局地風(わたくし風)

1月27日に、宇和島を襲った強風は、局地風で、わたくし風、というらしい。32.6メートル。とんでもなかったろうなと思うんだけど、兄が言うには、あんなひどい風は生まれてはじめてだったらしい。
その兄が電話してきたのは、7日だっけか。一週間ほど前だけど、ずいぶん前の気がする。強風のあと、なんか妙に宇和島に帰りたい気持ちが募って不思議だったんだけど、兄からの電話は、父入院、の知らせだった。

腹痛で病院に連れていって、入院、検査。本人は、胆石、と思っていたらしい。胆石もあった。胆のうが破裂したとかそういう話でもあった。でもそれだけじゃないようだよと、医者は言って、内科と外科と行ったり来たりの検査で、すでにステージ4で、長くないよ、ということだったらしい。

帰ろうかと言ったら、来てもすることはないからいいよという。コロナウィルス騒ぎで、あんな辺境の町にもマスクがないそうで、病院も家族以外の見舞を制限しているし、家族にもあんまり来てほしくないようだという。本人には本当のことを言っていないし、と。
それで、春休みに息子を連れて帰省しようかということになった。
兄がいてくれて助かる。兄は焼き肉屋で働いているので、マスクは会社にあるので間に合うらしい。

そのあと、父はバイパスを通して、これで食事もとれるはず、だったのが、食べたら吐いてしまうので、再検査再手術を来週にすると、兄が電話をかけてきたのが、3日前くらいかな。思ったよりも悪いようで、いろいろ相談もあるし、一度帰ってくるかというので、今月の終わりにでも帰ろう。

夏に帰省したときには、近所の草引きとかしてたけどな。でも何か不安はあったかもしれない。ここ1、2年、妙におとなしかった。帰る度に、部屋からものが消えて、支度しているようでもあった。

父には余命のことなど告げていないという。兄の判断なら、それもいいかと思う。
でも父さん、自分でわかってるんじゃないかという気がするけど。ああ、でも、もう少しゆっくりでいいんだけどな。

帰省に備えて、マスクつくった。うちにある買い置きのは家族が使うだろうから。ガーゼのハンカチの使わないのがいくつもあったので縫った。プリーツ入り。息子が小学校のときに給食係のマスクを縫ったっけ、と思い出したりする。あと、ゴム買ってこなきゃ。

f:id:kazumi_nogi:20200216002012j:plain

そういえば仕事のお話の電話もきた。これはありがたく。忙しい春になりそう。

 

っぱなしの…

服脱ぎっぱなし、電気つけっぱなし、戸をあけっぱなし、食器出しっぱなし、カバン投げっぱなし、本投げっぱなし、教科書ノート出しっぱなし、それで、提出物がどこにあるかわからないとか、ばたばたしている。
いいかげんにしてほしい。と息子に言ったら、ママそっくり、と向こうの部屋でパパが言う。ま、わかってますけどね。
つけっぱなしの電気を消し、あけっぱなしの戸を閉め、でもきみの……ぱなしの後始末をするぐらいはなんでもないなと思う。それくらいしてあげる。だってきみには、このあと、たぶん、母の死体の後始末をしてもらわなければいけないから。だって、死んだら死にっぱなし……
と言ったら、息子、階段の途中で、フリーズしていた。
いや、それはほんとに、ごめんね、大変なことをきみにさせることになると、思うんですよ。

また別のとき。使った食器をせめて流しに置くように言って、私はいいんだけれども別に、きみがどんなに……ぱなしでも。でも、ほかの女には、捨てられるかもしれないと思うよ。
と言いながら、私はものすごく不安になった。

生活する、ということを、どこかで立ち止まって、丁寧に学ばなければいけないはずなのだ。はずなのだが、母が母であるし、生まれたのがしっかりした娘でなくて、どこまでも怠けたい息子であるから、その息子と意気投合して怠けるのが大好きな母であるから、まあ、なんともなりそうにない。
息子、平日は宿題に追われ、休日も宿題に追われ、あとはひたすら眠っている。

メモ。
高1息子とセンター試験解きあいっこ。

数1A (履修)息子48点 私14点
地理B (未履修)息子79点 私63点
国語(200点満点)息子148点。私163点。
英語(200点満点)息子120点。私64点。
世界史A(履修) 息子94点 私70点。
生物基礎(履修 50点満点)息子44点 私5点。

