ユートピア

翌日は、早朝から息子とパパが、旅に出た。私は寝る。雨が降っていて、予土線新幹線は、線路がすべるので、砂を撒きながら走るのが、ガガガゴゴゴとすごい音がして、アミューズメントパークのようだった、そうである。バスは田舎の道をすごい勢いでがたがた走る。さすがの息子も、2日連続同じルートは疲れたらしい。

f:id:kazumi_nogi:20190821144701j:plain f:id:kazumi_nogi:20190821144507j:plain

でも午後は、雨もあがって、私たちと、上の叔父と父と兄と、釣りに行く。1時間半ほどだったけど、小あじ33匹釣れた。小鯛(ちいさすぎる)3匹くらいとハゲも。晩のおかずには上出来なので、切り上げて、温泉に行く。
近くの温泉が、故障中らしく、別の温泉に。兄は週に2日、父と釣りの叔父とを車に乗せて、温泉に連れていく。山の中を、どんどん奥のほうへ行くのが、不安だが、忽然とあらわれる、ユートピア。なんとかのお風呂。

兄と釣りの叔父と私は、とっとと風呂から出て、先に帰って、魚をさばく。叔父は天才だね。仕事はやっ。私はもたもたと小あじの皮を剥ぐ。33匹剥いだ。
刺身の美味かったことは言うまでもない。なにこの贅沢。

ところで、この釣りの叔父は、市営住宅に住んでいる。庭の離れの小屋には兄が居候している。いい関係だが、この市営住宅、もうぼろぼろで、台所の床に穴が開いている。そのうえに板を渡して、使っている。家のなかは、布団敷きっぱなし、片付いてない、床は沈む、エアコンもない。それはまあ父の家も同じだが、この家の恐ろしいのは、匂いであった。
違う、臭いだ。釣りをするからだろう、魚の内臓なんかが腐っているのかもしれない、それに人間の汗のにおいや、いろんなものが混ざっているんだろうが、昔、パヤタスのごみ山を歩きまっていた頃のことを思い出したけど、もう、何年も経験したことのない強烈な臭い。叔父も兄も慣れているのか気にならないのか、平然としているが、外にも臭う。苦情来ないかしらと心配になるけど、それよりもこの家、もう人間が暮らしていい状態ではない気がする。

同じボロ屋に住んでも、父はよく片付ける人である。この叔父は片付けられない人である。私は、この叔父と一番親しかったし、よく似てもいる。
たまたま、私がため込むのは紙くずなので臭わず、叔父は魚なので臭う、というだけなのだが。
この市営住宅の建て替えの話があるのかないのか知らないが、新しくなったら、家賃も高くなるので、住めなくなる、という問題も、あるのだ。

夜、高校の時の友だちに会う。役所の出先機関で働いていて、仕事のあと、両親の食事の世話をして、そのあと、コメダ珈琲店まで出てきてくれた。
で、話題はというと、親の認知症の話と、彼女の住んでいるあたりの地域の高齢化のすごさと、医者の高齢化、市民病院で診察を受けるのが大変なことと、地域産業の斜陽と、子どもの貧困(畑あるから食べるものはあるにせよ)。
いや、昔っから、生活保護世帯の多い地域ではあるのだが。

 

「家の娘」という言い方があるのかどうか。実家を離れない、離れてもかえってきて、その家を守っていく役割を担うような女の子がいて、彼女もそのような「家の娘」なのだと思うが、自分のミッションは、老父母を送ったあと、集落の消滅を見届けることかしらと言う。町にもお金がないわけだし、周辺部に電気水道供給して、ゴミ収集してってできなくなるんじゃないかと思うよ、と言う。民営化がすすめばよけいにそうかも。

保険証がない、と年寄が何度も窓口に来るようになると、認知症はじまっているかなと思うらしい。この人やせたかなと、思っていると、まもなく亡くなっていたりする。作放棄地も、人がすまなくなった家も、たちまち山の緑にのみこまれる。滅びの様子の生々しい話だった。

