前に、花を摘んだ。半分砂糖漬け、半分焼酎+氷砂糖漬けにしてみる。息子の弁当にも飾ってみたが、花小さすぎて、気づかなかったらしい。

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私の、中学のころの通学路の(ほんとは通ってはいけない近道)角の家に金木犀があって、あの道を通っていたあの頃の自分、あれから見失った友だち、幼馴染たちのことを思い出す。
故郷を出てしまったら最後、地元に残った誰かとつながっていなければ、消息なんてわからなくなる。そしてたぶん、私も行方不明のひとりだ。

息子と2年間同じクラスだった女の子、今年は美術のクラスが同じ、はずの、ぎりぎりちゃんが、学校をやめたらしい。「仲間がひとり去った」と息子。ASDの聴覚過敏仲間だった。2年のとき、クラスが美術の時間がとりわけうるさくて、ぎりぎりちゃんが、うるささの源の男子(ADHD)に向けて、使い捨てカイロを投げつけ、息子は消しゴムを投げつけしていたという話を思い出すけど。
朝、お母さんが車で送ってくる、その車のなかで、いやだ、帰る、と泣き叫ぶ姿は何度か目撃されていて、ずっと不登校ぎみだったのが、もうほとんど来れなくなって、前回の定期考査は受けに来たけれど、吐いてしまった。
美術の時間の出席をとるのが、先生が名前を呼ぶけれど、返事がないという状態から、先生が名前を呼ばない、に最近変わった、ので、ああ、去ったのだな、と。

私の1歳年上の幼馴染の利恵ちゃんは、今から思えば自閉症仲間だったに違いない。中学で不登校だったらしい、高校で同学年になった。中学のときに彼女はいつのまにか引っ越していたから、何年ぶりで再会したのだったけれど、お互いになぜか一言も言葉を交わすことができなかった。体育が同じクラスで、1年の秋、出席をとるときに返事がなくなり、冬休みがあけたときには、もう名前を呼ばれることもなかった。あの時の、不安感、喪失感。
でも、いつかまた、会える気がしていたんだよ、そのときにはまだ。

息子はいまのクラスが、いまだに居心地が悪い。女子が多いのもあるが、男子も半分は苦手らしいのだ。席が一番端の一番後ろだったときは、疎外感半端なかったが、いまは一番端の一番前で、後ろが洪水ちゃんなのが、また大変らしい。「ぼくは彼女の個性は理解しているよ、ぼくと一緒だと思うよ、でも授業中に背後で突拍子もない声でひとりで話しはじめるから、もう、耳が死ぬ」
その洪水ちゃんは、最近、授業中にお菓子を食べるそうである。席が近い人たちは気づいているが、言いつけたりはしない。言いつけたりはしないが、ばれる。授業中、先生に呼び出されて叱られた。
はずだが、懲りずにまたこっそり食べている。ばれないように、以前より工夫している、みたいだけど、まわりにはばればれ。「良くも悪くも、嘘のつけない人ですよ」と息子の洪水ちゃん評。

そういえば私、中学のとき、給食の残りのパンを、午後の授業のときに食べていた。という話を息子にしたら、えええっ、とひかれた。

でも居心地悪いといいながら、息子のまわり、同じように居心地悪さを感じている男子たちが、ひとりふたりといるようで、それはそれでひとつの居場所だ。

さて。16歳のグレタ・トゥーンベリの登場で、何より印象的だったのは、話の内容はさておき、その文法のわかりやすさだった。何このシンパシー、何このはらはら感、と息子も思ったらしい。彼女が自分がアスペルガーであることは誇りだと語っているという記事を目にして、ああそれで、と何か納得していた。
彼女の記事と一緒に、目に飛び込んできたのは、「ニューロ・ダイバーシティ」(脳の多様性)という言葉だ。これはいい。
私が子どもだった頃には、名前がなかった。「へんな子」としか。それから名前がやってきた。アスペルガーとか自閉症とか発達障害とか。でも、私には私があたりまえなので、「ニューロ・ダイバーシティ」という把握はとても自然で、すごくいい。
グレタちゃん、誕生日が私と一緒だわ。