息子、地理は中2のときから70点あった。鉄道オタクの底力を感じる。国語は去年90点くらいだった記憶だから、大躍進。国語は私まだ負けない。でもあとはもう、問題文読むのもつらいわ。読んでもわかんないわ。

お正月が終わったばかりの気がするのに、模擬試験がもうふたつもあって、高い模試代払って、心折られて、青ざめて帰ってくる子を見なければいけない。高校生ってしんどい。

ところで、明後日は、百人一首大会があるっていう。1年から4年までクラスで5人ずつ。今年はもう出ない、歌は覚えてるけど、体が動かないし、とかとか言っていたが、結局、出るんだそうな。それならすこし練習したほうがいいよ、女の子たちに恨まれない程度には。ということで、
さて、今年はじめてのかるたとり。源平でやった。やったが、私28枚、息子27枚とったところで、お互いこれ以上傷つきたくなくて、やめた。
息子は母に負けるだろうと思っているし、母も息子に負けるだろうと思っている。で、負けるのいやなのだ。お互いに。残り枚数少なくなってくると、熾烈になってくるし、私はもう、その緊張感がしんどいわ。
いやもう、まったりと坊主めくりしたいと思います。

f:id:kazumi_nogi:20200203050824j:plain







阿川パパ

1か月くらい前かな、テレビに、山口の阿川駅が映った。それで、なになに、とのぞきこんだら、鉄道番組じゃなくて、阿川佐和子ファミリーヒストリーだった。
阿川のルーツがそこだということで。
で、お父さんの阿川弘之が広島で生まれ育って付属から東大に行って、それから戦争に行って、というようなことは、知っていたような知らなかったような。
それで東京で、足繁く通ったのが哲学者・谷川徹三の自宅だった。長男の谷川俊太郎が、阿川弘之が酔っぱらって母の膝枕で寝ていたことを語っていた。
証言1
「やっぱり人柄なんじゃないかな。阿川さんは潜在意識がすごい綺麗な人なんですよ。つまり意識下にみんな恨みつらみなんかを溜め込むでしょ。そういうのが一切ないという感じがしますね。本当に正直に人と接することができる人」

で、結婚して子供ができる。癇癪もちだったらしい。佐和子の弟が話していた。
証言2
父がいきなりセーターを脱いだ時に、その手がボーンと母の頭にあたって、母が倒れたんですよ。その時の第一声の父の言葉が「お前はなぜそこに立ってるんだ。だから倒れたんだ」といった時には私はびっくりしましたよね。こんなの許されるのかなと。


ここで、うちのパパが言った。「それはわしだ」。
そうだそうだ。私と息子は大笑いして、日頃の留飲を下げた。

パパが言うには、それは、負けた人間のメンタリティなんだという。つまり、カープが弱かったころを考えてみろ、バッターボックスに王貞治がいる、カープの投手が投げたボールがデッドボールで王にあたる。「おまえがそんなところにいるからぶつかったやないか」と言いたくなる。
そういうことらしい。うんうんと息子はうなずいていたが、私はさっぱりわからんわい。

阿川弘之は、戦争で負けた。本気で戦争に行って、その人生を否定された。
たぶん、うちのパパにもパパなりの、負けがあるのだろう。

それはそれとして、大事なのは、証言1で、なるほど、潜在意識に恨みつらみがないから、一緒に暮らせているんだと思った。

思えば、男でも女でも、どんなに親しくても、ある時突然のように、恨まれる憎まれるということが起きるのだったが、そういうとき、気づかずに、私は踏み抜いてしまったらしい、という感じがするのだが、気づかないので避けようがない。
そうだった。隠されているものが、いつもこわかったのだ。

でもいま、私はそういうことをまったく警戒せずに、安心して暮らせているし、むしろ踏み抜いても大丈夫なので、踏み抜く必要がないという感じだけれど、たぶん、そうでなければ、人と一緒に暮らすなんてこわすぎる。

