ユニコーン、こんなところで

2020あけましておめでとうございます。

1月2日3日は息子と旅。
2日朝、朝5時過ぎの始発で出発、この日は青春18きっぷ
尾道の海が見えるあたりで朝焼け。瀬戸大橋を渡り、徳島行き鈍行、途中乗り換えて鳴門まで。

息子は徳島初上陸。私は何十年前かに一度、吉野川を見たかな。
四国西側は故郷エリアだが、東側は異郷エリア。

電車で来るのははじめて。快晴であたたかくて、乗客の雰囲気ものんびりしているのが、ああ四国だなあと、思った。あたたかいって、恩寵である。

息子の旅の目的は、電車に乗ること、それに尽きるのだが、それだけでは私はつきあうのがつらいので、何か別の目的がほしい。
ということで、バスに乗って大塚国際美術館へ。

美術館おもしろかった。いきなりシスティナ礼拝堂で、そのあと、古代中世と、歴史や美術の教科書のなかをどんどんくぐりぬけていく感じ。
これ、世界史の資料集にあったとか、美術の教科書のだとか、小さなカットにおさまっていたものが、実寸大であらわれてくるのはおもしろい。
この絵、たしか津島祐子の短編の表紙だった、とか、ミサ曲のCDのジャケットだ、とか、そういうこともわんわん蘇ってくるのだったが、わんわん蘇ってきたりしない息子は、さくさくと歩いていく。

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中世おもしろかった。アッシジのフランチェスコとか見ると、なんかとってもほっとするし、ユニコーン、こんなところでおまえに会うなんて。この絵は辻邦生の本の装丁だった。

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息子は、前夜の寝不足がこのあたりでたたってきて、中世の行けども行けどもキリストの磔の絵がつづく退屈に疲れて、不機嫌。お茶にしようか。

 

辻邦生をはじめて読んだのは高校1年のときで「春の戴冠」ボッティチェリの話だった。あのお話は大好きで、あれから私は春とサクラソウの花が好きだ。そのプリマヴェーラの絵もしっかりある。

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昔どこかの美術館で本物を見たことがある、ゴヤの暗い絵とか、ゴッホとか、ムンクとかバルテュスとか、かつてそれを見たころの、あれこれのできごととか、まわりの人たちのこととか思い出すけど、息子に話すようなことでもないし、誰ともわかちあえない思い出があるというのもわるくない。
息子、近代の展示に入って、ターナー蒸気機関車あたりでようやく元気になる。

それからバスで鳴門駅に戻る。鳴門から徳島へ向かう途中の夕焼けが、素晴らしかった。こんなきれいな夕焼けひさしぶりに見たよ。

徳島駅についたときはもう暗くて、ホテルまで城跡の暗いなかを抜けてゆき、私と息子の旅では、安宿にしか泊まらないのだが、ありがたい安宿にもぐりこむ。

エゴン・シーレの夕焼け。

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どこか、安心できる場所で

今読んでいる本のタイトル。「どこか、安心できる場所で」(新しいイタリアの文学)という短編アンソロジー。子ども、底辺労働者、移民たちのささやかな物語たち。なんといっても本のタイトルがいい。ちょっと泣きたくなるタイトルだ。

朝、弟から電話。いきなり。何年ぶりだろう。
家族からの電話は緊張する。何があったかと思って。弟が言う。松山の伯父から伝言だ、と。声がのんきでちょっと安心する。伯父さん、まだ生きていたのか。90歳くらいのはずだ。弟、仕事が休みで、伯父さんのところに行ったらしい。昔にくらべて小さく弱々しくなっていたけど、姉ちゃんに言っとけって。
さて何を。たぶん20年くらい前に祖母の葬式で会って以来、だけど。
旦那さんと息子を大切にせえって。
ああそう。
まあ、たぶんそれは電話の口実だ。携帯電話が変わったからメモしとけって言う。