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シュウメイギクも咲いていた。

 

 

 

 

居場所

町会費の集金が来て、また1か月が過ぎたことを知らされる。いろいろ焦るけど。

先週、パアラランへの送金ができて、ちょっと一息。あるだけ送って、もうこちらには何にもないので、このあとは運を天にまかすしかなく、考えようによっては泣きそうな気持だが、毎年この調子で、パアラランは30年続いてきたのだった。
レティ先生が変わらない。お金がないから、もう学校を閉じようかと、彼女は1995年にも言った。そして同時に、でも子どもたちが来るから閉じられない、と言った。24年後にも私は同じセリフを聞いた。それで、レティ先生が続けるなら私も続けるのだ。このシンプルさを信じてる。
そして学校は、やってくる子どもたちにあわせて、自由にその形態を変化させながら、子どもたちが来るから続いている、30年。
5年10年25年と、支援を続けてくださるみなさまに、本当にありがとうございます。ゴミの中に家があり、ゴミの上に家があり、というあのめちゃくちゃななかで育った子どもたちが、教育を受けた大人になり、自分の家族とコミュニティを支えているのを見ると、この地上に生きてよかったなと思います。

こないだ久しぶりに、Yくんのママに会った。息子が小学校時代から尊敬している友人が2人いて、ひとりがYくん。さすがの自閉症で、ふたりとも会っても何にも話せないのがおかしいが、Yくんに出会えたことは大きな財産だと思う。小学校5年から中学時代ずっと不登校だったYくんは、いまは通信制の高校で、学級というような縛りもなく、純粋に勉強のためだけに通えるので、2週間に一度ずつ、快く通えているらしい。7時間、1番前の席で授業を受けてくる。勉強できる環境ができてほんとによかったよ。
彼はほんとに頭のいい子だったので、なぜその子が、教室にいられず、ふれあい教室に行ってもろくに勉強をみてもらえるわけでなく、通知表は何から何まで1か2ということになるのか(しかも公立高校の入試は内申が5割以上)、学校制度そのものが、大きないじめをしているように見えて、私でさえ、頭に血がのぼりそうで、お母さんはどんなに悔しかったろうと思うもん。

 

『「ふつうの子」なんてどこにもいない』(木村泰子)という本は、大空小学校の話。特別支援学級も必要ないし、不登校もいない、どんな子でも学校に居場所があるという学校は、現実に可能だという話。
「周りが育てば障害はすべて個性に変わる」という確信がすばらしい。悩み、とみえるものが、オセロを裏返すように、ことごとく希望に変わってゆく。

息子が笑いながら読んでた。よほど胸がすいたのだろう。子どものいじめは大人が悪い、というあたりに鉛筆で線を引いてた。

いろいろ思い出すと、よくがんばったよと、小学校の頃の自分をほめてやりたいそうだ。いや、ほんとによくがんばったと思うよ。しかし、よくいじめられたよね。へんな事件がたくさんあった。学校に通い続けたのは、自分の居場所を死守しようという、息子なりの意地だったのだと思う。

6年の頃に、息子を恫喝してくる男子がいて、私は記憶してないが、それで一度だけ学校に行けなかったことがある、らしい。(私はあっさりと休ませたらしい)。息子は彼らのせいで地元中学に行くのはどうしてもいやだったのだが、中学では、その男子が不登校になったらしい。いきがってみてはくずおれていくという印象だったが。

パアラランや大空小学校の話を思うと、みんなもっと、幸福な子供時代を送れるはずだよ、と思う。学校というところも、周りの大人も、もっと子どもたちを幸福にできるはずだよ、と思う。
そうならないのは、子どもたちにばかり変わることを(たぶん大人の都合のいいように)求めて、学校や大人自身が変わるべきなんだということに、ほとんど何にも気づかずにいるからなんだろうな、と自戒を込めて。

 

 