年寄たち、誰がどの順番で死んでいくかしら、という話なんかしながら、誰がどんなふうに後始末つけるかという話でもあるけど、
あれですね。若い頃は若い頃なりに、疾風怒濤だったと思うんだけど、これからが、老いと死を前に、大変な疾風怒濤かもしれないわと思った。

このすごいユートピアで。

兄と、歳くったねという話をしていて、私はもう母の死んだ歳を越えたのだというと、母は本当に若くて死んだんだなとしみじみしていたが、「私が殺したようなもんですよ」と言うのだった。まあ、みんなそう言ってたけどね。

たぶんねえ、母さんは、もうこの子らとつきあうのは勘弁と思ったのよ。もう十分。新しい人生はじめたかったんだと思うよ、母さんが自分で決めたことよ、きっと。だからいいのよ。
と笑った。

f:id:kazumi_nogi:20190821144901j:plain 

翌日、父が半世紀前につくった、公園の門、切り株をかたどったセメントの門、を息子とみて帰る。夏休みも終わり。

 

 

 

かっぱうようよ号

3日間乗り放題の周遊券は2枚買った。息子は滞在の2日間とも乗る。同じルートを時間を変えて乗るという。2日間もつきあえるか、と思うので、1日目は私が、2日目はパパが同行することにした。

駅前の商店がごっそり取り壊されている。シャッターが閉まったままの店が多かったが、昔そこには本屋もあった。郊外に大型書店がやってきてからは、やっていけなくなったのだろう、古本と骨とう品の店になっていたが。その店でコクトーの「恐るべき子どもたち」を見つけて買ったことを思い出した。14歳のときだ。あのときめき。

さて。日曜の朝9時半頃の予土線に乗りに行く。
予土線3兄弟というのがあって、新幹線(はりぼて)とトロッコとかっぱうようよ号が走っている。新幹線は乗ったが、かっぱうようよ号。ははじめて。

f:id:kazumi_nogi:20190821143540j:plain f:id:kazumi_nogi:20190821143723j:plain

四万十川沿いを走るからだろうな。座席に河童の親子がすわっていて、触れると、観光案内をしてくれたりする。ガラスケースのなか、かっぱうようよのジオラマが飾られていて、中国人一家の小さい兄妹が、夢中で見ていたから、はずれではないのかもしれない、謎のかっぱうようよ号。赤字ローカル線のいじらしい努力である。観光客(鉄道ファンも)と地元の人たちと30人くらい乗っていたかな。夏休みの日曜日。
江川崎より向こうは私もはじめてだ。四万十川沿い、ひたすらな緑のなかを窪川まで。土佐くろしお鉄道に乗り換え、特急アンパンマン号で中村まで。ちょっと太平洋見る。普通に乗り換えて、宿毛まで。宿毛からはバスで宇和島まで。バスは寝た。待ち合わせの時間も入れて7時間の旅だった。風光明媚と言えば言える。退屈でもある。

f:id:kazumi_nogi:20190821143834j:plain f:id:kazumi_nogi:20190821143814j:plain

宿毛の待合室に、英語とハングルの観光パンフレットがあって驚いた。最近は外国人バックパッカーもいるらしい。お遍路さんもバックパッカーみたいなものかもしれないし、馴染むかも。しかしよ、ここまで来るのが遠いよ。
地域の衰弱は、どの市もその周辺も、半端ない感じがする。観光でやっていけるとも思えない。

夜、兄の職場の焼き肉屋に、兄とふたりの叔父たちと焼き肉食べに行く。いくらかかったかなんて絶対聞かないが、おそろしいと思うよ。父が、肉食べたくないと言って、来ないのは、肉食べたくないからではなくて、あるとき支払いをして、とても恐ろしかったからだと思う。誰も遠慮しないし、こういうとき兄は値段をいっさい気にしない。店の同僚が「こんな高い肉、私らは食べれん」と言うのを、注文しているもんね。たぶん給料からひかれるだろう。しかし、ほんとに美味しい。

