無限ループ

夏休みはとっくに終わり、息子は運動会の練習がいやだと言いながら学校に行き、あれこれ学校の話題と一緒に帰ってくる。
夏休み明けの数学のテストの点数がすごい。上は100点から下は1けたまである、と言う。若者、30以下は追試らしい。(つまり、ぼくが何点でも問題ない、と言いたい)。それから「ここで問題です」ときた。A君の点数はB君の6倍でした。そしてそのB君の点数はC君の6倍でした。ABCそれぞれの点数は何点でしょう。

3年生はこれから1年かけて、それぞれ自由研究するらしく、テーマを考えるというのが、夏休みの課題のひとつだった。
そういえば、小学校のときに「トイレの歴史」とかを自分で調べていたのは、面白かったけど、いまの息子のテーマは、鉄道の話のほかにない。
ほかの人たちはどんなテーマなのかと聞いたら、「小児がん」とか「不登校」とか、なんかすごい。「絶滅危惧種」を絶滅から守る、というテーマもあったよという話をしていたら、
絶滅危惧種を守るには、人間が絶滅するのが話が早い、などとパパが口をはさむ。
そうだけど。

ドストエフスキーのもうひとつの地球の話みたいになるよね。ああ、あれね。
と私と息子は、「おかしな男の夢」という短編の話を思い出す。
自殺したいと思う男が、夢のなかで、もうひとつの地球に行く。そのもうひとつの地球はこの地球とは違っていて、心の美しい人が住んでいる。妬みも争いもない星なのだ。もうひとつの地球の美しさに触れて、目覚めた男は、自殺を思いとどまる。だが、男が訪れたために、もうひとつの地球では、妬みや争いが生まれてしまった、という話。

それで、息子が言ったのは、
「パヤタスは大丈夫かな」

つまり、自分が行ったせいで、あの土地を汚染してしまったのではないかと言うのだ。

たぶん、一週間の滞在は、なかなかしんどかったのだろう。まわりの思いやりと、うまくふるまえない自分に葛藤して、そのしんどさが自分の汚れを意識させる。ぼくはパヤタスの人々を、傷つけなかっただろうか?

「パヤタスは平気だよ」
きみみたいな子はたくさんいたからね。
パヤタスは、たくさん傷ついて、たくさん乗り越えてきているからね。

きみは、いい子だったよ。

無限ループなのだ。内なる暴力性というものはある。生きていれば、それでもって他者を傷つける。他者を傷つけないためには、他者に出会わないことだ。ひきこもるか。いっそ死ねばよい。でも自殺もまた、暴力なのだ。右に行く人が邪悪だからと言って、左に行く人に暴力性がない、というわけではない。生きても死んでも、右へ行っても左へ行っても、暴力の汚染から抜け出せない、どうかして自分を消去したいのにできない、という基本的な絶望を、どうすればいいのか、ということを、私はぐるぐるぐるぐる考え続けた。
この絶望にこたえが出せないのに、なぜ人が、何かを望んだり、たとえば家族をもったり、子どもを産んだりすることが、できるのか、なぜ、こわくないのか、私は不思議でしかたなかった。

男は、もうひとつの地球を滅ぼした。星ひとつ滅ぼすほど、人間は邪悪なんだけれども、たしかに。でも、星ひとつ滅ぼすほど邪悪でも、男が自殺を思いとどまった、ということは、絶対に大事なんだよ。
ということを、忘れないでいてくれるといいんだけどな。

昔、パヤタスに、一番最初に日本からの支援が来たあと、学校で教師たちが盗みをはじめた、ということがあった。支援は一時的なもので、すぐに底をついたのに、日本から支援がきたということはたくさんお金があるに違いない、でも私たちの給料は上がらない、それはレティ校長が独り占めしているのだと思った先生たちが、学校の備品やお金を盗みはじめた。
それまで、姉妹のように思って一緒に働いてきた人たちが不信で傷ついてしまって、教師もお金もなんにもなくなったところに、レティ先生がひとり残って学校を続けていた。子どもは200人来ていた。

善意だからといって、善い結果をもたらすとは限らない。いい気な善意が、信頼や思いやりや、尊いものを壊してしまった。こんなことなら、最初から関わらなければよかったのに。と思ったけれど、もともとの善意を責めるのも、違う気はした。
それでも日本で、支援をやめた人たちが、支援は彼らのためにならない、と言っていると耳にしたときは、怒りで頭がぼうっとしたんだけど。

だれかが、ごめんなさいを言わないと、せつない。
そういうなりゆきの、そういう場に居合わせてしまったので、支援グループをたちあげることになったし、毎年通い続けることになったんだけれども。

たぶん、この地球に生まれたということはよ、暴力や邪悪の遺伝子をもってるってことよ。暴力は伝染するし、自分だけ伝染されずにすむということもないんだけど、その無限ループを、いまいる場所で、生きてどうやって食い止めるかは、それぞれに課せられた宿題なんだと思うよ。

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帰省のとき、宇和島駅で久しぶりに見てなつかしかった「安全第一」の門。