はい、します。
仕事、変わったらしい。前の運送屋さん、どうしたの? 「経営不振」
なんで? 「入ってくる人間、入ってくる人間、ぼくみたいに事故して」
それは不運な。「無理な仕事とって、寝不足で働かせるから」
なるほど。そういうところでしたか。
いまのところは、前の運送屋とつきあいのあった別の運送屋で、弟はそこに移った。たぶん社長同士が話をつけたのだろう。「いまのところは、睡眠時間も十分にとれるからいい」と言う。それならよかった。で、給料日になると、前の会社が、給料のなかから、借金をもっていくのだそうだ。
どれだけ借金残ってるか知らないが。
これから父のところに行くという。兄のところは行けないよね、ときくと、「兄貴に謝っといて。ぼくが悪かった」と私が伝言を頼まれた。
父と兄と弟の、男たちの感情の問題は、知らんよ。母が死んだあとは、一緒に暮らすこともできないわけだった。
この、男ばっかし残された家族のなかで、いくらかは私が、緩衝材になっていると思うけど。
息子が何歳になったかと聞く。高1。「やんちゃな頃やろ」。
自分と一緒にすな。姉ちゃんの子や、いい子よ。
「いじめられてなかったらええわい」。それはそうやね。

弟は息子が赤ちゃんのときに一度会った。15年ほど前。それ以来会ってない。あのときは弟の大きな声に、赤ちゃんはすっかりおびえていた。覚えてないだろうが。

何日か休みがあるので、そっちへ行こうか、と弟が言った。来んでええ、と答えた。
距離もあるのに、事故されたらかなわん、とまず思ったのだが、
ちょっとさびしい思いをさせたかなと、あとで少し、胸が痛んだ。

ここは、私たちが育ったような環境ではなくて、母がいたような家ではなくて、弟が来て、安心できるような場所を、どうつくってやればいいのか、わからなかったからでもある。来たら、逆にさびしい思いをさせるかもしれない。
ごめんな。とっさにあんたを迎える心構えができなかったのだ。
母にいてほしいよ。

と、思ったからか、そのあと、すこし眠くて昼寝した夢のなかに、母が出てきた。といっても、顔もはっきりわからない人だったが。私がいろんなところでいろんな人に世話になりながら生きていて、住み込みで働いている温泉宿か何かの、宿のおかみが、数年前に亡くなったお姉さん(昔その人の家にしばらく住んでたことがあるんだけど)で、母が、田舎から、抱えきれないほどの菓子のつつみか何かをもって、私が世話になっていることへの礼だか詫びだかを言いに来たという、夢。
母の横で私も頭をさげながら、そこにはいない弟に、母さんは早く死んでよかったよ、と呼びかけていた。

生きていたらさ、母さんは、兄や私やあんたのために、どれだけの菓子折りをもって、どれだけ頭を下げにまわらなければならなかったことか。それをさせることを考えたら、自分が生きていることがつらくなるわ。
そういうことを、させずにすんで、よかったわ。

今度、私が会いに行くよ。できれば、ふるさとで会おうよ。

 

 

合唱祭と冬休みと紅まどんな

冬休み前の最後の行事が、合唱祭だった。息子たちの学校、4年生(高1)までしかしないので、今年が最後の合唱祭。彼は今年も、ピアノ伴奏という彼的に快適ポジションを得た。男子の声の揃わないのとか、女子にまじめにやってと叱られるとか、そういうごたごたから、一歩離れていられるのが快適なのらしい。
練習はどう?と聞いてみたら、ほんの一週間ほど前なのに「生ごみだよ」と辛らつだった。「せめてリサイクルプラぐらいにしてほしい」とか。それから、ほんの数日前なのに「なんとか資源ごみぐらいになってたのに、また生ごみだ」と。そのときはクラスの雰囲気も最悪で、練習途中で、男子のパートリーダーが怒って壁を蹴って帰ってしまったらしい。で、一緒に帰ってきたらしい。

さてその夜、ラインで、まじめな女子たちから、気遣いのメールが届く。息子、家で伴奏録音して(メトロノーム音入り)クラスのグルーブラインに、個人練習用にと送っていた。