帰省 トーフ型住宅

17日。しまなみ海道を通って四国に渡る。来島海峡。f:id:kazumi_nogi:20190821023535j:plain

宇和島に帰省するのに、いまは高速道路があるのだが、都合で旧道を通る。昔はこの道しかなかった。くねくね曲がって、登ったり降りたり、森は深くて暗い、私の郷里はこんなに遠いのかと思い知る。吐きそうになるし、疲れたけれど、なつかしい道ではあった。谷底のたこ焼き屋でたこ焼き買う。沢の水を使っている、と昔聞いたとおもう、このたこ焼き屋、兄が若い頃からあるそうだから、かれこれ半世紀以上つづいているのかも。

f:id:kazumi_nogi:20190821023647j:plain

宇和島にたどり着いて夜、父を誘って近くの回転寿司に行く。お盆明けの土曜日なので、混雑。
待ってる間、父と話す。
息子が、トーフ型住宅と呼ぶが、このあたり、改良住宅が立ち並んでいる。かつて部落の住宅事情は非常に悪かったので、市が四角いコンクリートの住宅団地をつくったのだった。昭和の48年くらいからのもので、もういいかげん古い。そして空き家だらけ。毎年、帰る度に空き家が増えている。庭草が茂るのでわかるのだ。年寄は死んで、若い人たちはもうこんなところに戻ってこない。公園も草が生えて、遊具も古い。子どもの姿は見なかった。
父は改良住宅の近くの、改良されなかった家に住んでいる。たぶん築70年以上。これはもう限界住宅。床は沈むし、隙間だらけだし。ぽっとん便所も勘弁してほしいし。でも父がかたくなに引っ越さないのは、家賃が安いから。ひとりだし、もうめんどくさいから。

ところで市は、トーフ型改良住宅が老朽化したので、壊して新しく建てることにした。5年後。その新しい住宅に入居する希望を父は出した。それはもうぜひ長生きして、せめて人生の最後は新しい家で暮らしてほしい。
帰省する度、父の家は、だんだん家具がすくなくなっている。もう本棚と仏壇ぐらいしかなくなっているが、新しい仏壇が欲しいというので、買ってあげる約束をした。いまのは一見立派だが、実はぼろぼろで、蝶番も壊れていたり、虫が出入り自由なのだそうだ。
父の家はエアコンはつけているが壊れている。実は壊れる前から、ほとんど使っていない。扇風機とかき氷でしのいでいる。で、この暑いのに80代半ばの年寄りが何しているかというと、草引き。近所の空き家が草ぼうぼうになるのを、せっせせっせと抜いている。昔から庭仕事は好きな人だ。それで、父の家の近くは空き家だらけだが、こざっぱりしている。
草引きはしたほうがいいそうだ。しないと、夜、眠れないそうなのだった。

私はここで暮らしたことがないので、このトーフ型住宅でどんな人がどう生きていたか、ほとんどわからない。トーフ型住宅が建ち始めたころ、私は小学生で、同級生がこのあたりに住んでいた。あのころは、牛を飼っていたり、豚を飼っていたりしたのに、どこにでも鶏はいたのに、いまはもうなんにもない。同級生たちの消息も知らない。
昔は、闘鶏の鶏をどこでも飼っていたらしい。それはフィリピンで、パヤタスの人たちが、路地で鶏を飼っているのとおなじような感じだったと思うよと、息子と話す。

国道沿いに、父の家からごく近いところに、コメダ珈琲店ができていた。行ってみようと父を誘ったが、そんなものに金が払えるか、とにべもなく断られた。たしかに家でインスタントコーヒー飲めば安いが、昔はコーヒーをよく飲む人だったのに、今はまったく飲まなくなった。嗜好の問題というより、懐具合の問題なのだと思う。
でも、孫に寿司は食わせるのだ。ついでに小遣いもやるのだった。

 