台風……

千葉の台風被害のニュースで、雨漏りの映像見たとき、体がざわざわざわっとふるえた。思い出したのだ。

私が中1の夏だった。台風の直撃で、被害にあった。あのときの台風の最大風速が50メートルだったのをおぼえてる。
あの朝、「ねえちゃん、雨漏り」という弟の声で起こされた。2階の雨漏りからはじまって、そこらじゅう、バケツや鍋をならべたが、追いつかず、2階を通り抜けて,1階まで雨漏りしているのを見たときの、恐ろしさを思い出したのだ。手に負えない、という感じ。なすすべがない、という気持ちに何か打ちのめされた。

それから玄関に水がはいってくるのが見えた。父と母は畳を上げはじめた。私は靴を上にあげて、それから水が引き戸の隙間から、すこしずつ、でもどんどん大胆に上がってくるのを見ていた。床下浸水は何度もあった。でも、床下浸水で止まりそうにない、とうとう水が床上に来たころ、叔父が来て、私と弟は叔父に連れられて避難した。腰まで水につかって歩いた。転んで頭までずぶぬれになった。あとで体中に湿疹が出たのが、かゆくてたまらなかった。あの頃、あのあたりの家は全部、ぽっとん便所だったことを思えば、なかなかおそろしい。

毎年、台風がくるという度に、雨戸のない窓の外には、父がべニアをうちつけていたから、窓は割れなかった。でも屋根瓦は吹き飛んで、隣のトタン屋根に穴をあけたりしていた。
少し新しい家、すこし高いところにある家はなんてことなかった。私たちの住んでいた、低い土地に古い家が並んでいた一角が、水に浸かり、瓦がはがれて、ぼろぼろだった。
一週間後、ようやく家に帰ったと思う。父と母は、ずっと家にいて、家の修理と片付けに奔走していたのだが。カンカン照りの道沿いに、畳がずらっと干されていた。テレビも冷蔵庫も壊れた。
父が左官だったので、近所じゅうの屋根の修理に忙しくしていた。材料費だけで、直していたと思う。自分の家は一番あとだった。幸い、その間雨も降らなかったと思う。市の見舞金が6万円ほどだったことも覚えている。

思えば父が、そのようになおせる人だった、ということが、子ども時代の私の安心感の大きな要素ではあったと思う。
ちょうどそのころ、テレビドラマで「大草原の小さな家」がはじまっていて、私も夢中で見ていたが、インガルス家の父さんは、理想の父さんっぽかった。インガルスの父さんとは似ても似つかない私の父の、唯一似ているところは、壊れた家の修繕をなんなくやってのけられるということで、そこだけは尊敬していた。

男が恰好よく見えるというのは、まずもって、壊れた家の修繕をなんなくやってのけるところ、だと13歳の私は思っていたのに、ついに、そのような男とはつきあいもしなければ結婚もしなかった。生まれた男の子も、そのようにはなりそうもない。どこで間違ったんだか、間違わなかったんだか。
しばらく前に、沈む床をなんとかするために、板を買ってきて、畳をあげて、床板を張りなおしたのは、私である。

台風被害のあと、家は急速にもろくなった。戦前から建っていたという家ではあるのだが、しっかりしていたのに、あの台風のあと、すこしずつ傾きはじめた。隙間風がはいるので、父が戸のところに薄い板を張りつけてはふさいでいた。それが2重3重になっていった。その後、私は家を出たが、あの台風から10年経たないうちに、家は、立ち退き、取り壊しになったと思う。

あの頃、貧しくて、素朴な暮らしで、停電も断水も、わりとよくあって慣れていて、そういうなかでさえ、台風被害は、しんどかった。父も母も若くて、それでもしんどかった。
これから、今回のような台風があたりまえにやってくるようになるとしたら、くるようになると思うんだけど……。