なんか、楽しい青春してるよね。
合唱祭当日。息子たちのクラスは、最優秀賞だった。よかったよ。曲はRADWIMPS「正解」。
この人のピアノは、こういう伴奏のときに、その美質を感じる。自分の演奏ができたので満足です、と言っていたが。

で、冬休み突入して三者懇。来年からの文理選択、科目選択。理系選択で国語と英語がいいのは、強味だけれど、あくまで、理系科目ができてのことですからね、と言われる。家庭学習時間を増やしましょう、とか。とかとかとか。

合唱祭の伴奏、担任が言うには、他の先生が、ピアノの上手な子はほかにもいるけど、彼は合唱を生かす伴奏をしていたよと激賞してくれていたそうで、息子、「むくわれました」とつぶやいていた。

録画したのは息子のピアノの先生にも見てもらって、小さい頃からずっと教えてもらっているので、先生と私と「大人になったよね」と静かに感動を共有したのだった。


だいたい、人の多い場所さわがしい場所をこわがるし、多動だし、幼稚園に通わせるのがどうにも無理そうなので、先生、友だち、教室というものに、まず慣れさせようと、通わせたのが音楽教室だったわけで、まさか、こんなことができるようになるとは思わなかった。

通い始めの頃は、教室じゅう走り回るし、寝転ぶし、私がやめたかったわ。でも鍵盤をさわるときだけは、まじめだったので、そこだけは信じて、つづけたのだった。
小さい頃からコミュニケーションの難しい子が、でもその音で、仲間の信頼を得ていく様子を、ずっと見て来れたのは、親としても幸せだったと思う。

それで冬休み。
お正月、青春18きっぷと、正月限定の四国の特急乗り放題の格安切符を使って、徳島高知に行く、という話になっているのだが、それならそれまでに、宿題すませないといけないし、私も仕事すませないといけないし、全然まだ年末の気分じゃないけど、
田舎から、兄が、蜜柑送ってくれて、紅まどんな、というブランドみかん。とんでもない贅沢な果物やってきて、クリスマスとお正月の、私のやる気のなさをおぎなってくれる。
ありがたいふるさとです。

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一隅を照らす

数日前。息子は恒例の、小テスト0点に課されるペナルティ作文をもってかえった。真夜中、もう寝てくださいという時間に書き始める。1枚でいいのを2枚もらってきて、表裏ぎっしり書くつもり。シャーペンの芯を太く濃くした分だけは読みやすいかもだが、相変わらず小さな字で私は読めない。

小六夏の青春18きっぷの旅の話の続き。大阪を出て、京都経由福知山経由、乗り間違えて上川口駅下車、反対方向のに乗り換えて戻るはずが、階段上っておりてが間に合わなくて、次の電車まで2時間待ち、なんにもない山の中の無人駅で。暑いなか。
という日の話を書いていた。よく覚えてるもんだと思う。
その無人駅に、花のみずやりにやってきたのは、もと国鉄職員の名誉駅長さん(当時79歳)。近所に住んでるおじいさん。で、その名誉駅長さんと2時間楽しく過ごせて助かったという話なのだが。

息子、旅のあと、何度か名誉駅長さんと文通したのでした。旅の記録を書いた夏休みのレポートを送ったり、翌年にはその旅の話で作文の賞もらって、それを送ったら、国鉄OBの会報のなかでほのぼのした話題になったらしい、駅長さんが地元の小学校でお話したときの話題にもなったらしい。というようなことがあったのだが、息子、名誉駅長さんの手紙を何年ぶりにひっぱりだしてきて、読み始めた。何度か長文の激励の手紙をもらっていたのだった。
「おお」
というから何かと思ったら、
「駅長さん、座右の銘が、中村先生と一緒だ」と言う。

どの中村先生?
「一隅を照らす」
先日、アフガニスタンで殺害された、中村哲先生ですね。

駅長さんの手紙には、きれいに掃除され、壁飾りやざぶとんもある小さな待合室の写真添えられていた。なつかしいね。

「また手紙書こうかな」
いいと思うけど大きな字でね。

深夜二時過ぎ。作文中断させて寝てもらったが、翌朝、どんなに目覚まし鳴っても起きなかった。
作文のつづきは学校で書いて、天橋立経由城崎温泉までたどりついたらしい。
旅はまだ終わらないんだけど、次の0点を心待ちにされてもなあ。