さて、その小遣いで、息子は四国西南部を電車とバスでめぐる周遊券(3日間つかえる)を買った。

帰省 夏の長門峡

帰国の翌々日は、山口に帰省。おばあちゃんが尻もちをついて腰の骨が折れたとかで、そんな時期に帰省しても大丈夫なのかと思ったけど、コルセットして痛みはないそうなので、帰省する。
夏休み、まだ高校1年だし、大学のオープンキャンパスに行くことなどは、まったく考えてなかったわけだが、1年生もどこかオープンキャンパスに行って、レポート出せという夏休みの宿題。で、夏休み直前になって調べたんだけど、フィリピンに行くし、地元の大学は、宇和島の帰省と重なるし、それなら、山口の帰省をオープンキャンパスに重ねよう、ということになった。

息子は下心があって、電車のローカル線に乗りたい。一時間ほど離れた町にあるキャンパス。ところが地元の大学に来てくれればうれしいのはおじいちゃんで、早朝からはりきって、車で送ってくれるのだった。
帰りは遅くなるし、保護者はすることないから帰ってね、と別れて、私と息子だけ構内に入った。私はすることもなくて退屈だったが、息子は研究室にも連れてってもらって、楽しかったらしい。

f:id:kazumi_nogi:20190812135912j:plain

環境のよさが気に入った。空が広いし、のどかだし、風が吹いて気持ちいいし、広島みたいにごみごみしてないし、ここがいいなあ、と言っている。ま、これからいろいろ考えなさい。というか、勉強しなさいよ。
せめて帰りは、電車に乗るつもりが、質問会が長引いたせいで、電車の時間に間に合わず、次の電車は遅くなるので、あきらめて、大学が用意したシャトルバスに乗った。
ま、このあたりの電車はまた乗れるから。

来年は、信州大学オープンキャンパスに行こうか、などと言う。それはさ、オープンキャンパスに行きたいじゃなくて、どこへ旅をしたいか、という話になってるよね。
青春18きっぷかな。

翌日は、いつものように、SLやまぐち号を追いかけながら、帰る。何度撮ったでしょう、長門峡駅

f:id:kazumi_nogi:20190812140106j:plain f:id:kazumi_nogi:20190812140212j:plain

夏の長門峡。水はながれてありにけり。

パアララン 5

8月5日月曜日。台風のため、クラスは休み。とはいえ、台風は遠くて、このあたりは普通に雨が降っているだけなのだが、政府が休みと決めたら休みなのだった。クラスがないなら、マットレスを片付ける必要もないので、息子、起きるつもりがない。こんこんと眠っている。

f:id:kazumi_nogi:20190812124301j:plain

風に裏山(ゴミの山)の草が鳴る。すばらしいグリーンフィールドだよね、と笑うんだけど。

イエン先生とマイク先生、レイレ先生がやってくる。ジョン・ポールとジェイペロウも。
ジェイペロウは奨学生のひとり。絵の上手な女の子。彼女、デング熱にかかって、しばらく休んでいた。一週間熱があったそうだ。どこの蚊に刺されたのか、わからない。

ヒューマンネイチャーという会社があって、自然化粧品などを扱うフィリピンブランド。貧困地域出身者を多く雇って、生産者に倫理的な価格を払う、人々の幸福を追求するという志ある会社で、『だれも置き去りにしない』という、フィリピンのNGOについて書かれた本にも紹介されていた。ベイビー先生の長女のジョイはもうずいぶん長く、この会社で働いている。
そこで、この会社が扱っているオーガニックコーヒーを、買って帰ってバザーで売る。原価そのものが安くないんだけど、ジョイが従業員割引で買ってくれる。「かずみがコーヒーいるってよー」という話は次から次へとリレーされて、在庫の確認、割引価格の知らせが届く。ジョイがお店にいる間にってことで、グレースとイエンが出かけていく。グレースはそのまま、仲間たちとのミーティングに行き、イエンが重たいコーヒー抱えて帰ってくる。
コーヒー、売れるかはわからないけど、それが心配だけど、残ったら我が家で飲めばいいので、それはそれで贅沢。