暮らしは複雑になり、そして、たぶん脆くなった。



エアコンの節約のため、私は息子の部屋に寄生している。定期考査前なので、息子は勉強している、はずである。はずであるが、お茶飲んでくるとか言って、階下に降りて戻ってこなかったりする。ふと机を見ると、英語のワークがひらきっばなし。その長文見たら、なんか私でも読めそうである。ついでに、1ページ解いた。
あとで、息子が来て、「あなたは、もしかして馬鹿のふりをしているけれど、本当はインテリだとか、そういうやつですか」と言った。

なんか、失礼な言い方だな。母はそんなに馬鹿に見えますか。全問正解だったらしい。イエーイ。

100万人のフーガ

ところで、体育祭の打ち上げで、クラスで焼き肉に行く話を、息子は誰からも知らされなかった。行かない人たちも数人はいた。でも、話そのものを知らされなかったのは、息子だけだったらしい。

打ち上げの話はまず、クラスのグルーブラインではじまった。息子と洪水ちゃんはスマホがない。もうひとりはスマホはあるがグルーブラインはしていない。でも個人ラインで知った。息子と親しい男子3人が断った。おそらくそれで、そのあたりはこないと認識されて、息子は忘れられたようだ。男子3人は自分たちが行かないので、話題にもしなかった。洪水ちゃんもスマホがないが、彼女は女子たちから聞いた。つまり、クラスで、息子だけが知らされなかった。
体育祭も終わるころになって、耳にしたが、だからといって、クラスの誰と話をすればいいのかもわからない。いずれにしても遅すぎる。
そして、彼が知らされていなかったということを、おそらく誰も知らないのだ。

「話を聞いていないってことは行かなくていいってことだ。ラッキーなことじゃないか」と言ってのけるパパは、それはそれでたいしたものだが、行く行かないでなく知らされなかったことに、息子は静かに傷ついている。
とはいえ、彼はクラスメートの名前と顔がいまだによくわからないでいるのだから(名前は覚えた、たくさんいる女子たちの名前と顔が一致しないだけだ、と言っている)、忘れたほうと忘れられたほうと、どっちもどっちだけどな。

さて。昔、学童保育で働いていたとき、フーガ君という男の子がいたことを思い出した。騒がしくて手のかかる子ばかりだったが、フーガはものすごく静かな子だった。1年生にダウン症の女の子がひとりいて、いつも彼女をめぐって、ほかの子どもたちが大騒ぎになるのだが、2年生のフーガを彼女のとなりにすわらせると、場が落ち着いた。
男子たちはよく暴れたし、隣家にボールを投げ込んだりするし、奇声をあげたりかんしゃくがとまらなかったりする女子、ぜんそくの発作を起こすので気をつけてあげなければいけない子、目を離せないダウンの子、のなかで、フーガくんは、彼らの騒ぎからも遊びからも離れて、2階の別の部屋でひとりで本を読んでいるような子だった。

ある日、おやつのときにフーガくんがいなかった。とりわけ騒がしい日で、私たちは気づかなかった。おやつが終わったずっとあとになって、2階から降りてきた。翌日、フーガくんのお母さんが、息子だけおやつのときに呼ばれなかった、と抗議に来た。もっともな抗議だしもっともな心配だ。

「おやつだよ」と呼ぶ。たいていの子はそれでやってくる。呼ばなくても、大人たちが準備している様子を見て、すでに集まっている。フーガくんは来なかった。2階で本を読んでいた。たぶん聞こえなかったのだろう。そして忘れられた。

という話を息子にした。アンテナの問題がまずあると思う。フーガくんやきみみたいなのは、アンテナの数が少ない。自分が関心をもったことについては、自然にとてもたくさんの情報を集めてくるけれど、身近なざわめきのなかから、必要な情報を拾うということは苦手だ。そういう自分なのだということは分かっておいたほうがいい。(苦手なのに無理して、擦り切れそうに疲れている人たちもいるかもしれない)。

(だから、その苦手を補うために、スマホは必要なんですよ、と息子が主張するのも一理ある、と思う。スマホの話はまた別にするとして)