私、結局読ませてもらってないし。つまらんし。

で、息子、今日は早朝から、ラストランの電車があるとかで、先輩と待ち合わせて、尾道まで行って、尾道ラーメン食べて帰ってきたらしい。この冬、青春18きっぷの1枚目。

楽しそうだよ。

 

 

真っ赤な秋

朝、外に出ると風景が赤い。向かいの森が真っ赤だ。

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森の奥にいる考える人。
12月。私がどんなに怠けても、季節は怠けずに過ぎていく。過酷なことだ。

11月の終わり。ひさしぶりに映画を見に行った。「ゴッホ、永遠の門」。よかった。ときどき視野がゆらぐのが、ゴッホの意識にあわせた映像なのか、私の視力の衰えなのか、わからなくて、不安になったけど。
東京にいた頃に、はじめてゴッホ展に行ったときに感じた生々しさを思い出した。こういうものの感じ方をしながら、ずっと生きていけるはずがないと思った。思ったのだけれど、ゴッホの死が自殺でないなら、それはなにか、よかったことのような気がする。

「エリ・ヴィ―ゼルの教室から」という本を読んだ。よい本が読めてうれしい。ヴィ―ゼルの弟子だった人が、ボストン大学で教鞭を執っていたヴィ―ゼルの教育について、縷々綴っている。ヴィ―ゼルの書物の、深さと静けさは、この世でもっとも信頼できるものの一つだと私は思っているんだけれど、晩年の彼の姿に、何かほがらかなものがあって、それが何かうれしかった。
「もしわたしに信仰がなかったら、人生はずっと楽だったろう」
にもかかわらず、信仰者でありつづけたことが、ヴィ―ゼルの神髄だったと思う。祈り、ということ。

★★

息子の定期考査が帰ってきて、物理以外のすべての教科が前回よりよくできているのでほめてやりたいが、それらすべての得点UP分を帳消しにするほど、物理がよろしくない。問題の最初で間違えて、大問20点分ふたつを台無しにしたらしい。この人ときどきこういうことをする。ま、お疲れ。
古典は学年トップだったらしい。私、復習のプリントつくってやったのだが、伊勢物語とか、唐詩とか、いーや、なつかしかった。他の科目は関与せず。

英語の民間試験導入見送りにつづいて、国語数学の記述式も見送りになるのかな。当然そうなるべきと思う。でも今日、ベネッセから記述式対策のDM届いていた。

記述式といえば、夏休み明けの英語の模試で、内容わかっているし当然満点と本人は思っていた記述が、20点中1点しかなかったのは、あんまりだと私も思ったが、そういうことは起こってくると思う。以来、彼は試験の自己採点を低めに勘定するようになった。「どこで難癖つけられるかわかんないし、自分はたぶんどこかで間違っているだろうから」って。

日頃、△(減点)ありすぎの記述なので、定期考査の世界史の記述が満点だったのはうれしかったらしい。産業革命について。たぶん蒸気機関車が走ったからだろう。

息子、家では、ワードで旅の話など書き始めている。難癖つけられない記述なら好きそうだ。電車の話がこまかい。

恒例の

急に寒くなって。
朝、外に出ると、庭のもみじと向かいの森の紅葉が、きれいだ。

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日曜日は、この時期恒例の国際フェスタのバザー。息子が風邪をひいて、手伝ってもらえなかった。手伝ってもらっても荷物運びだけして、あとはどっか行っちゃうんだけど、ひとりで準備するのも、ひとりでごはん食べるのも、つまんない。
去年は雨で、嘘のように売れず、一緒に店番してくれている方たちに申し訳なかったのが、今年はまあまあ、客足もあって、すこしは収益もあったので、よかった。隣のブースが、ロシアのお姉さんで、息子がまだ小学生のときに、そこにあるマトリョーシカが彼は欲しくてほしくて、でも小遣いが足りなくて買えなくて、でもずっと見ていたらしい、するとお姉さんがものすごくまけてくれて、息子うれしそうにマトリョーシカを買ってきてたが。
そのときのお礼など言って、いない息子のお土産に、モスクワのキーホルダー買った。あの男の子はもう高校生で、試験前になるとショスタコーヴィチを聞いているよとか、そういう話をした。