グレースのミーティングは登山仲間たちと。登山と植林が、いま彼女のミッションだ。19年前、グレースが心臓病の手術をするときに、日本で寄付を集めたんだけれど、助けてくれた皆さまありがとうございます。とっても頼もしいお姉さんになって、レティ先生を支えています。私たちのごはんも作ってくれた。

 コーヒーが届いたので、荷物まとめる。滞在最終日。

午後、先生たち奨学生たちは、子どもたちのノートの準備をしている。子どもたちのノートに、一冊ずつ、なぞって書かせるための文字や、単語と絵、さらに、ぬりえのための絵をかいていく。(コピー代も高いので、予算がないとこうなるかという…)
できることは、手伝う。息子、ノートつみあげて、飛行機や鳥や魚やゾウさんの絵をかきつづけた。

台風。このあたり雨も止んで風も止んで、何もないが、イロイロでは船が高波で転覆した。ニュースに、同級生の死を泣いている少女の姿が映る。毎年このような映像を見る気がする。
台風は、ルソン島の北の海を横切ろうとしている。飛行機、台風が来る前に、飛べるだろうか。夕方になって、ジュリアンから連絡。翌朝私たちを空港まで送ってくれることになっていたのが、都合がつかなくなったらしい。ということで、グレースとグラブタクシーで行けばいいよとレティ先生言うが、グレースは帰ってくるの?

みんなが帰っていったあと、息子は、レティ先生に、1万円を差し出した。「1万ドルはないけど、1万円ならあるよ」と思いついたのだ。去年、息子がレティ先生から送られた言葉は「インディペンデント」独立しなさいってことだったが、今年は「テンサウザンド」1万、だな。

グレース、深夜1時に帰ってくる。その30分ほど前まで起きていた息子は、グレースが帰ってこなかったら、ぼくたちはどうなるの?と心配していた。それはもう、あれですよ。前の道を、野良犬の糞に気をつけながら荷物運んで、ジプニーの通りに出て、ジプニーに乗って…って、考えるだけでぞっとしますけど、レティ先生はちゃんと手配してくれるよ。

8月6日、午前5時半、私はレティ先生にスポンサーさんへのメッセージ書いてもらって、グレースは息子に、挨拶しておいで、って声かけてくれて、息子はレティ先生に挨拶して、「しっかり勉強して。またおいで」って言ってもらって、グラブタクシーに乗り込んだ。
外はもうにぎやか。6時ころから午前のクラスの授業ははじまるので、通りは登校の子どもたちであふれている。それから街なかに仕事に行く人々。すでに渋滞がはじまりかけている。フィリピンの朝ははやい。

f:id:kazumi_nogi:20190812125827j:plain

高速道路からビル街が見えるあたり、ゲームのシムシティの街っぽい。

午前7時半、空港に着く。グレースと別れて(ほんとうにほんとうにありがとう)、空港内に入ったが、なんとなんとなんと、福岡行はキャンセルっていうのだ。
きたよ、ほんとにキャンセルだよ。
受付のお姉さんは、「明日」とそっけないが、いやいやいや、台風の進路を考えたら、明日はもっと飛ばないでしょうよ。食い下がる。日本のどこでもいい、どこか別の場所に着く便がないかしら。関西でも名古屋でも東京でも。福岡便の30分前にフライトの関空行に乗れることになった。ぎりぎりセーフの感じ。
よかったよー。私もうペソも円もないもんね。日本に帰ったらカード使えるけど。

で、無事帰国。しかし日本暑い。

帰りの新幹線の切符を買っておかなくて正解。関空に降りてうれしかったのは、息子。どの電車に乗って帰ろうか。できるだけ安く、しかし、あまり遅くならないうちに。
私鉄を乗り継いで神戸まで。乗る機会のない路線に乗れる。息子は一番前の車両に行く。すると、そこには、息子と雰囲気のよく似た、鉄道ファンの男の子たちがいるのだった。元町で降りたので、中華街で、ザーサイ買う。それから姫路まで出て、新幹線に乗り換えて帰る。
パパ、もよりの駅まで迎えに来てくれる。

次の日の午後まで眠った。

Thank you so much dear friends!