とにかく、10人にひとりか100人にひとりは、フーガくんみたいにおやつをもらえない子が必ずいる。世の中はそんなふう。そこで考えてほしいんだけど、
首尾よくおやつを食べられる子と、食べられない子がいるときに、きみはどちらの側にいたいでしょうか。

「もちろん後者でしょう」と息子は言った。それから言った。
「ぼくは生きにくいものの味方でありたい」
あまりにかっこいいセリフなので驚いた。
(友だちに借りて読んだラノベに、そういうセリフがあったらしい)

100人にひとりがフーガくんなら、1億人いれば100万人がフーガ。焼き肉にたったひとり誘われなかったきみには、100万人のフーガという仲間がいると思えば、ずいぶん心強い話だよ。

「つまり、生きにくいものの味方であるために、必要な経験ができたということですね」と、息子は言った。
この出来事の落としどころとしては、そういうことでいいんじゃないでしょうか。

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昨日の夕方は平和公園にいた。夕焼け色の原爆ドーム

 

体育祭

運動会が嫌いだった。行進も集団演技も、応援合戦も、叱られながらする練習も、ほんとに嫌いだった。運動会の応援合戦に、3年生がへんに熱中する高校にいて、練習に来ないとか、来たときの態度が悪いとかで呼び出されていた1,2年の頃の秋のしんどさ。あの美しい秋の夕暮れをだいなしにされたのは、やはり悔しい。3年のときは、仮装劇の責任者のひとりで、台本書いたし(ふざけたがりの男子たちにだいなしにされたし)、語り手の朗読して録音もしたし、衣装づくりのために、古シーツの染色もしたし。応援合戦の練習させられるよりはよほどましなので、やりましたが、リハーサル前夜、ついに心が折れた。これ以上、無理。
リハーサルの日、学校に行かなかった。

本番は、行った。母たちも来るし、浴衣着て阿波踊りおどるくらいはしようと思ったのだ。観客席にいた母に浴衣の帯を直してもらったときの母の笑顔を覚えているけど、思えばあれが、母との最期の秋だ。



息子が小学校のときの運動会、学年があがるにつれて、ほんとにいやそうな顔をするようになって、それを見ているのが、たまんなかった。彼がいまの中高にすすんで、まずよかったと思ったのは、運動会で入場行進がない!入場行進の何がいやかって、練習で立ってじっと待ってる時間が長いのが、体のバランスが悪い子にはしんどいのである。しかも人に取り囲まれた状態なのだから、息苦しくてたまらない。

この学校は入場行進だけではない、応援合戦もない。応援団有志の演舞があるだけ。体育祭のときの息子の表情も、ふつうに明るかったので、見に行くのも楽しかった。

さて、そのらくちんな体育祭、今年はさらに省エネが断行されていた。開催日が平日になり、借り物競争もなくなり、そのほかの個人参加の種目も減っていた。時間も短くなって、2時には終わる。4年生、クラス対抗種目が1つあるだけ、あとは男子は騎馬戦、女子は綱引き。リレー選手以外は、超気楽な体育祭だ。

午後から雨が降るかもよ、というので、傘をもっていった。
この傘が役立った。カンカン照りの日よけに。生徒席も観客席もすべて、テントが張ってあったけど、テントのなかにははいれなかったし、テントも半分は陽が差し込んでいたし。私たちは折り畳み椅子持参だったけど、なかにはテーブル付きパラソルつき、さらに小さいテントを張っていた人も。運動場広いのだ。例年夏休み明けのこの時期で、でも去年は風が吹いていたし、こんなに暑いのははじめてかも。
風景が白くかすむ。なんだかぼうっとしてくる。
これはちょっと無茶かなと思っていたら、応援団の演舞の子が倒れて(学生服着て、過酷だと思う)運ばれていった。