学校は休まなかったな。で、数学の小テストのペナルティ作文は、満点でなかった人→0点の人になったらしいのだが、また書いてたらしい。学校で書いて提出してきたから、見てないんだけど、内容を話させたら、やたら長い。なんでも用紙を2枚もらって、表裏書いたというから、このまえの2倍…。内容は、小6の夏の青春18きっぷの旅。大阪に着いた最初の日だけ。乗った電車の種類まで覚えてるのが、驚きだけど、マニアはそんなものかもしれん。ずっと話聞いてたら思い出して面白かったけど、当時はどこを歩いたかよくわかってなかった子も、いまはわかるので、しっかり地名も何を見たかも書いたらしい。
あんたのお母さん、真夜中に、小学生の子を連れて、こないだ閉鎖された職業安定所あたりから、飛田の近くの宿まで、歩いたんだねえ、とばれてしまうよねえ。
職業安定所は知っていたけど、飛田が近くにあるなんて私知らなかったんだけれども。「ここ、商店街かな。どうしてこんなに遅くまでやってるのかな。何を売ってるのかな」というようなことを、子どもに聞かれて、そうだねえ、と足早で傍らを通り過ぎた記憶が…。

旅の話なら、たくさん書くことあるので、作文は全然こわくない、らしい。
でも、テストの0点は、恐れてほしい……。

定期考査直前。友だちとラインで遊ぶのもいいかげんにしてほしい。


 

小さいおうち

「小さいおうち」(中島京子)を読んでいた。昭和の、戦前の話のなかで、昭和15年にはオリンピックが開かれるはずで、その話題とか、紀元2600年の奉祝曲の話とか、読んでいて、ふと現実のニュースを見ると、こちらはこちらで令和の奉祝曲の話で、どちらもが地続き、どちらも現実、どちらも虚構のようで、へんな気分だった。
「小さいおうち」面白く読んだが、どこにどんな愛情があったかなかったか。嘘と秘密と本当と。言わないで死んでゆければいいようなことが、人生にはあるよ、と思ったりした。

ところで、私の愛用?のキッズケータイが、そろそろ使えなくなる。来年からサポートしてくれなくなるらしい。私がケータイなんかもたないと言ったら、連絡取れなくて困ることもあるから、と息子の名前でのキッズケータイをもたされて、かれこれ10年くらい? 私はポケベルも知らずガラケーもついに使ったことがないが、いまでは高校生の息子がスマホを欲しがるようになった。
それで、キッズケータイが使えなくなったら、私が手ぶらで出かけてしまうのが、パパは心配らしく、とうとうスマホを買うことになった。
息子は自分のスマホだと思って喜んでいる。パパは、ママが出かけるときに持たせるのだと言っている。まあ、そのように使うらしい。

で、買いに行ってですね、電気屋で店の人とパパと息子と話しているのが、私はなんにもわからんかった、わからんかったんですけども、スマホはやってきた。
とりあえず、家族や友人の電話番号を入れる。息子に全部やってもらう。やってもらいながら、まずいな、とちょっと思う。これらは母の秘密の人間関係ではないか。
しかし、たいした秘密もございませんね。

夜ごと、息子からスマホを取り上げるのが私の仕事になりそうで、めんどくさっ、と思っています。

昔さ、ポケベルの時代に、会社にポケベルもたされた人たちが、首に縄つけられたみたいでいやだと、言っていたのが隔世の感あるよね。

私、キッズケータイ程度でよかったんだけどなあ。それもたいてい電池切れてるとか、もって出てないとかで、よく叱られたけど。スマホ、使える気はしない。

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もうひとり11月生まれの人がいて。