パアララン 4

深夜まで、表で男たちの話し声がうるさい。そういえば、私の叔父のひとりが、声の大きな人だよなあと、思い出したりする。この異国の路地にも、私の叔父のような男たちが、大きな声をあげながら、肉体労働しながら生きているわけだ。日曜早朝、また男たちの声がうるさいのは、たぶん、路地で闘鶏をはじめている。鶏の声、翼のぶつかる音。ところでこの朝、私は胃痛。
一応薬はもっているが、レティ先生が出してくれた薬を飲む。フィリピンの薬はやたらによく効く。やがておさまった。

レティ先生の末息子のジェイとカティ夫婦に、2月に待望の赤ちゃんが生まれた。結婚10年目くらい。男の子。で、レストランで食事しましょ、ということで、レティ先生とグレースと、グラブタクシー呼んでおでかけする。どこに行ったのだかわからないのだが、きれいなビル群のどこか。グリーンマンゴーのジュースが美味しかった。紙製のストローだった。いいね。

f:id:kazumi_nogi:20190812013309j:plain f:id:kazumi_nogi:20190812013418j:plain


自然分娩だった? 陣痛は何時間だった? 生まれたとき何キロだった? いつ頃歩いた? そんな話をしていたら、息子が小さかったころのこと思い出したけど、彼が生まれてからの日々、私はほんとに楽しかったと思ったなあ。テオが来て、カティもこれから、毎日どんどん楽しいと思うよ。

それから、パヤタス校の天井修理の話、先生の給料を上げてあげなければいけないという話。息子はジェイと、ピアノと鉄道の動画の話をしたそうだ。英語上手だよとほめてもらっていた。

風が強いので、台風が来るねと話して、別れた。夕方、パヤタスに帰ったころから、私は熱っぽい。氷を抱いて寝る。
こういうこともあろうかと薬は持ってきているので、そのうち熱はひくだろう。そして実際、翌朝にはすっかり平気だった。
ずっと以前、暑くて我慢ならなくて、毎夜毎夜、氷を抱いて寝ていたこともあったし、帰国の日に熱を出して、空港でチェックされたこともあったし、、、と思い出したりする。

台風が来るから、帰りの飛行機はキャンセルだよ、とレティ先生が言う、グレースが言う、毎年、言うよね。
息子が真に受けて不安がる。キャンセルになったらどうなるの。どうもならない。キャンセルになったという経験をするだけ。それはそれで、いい経験になると思うよ。

経験。親が子どもに何を伝えられるかは、とてもおぼつかない。同じ場所にいて、同じものを見ても、同じものを受け取ってくれるわけではない。
パアラランに連れて来て、ほんとうに得難い、敬愛すべき人々のことを、私は伝えたいのだけれど、ほんとうに大切な何かは、きっと息子が、彼自身の人生を生きていくなかでしか、わかってゆかないことだし、人間の尊厳は、そういうことでもあるのだろうなと、思う。

パアララン 3

8月3日。深夜まで通りは人の声でにぎやかだ。人の声の鎮まった未明から早朝に豪雨。夜、激しい雨の音を聞くのは、疲れる。私の右側では、息子が軽い寝息をたて、私の左側では、犬のウィスキーが、寝息をたてている。ぐーすー。やがて、雨にも負けず、鶏の鳴き声。