安心して一緒にいられる家族と友だちがいてくれて、私は幸せな人生になったと思う。

で、阿川パパは、鉄道ファンだったらしい。「きかんしゃ やえもん」を書いた人らしい。ということで、阿川パパは、我が家の登場人物になった。本、読んだことあるかな。ないかもな。名前だけは子どもの頃からよく見ていた気がする。

 

 

 

 

 

存在しようと

詩誌「みらいらん」。コラム書かせてもらったので、貼っときます。

f:id:kazumi_nogi:20200113164237j:plain

ドイツ語ができないので、リルケの詩が本当はどうなのか、わからない。手もとにある3冊ほどの詩集の訳はそれぞれに違っていて、私が15歳のときに、記憶した訳とも違う。どんな本を読んだのか、誰の訳だったのか、いまもさっぱりわからない。

北海道に行ったときに、どこかの小さな駅で、ストーブにあたっていたら、嫁に来んかと、眉毛の長いおじいさんに声をかけられた。村の若い者のところに来てくれる嫁を探しているのだといった。家と広い土地と車がある。無理です、と思った。こんな寒いところは、私は無理。3月も雪なんて、そんなのは無理。
フィリピンから来た嫁もいる、とおじいさんは言った。それはすごい、と思った。こんな遠くへ、こんな寒いところへ。
夜だったと思う。そのあとどうしたんだろう。その前後の記憶は消えている。おじいさんの眉毛の長さに、異郷を感じたのと、自分がほんとうはとてもこわがりだということを、思い出したのだった。

昨日、息子と街に降りたので、平和公園に行く。国際会議場地下、高校生が描いた原爆の絵の展示の最終日。

f:id:kazumi_nogi:20200113162847j:plain

製作は、被爆者から、被爆体験を聞く、というところからはじまる。それも、一対一で。それは心臓に痣が浮かぶようなことの気がする。その痣が、画布に写される。きっと、痣になったぶんしか絵にならない。
それぞれの絵は、過去が、死に物狂いで、生きのびようと、未来に手を伸ばしている姿に見えた。その、焼けた手、血まみれの手。たくさんの死体と瓦礫のなかから。不覚にも目がうるんできた。

それから息子は、模型屋に遊びに行き、模型のほかに、西村京太郎の文庫の中古を買ってくる。なんとか鉄道殺人事件、みたいなやつ。気になるらしい。もう相当に古いよね。

それから待ち合わせて一緒に帰り、途中で降りて、古着屋で、息子のコート300円で買う。学校指定のコートは2万円だった。4冬着たが、もう小さくて来年は着れない。新しいのをまた2万円出して買うのはしんどい。ボタンを付け替えたら、学校指定のに見えると思う。ありがたい古着屋。


「苦しみを負いなさい。苦しみには理想があります」
というようなセリフが、「罪と罰」のどこかにあったと、記憶しているんだけれども、いざ探そうとすると見当たらない。場面も思い出せない。丁寧に読み返してもいないんだけれど。

詩誌「みらいらん」5号の小特集「童心の王国」面白かった。
そのなかで、蝦名泰洋さんが、季語と芭蕉の俳句のことを書いているんだけど、途中にはさまれている修道院の僧ベルナールさんの話が、個人的にツボだった。
修道院の庭に花を見つけて、沈黙の戒を破って走り回ってしまうベルナールさんがね。辻征夫のエッセイにあった話らしいんだけど。

f:id:kazumi_nogi:20200110232929j:plain

私の郷里の近くの町に、野村学園という知的障碍児施設があって、子どもたちが寮生活を送りながら養護学校(いまは特別支援学校という)に通っていた。私はその施設に行ったことはないけれど、母と弟は行ったことがある。
弟が、言語学級のある校区外の小学校に2年通い、もともとの学校に戻ってきて半年かもうすこし過ぎたころ、弟のクラスの担任が連日のようにやってきて、弟を特殊学級(と当時は言っていた。特別支援級)に行かせたいと言うのだった。授業中に立ち歩く、勉強しない、できない、あれこれあれこれ、つまり、この子がクラスにいて、私はとても困っている、と担任が言うのを、私は隣の部屋に隠れて聞いていた。
当時、発達障害、という言葉はなかったし、相談する先もなかったし、とりあえずおとなしく問題なさげに見える姉とちがって、落ち着きなく勉強についていけない弟のことを、そんなふうに言われて、母がどんなふうに悩んだのか、わからないが、
ある日、母は弟を連れて、その施設を見学に行ったのだった。
あとから、大人たちの話の端々から、私はそのことを知った。町の外に、あの山と川の向こうに、母と弟だけが見た景色があるのだなあと、思った。母と弟だけが、私の知らないはるかさのなかに、旅をした、と思った。
弟が小4、私が小6になるすこし前の話だ。