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去年ぐらいから、息子を見つけることが大変にはなってきた。背が低かったので見つけやすかったのが、伸びたので、みんな体操服だし、ウォーリーを探せ状態。騎馬戦のどこかで馬をして、ローハイドでも馬をする。得点係というので、掲示板のあたりにいるかと思ったら、いなくて、ようやく見つけたのは本部席。日陰の涼しいところでのんびりしていた。でも、私たちはもう暑くて吐きそうなので、ローハイドの馬を確認したあと、引き上げた。
帰りのバスのなかで、いきなり豪雨。でもバスを降りるときは小雨、すぐに止んで、再びかんかん照り。傘、日よけ雨よけに大活躍。途中でガリガリ君を食べて帰る。

昨日は過酷な暑さだった。省エネ体育祭は、結果としてよかったんだろう。

台風のあと、停電断水している地域は、とんでもないんじゃないだろうか。災害のない年はないのに、こんなに災害が続いているのに、いろんな危機と、危機の生きのび方について、考えるということを、何にもしてきてないなと思う。考える癖がついてない、と思った。

考えるためには生活をシンプルにする必要がある、と思う。でも日常は、いつもなぜかしら無駄に煩雑だ。

 

荒地

夏の間に、畑はすっかりもとの荒地にもどっている。夏休み中、留守ばかりしているからしょうがないのだが、背丈ほどの草がいちめんに茂って、とほうもない。毎日すこしずつ草引きすることにしたが、腰痛が不安で、すぐにやめる。暑いし。
鹿子の来た気配もある。枯れているのが暑さと水不足のせいか、鹿子が食ったせいか判然としないのもあるが、まあ、さんざんなありさまだ。

気楽にいこう。草引きしたらにんにくを植えよう。

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庭の秋海棠が咲いてる。連日、吐きそうな暑さながら、秋の気配はしているのだ。

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息子の鼻歌がある日、ロシア民謡
気になって調べたら、「行商人」という曲だった。ネクラーソフの詩。
昔、「だれにロシアは住みよいか」というネクラーソフの詩集を読んだことなど思い出した。

いつか処分しなければならないだろう本たちのなかには、ゴミ捨て場から拾ってきた本たちもあって、古いロシア文学全集、もう読み返すこともないかもしれない本たちは、それぞれの時に、私には、何か守護霊のようだったかもしれないなと、思う。


 

 

 

 

 

 

 

どくだみ酒

夏休みが終わって、息子が学校で模擬試験など受けている頃、私は東京。遊んでくださったみなさま、ありがとう。友だちがいてくれてうれしいです。数えてみたら18年ぶり、だったり。思い出は、たった昨日のことのようだったり、はるかな、いっそ他人の過去のことのようだったり。
東京から帰ってくると雨がつづいて、そして、いきなり夏が終わる気配。

あわただしさに忘れかけていたが、帰省したとき、父がもたせてくれた、アロエが、ひと山あるのだった。段ボール2箱ぶん。空地の庭に、茂り放題なのを、嬉しそうに摘んでくれたことだった。これは洗って刻んで、ホワイトリカーに漬けて、2か月たつと、よい化粧水になる。おかげで息子はニキビ知らず。なんかぶつぶつ出てきそう、になっても、これで顔を洗うと、翌朝には消えている、というすぐれもの。虫刺されにもよい。かぶれて、かゆいときにもよい。

それで、テーブルの下の瓶樽をひっぱり出してみると、これもすっかり忘れていたんだが、去年漬けたどくだみ酒、出てきた。

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舐めると美味い。これはすばらしい。飲むべし飲むべしと、ウィスキーの空き瓶に入れた。すると私が寝ている間にパパが飲んでいた。「最高」って言ってもらったけど、一晩でそんなに飲まないで。
ほかにグミ酒もあります。

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アロエ、怪獣の指のようなのを、とげとげ落として、刻むのが、途中で飽きて、結局2日がかりだったけど、漬けた。これで洗顔用化粧水1年分か2年分ある。

雨で、畑に行ってないんだけど、お茶がなくなってきたので、そろそろ摘みに行こう。わが家のお茶は、柿の葉と桑の葉とどくだみの3種混合。

お酒とお茶は、自家製でやりくりできるみたいだ。でも、ビールもウィスキーもペットボトル麦茶も買ってくるからなあ。(私は買わないが)。