土曜日はどうするか。私は、去年行けなかったナショナルミュージアムに行けないかな、と提案してみたけれど、週末の街なかは、トラフィック(交通渋滞)だし、こんなに雨が降ってはいろんなところが水浸しだし、運転したくない、とジュリアンが言うので却下。で、手軽なところで、ジュリアンが私と息子をショッピングセンターまでお買い物に連れていってくれることになった。
もうね、マニラの街はいつでもどこでもトラフィックなので、どこへ出かけるのも、ストレスのかかることだった。
SMに行く。20数年前、郊外の空地のなかにできたショッピングセンターだったが、いまは、あたりは大きな街になっている。近くにはLRTも建設中。

f:id:kazumi_nogi:20190812003203j:plain f:id:kazumi_nogi:20190812003332j:plain


まず、バザー用とお土産用のドライマンゴーを探してうろうろ。それから私のサンダルを探してうろうろ。パパのお土産を探してうろうろ。ごはんはフードコートでピザ食べた。子ども向けのトレインが走っていたり、メリーゴーランドや観覧車がまわっていたり、休日に家族が遊びに来るような場所になっている。小さい子たちを遊ばせられる。
それから、息子は本屋をはしごして、何を探していたかというと、英訳のコミックス。高橋留美子のを1冊見つけていた。本、安くない。
本の品揃えはあんまりないが、どんな本屋にも、いろんな種類があるのが、バイブル。本とは、まずもって聖書のことだったのだなあと、思う。

SMから帰ると、パヤタス校では、イエン先生とレイレ先生が、テラスで洗濯。レティ先生一家の一週間分をまとめて洗濯。レティ先生は車いすだし、グレースもクレアアンも忙しいので、手伝ってもらっているのだろう。
キッチンでは、リサ先生が書類を整理している。リサ先生はようやく試験に受かって高校の先生になったが、いまも休日などはパアラランに来て、パアラランと外部とのマネジメントや各種書類の作成などを担当している。

新しい仕事はどう?と聞いたら、「とってもストレスフル」だって。
フィリピンの学校は、午前と午後の二部制。小学校も高校も、午前のクラスなら、昼には帰るし、午後のクラスなら、昼から登校する。
リサは高校で音楽を教えている。午前のクラスが担当なので、早朝6時からクラスがはじまり、1日に4クラス教えて、午後1時ころ終業。クラブ活動などは、ない。
教育改革はすすんでいて、4年制だったハイスクールは、4年間のジュニアハイスクールと2年間のハイスクール、あわせて6年、国際標準になった。リサの学校は1クラス60人から70人いて、14歳や15歳の難しい年ごろで、くたびれる、そうだ。
たしかに。私の息子も15歳だが、一人でじゅうぶんストレスフル。70人もいるなんておそろしいよ、と笑う。
クラスの人数は多い。キンダーガーデンでさえ1クラス40人50人いるよと言う。
そういえば、以前エラプ校の先生だったロシェル先生は、今は公立のキンダーガーデンの先生をしている。パアラランは、子どもたちだけでなく、先生を育てることもしてきたのだ。

とっても静かで、とってもシャイな私の息子の話。日本ではあんまり気にならないが、ここではそのシャイさ加減は、気にかかる。去年はジェイに「目を見て話してよ」って言われていたし。
ここにいると、パアラランの奨学生たちも、日本の学生たちも、積極的にコミュニケーションをとろうという意欲のある姿を見せてくれるので、それをあたりまえのように思ってしまうわけだけど。
気づいた。私の息子はまだ、たった15歳なのだ。不器用ながら、それでも彼なりの自然さで、ここに滞在していることは、それはそれで立派かも。そして、みんなが、それぞれに自然体でかまってくれるのがありがたい。

私の息子はシャイだけど、私が15歳だったころよりは、ずいぶんずいぶんましだと思いいたった。あの頃、私は、コミュニケーションもへったくれもない、教室でも本で顔を隠していたし、人とのやりとりは、基本、苦痛だった。本のなかに引きこもっているような子どもだった。そうでした、私が知った人に会っても、挨拶もしないことを、母が嘆いていたと、母の死後となりのおばさんから聞かされたわね。

 夜、グレースが、圧力鍋で、牛肉の骨のスープをつくってくれた。