大学生になったころ、たまたま本屋で見つけたのが、その野村学園の子どもたちが、粘土板に刻んだという詩の本だった。『どろんこのうた』仲野猛編著。谷川俊太郎が帯文を書いている。
ああこれは、母と弟だけが見てきた、山と川の向こうの風景のなかから、やってきた本だと思った。方言の混ざった子どもたちの詩の言葉がなつかしかった。
そのなかに、「花」という詩があって、大好きだった。

 花  丸岡リカ

はな
はな
はな
とった
はい

 

僧ベルナールの話で、この詩を思い出した。それから子ども時代の光景が、雪崩れるように思い出されて、私も駆け出して笑いたかった。
それから、思い出というものを、誰とも分かち合えないことを思った。母が生きていたとしても、それはちがう光景だし、弟がおぼえていたとしても、それはやはり違う光景なのだ。
詩は、あの山と川の向こうの、ある日母と弟がそこにいたと思えばなつかしい気がする、はるかな緑のなかから、花のようにやってきた。

f:id:kazumi_nogi:20200110233647j:plain

大塚国際美術館の展示から)

ほかに八重洋一郎「傷痕」の、子どものころの変な感覚、モノが意味を失ってそれが何であるかまったくわからないという感じ、はそれそれそれそれ、といたく共感した。

生野毅「かいじゅうたちのいるところ」は笑ってしまったが、やがてせつなき、という話。70年代、たしかに怪獣たちのいる子ども時代だったなあ。全然興味なかったけど。

 

母のつづき

母が52歳で死んだので、人生はそれくらいの長さなのだろうと、思っていた。わりと強く、そう思っていたようだ。それでも途方もなく、十分すぎるほど長く思えていた。18歳の頃は。人生が50年もあるなんて。

人生は終わったのに、なぜまだ生きているのかよくわからない、という感覚に襲われていたのは、30歳の頃で、世の中も、人の気持ちも、私にはわからない動き方をするようだと、謎のなかをさまよい疲れて、ようやく謎が謎でなくなったときに、理解したのが、恐怖や憎悪や嫉妬や殺意がどんなものかとか、暴力が伝染することへの絶望感であるとか、そういうことだったので、つまんない謎解きだった、あれは私の敗戦だった。
それでもまだ、あと20年くらいは生きるのだろうかと思ったときに、その20年がとても長く思えたのを覚えている。


ある朝、思いがけず、こころよい目覚めがあった。フィリピンのごみの山で、ふもとのフリースクールに泊まった翌朝、レティ先生に起こされたとき、こんなに安心して眠ったのは、どれくらいぶりかしらと思った。それが母の棺の横で眠ったときの感覚と似ていて、葬儀の朝の秋の日差しを思い出した。
そのとき、レティ先生が52歳だったということはあとで気づいたのだけれど、52歳から先にも、人生は続くのだということ、それはとてもいいものかもしれない、ということを、私はレティ先生を通して理解した。母のつづきがあるのだ。
敬愛できる人に出会えたことがしあわせだった。人生が生きるに値するものになる。

自分が母親になると、夢にも思ったことがなかったが、子どもが生まれたので、もしかしたら、もうすこし長く生きることになるかもしれないと思った。18歳で母に死なれた私より、17歳で母に死なれた弟のほうが、はるかに、くらべものにならないくらい、その痛手は大きかった、と思う。
息子の痛手が少なくなってから死にたい、と思った。

で、気がつくと、私は母の死んだ歳をとっくに超えてしまったし、超えたぶんは、なんか、おまけのようで、いつ取り上げられても文句はないんだけど、レティ先生が70代の後半になって、車椅子になっても、たんたんと学校をつづけているのを見ると、
私もたんたんと生き続けていていいのだろうなと思う。

誕生日が来る度、おまけの歳月が増えているのが、不思議でぜいたくで仕方がない。


最近、90歳前後の方たちから、被爆体験の聞き書きをするということを何度かしていて、もし生きていたら、母もこのくらいの年齢だったのかと思い、もし戦時中に、15歳くらいだった母が、友達に広島に働きに行こうと誘われたときに行っていたら、被爆体験のどれかは母のものであったかもしれず、私が子どもだったときに、母親世代だった人たちなので、お婆さんたちの何げない仕草や、昔のこぼれ話に、ふとなつかしさや親しみを感じたりする。

母が52歳よりも長く生きられたかというと、それはやっぱり無理だったろうと思うのだけれど、もしかしたら、私は生きてしまうかもしれない。すでに何年も余分に生きたし、もしかしたら意外に長く生きることもありうるかもしれない、と目の前の90歳の人を見ながら、思ったのだった。

だとしたら、おまけ、たくさんすぎる。

f:id:kazumi_nogi:20200108160812j:plain

大塚国際美術館。中世の聖堂を模したあたりが、すごくよかった。


 

桂浜の小石

翌3日。暗いうちにホテルを出て、駅へ。
行ったことのないところ、乗ったことのない路線は憧れであった。息子はやってきた車両に感動している。どこが感動ポイントなのか、私にはわからない。
徳島から阿波池田まで。乗り換えて、土讃線で高知まで。この日はJR四国の正月限定の特急も乗り放題格安切符。

高知に着くと、目に飛び込んでくるのは、アンパンマンと龍馬先生。
空は真っ青、雲ひとつないいい天気。なので、海までゆく。
バスで桂浜まで。
龍馬の銅像あたりで、アイスクリン売っているので、買って食べた。なつかしいなっと。息子ははじめて。「アイスクリームとは別物だ」とふしぎがっていた。

f:id:kazumi_nogi:20200106192629j:plain f:id:kazumi_nogi:20200106192732j:plain

桂浜。大晴天。いつか晴れた日の桂浜を見たいと思っていたので、うれしい。
昔、一度だけ来たことがある。高校生のとき。兄と、もう10年ほど前に死んだ、兄のような人と、ふたりが、ドライブに行こうか、と誘うので、誘いにのったら、連れてこられたのがここだった。

宇和島からどの道を走ったんだろう。ずいぶん遠かったし、あのころ道もそんなによくないし、車に酔いやすい子どもだったので、酔ったし、天気は途中から空が暗くなってきてたし、季節はいつだったんだろう、とにかく海に着いたら、風が強くて、波が荒くて、寒くて寒くて、雨までぱらぱら降ってきて、一面灰色の世界だった。なんでこんなにぼろぼろ疲れて、こんなに暗いこわい海を見なければいけないかと、恨めしかったけど。

こんなに光にあふれた青い海、雲ひとつない青い空。桂浜の上書き完了。笑い出したくなるくらい、気が晴れた。

f:id:kazumi_nogi:20200106192819j:plain 

それからバスで市内へ。途中で、市電に乗り換えて、駅まで。
やっとここで駅弁買う。息子が欲しいのは売り切れてなかったけど。列車の旅の難しさは、乗り換えの時間とかうまく折り合いがつかないと、食事をとりそこねてしまうことだ。あれこれの駅弁をあこがれながら、たいていお腹をすかせている。
大歩危下車。

f:id:kazumi_nogi:20200106192920j:plain f:id:kazumi_nogi:20200106193045j:plain
渓谷見ながら、弁当食べる。遠くの山の上のほうに日が当たっているのが、なんかうれしい。
タクシー代はないので、かずら橋は行かず、駅周辺を散歩する。
それからやってきたアンパンマン列車に乗るが、岡山行きはデッキも身動きできないくらい、混み始めていた。
多度津下車、坂出まで行って、坂出からマリンライナーで岡山へ。坂出からは青春18きっぷ。瀬戸大橋を渡ったあたりで、日没。
それから鈍行にゆられて、夜遅く、帰宅。

f:id:kazumi_nogi:20200106193518j:plain

帰りつく頃になって、お土産をなんにも買ってない、と気づいた。息子のポケットには、大塚美術館のガチャのゴッホの絵のピンバッチ。私のポケットには、桂浜の小石。

ありがとう。楽しい旅でした。