「四つの小さなパン切れ」 他

フィリピンへ行く飛行機のなかで、
「四つの小さなパン切れ」という本を読んでいた。
マグダ・オランデール・ラフォン著 みすず書房

著者は、ナチス強制収容所を生きのびたハンガリーユダヤ人の数少ない生き残りで、長い沈黙ののちに、中高生に語り伝える活動をはじめた、という。

証言する、ということと、子どもたちへの語り部をする、ということとは、別のことのようだと、思ったのは、沼田鈴子さんが、修学旅行の小学生に被爆体験を語るその場所に同席したときのことだったけど、
「私はいじわるな子どもだった」と語り始めた言葉に驚いた。
あとで、
語り部をはじめたころに、子どもたちの感想に、「沼田さんはかわいそう」とあって、それは違う、それでは語る意味がないと、悩んだ、と語ってくださったのでしたが、

体験が哲学になる、ということ、
傷ついた人が励ます人になるということ、
人間は自分自身を、「かわいそう」から救い出すことができるということ、

そういうことを、沼田先生には教えてもらった、と思っているけれど、(先生がそういうことを言葉で語ったということではなく)
「四つの小さなパン切れ」を読みながら、しきりにそういうことを思い出していた。

アウシュビッツについて、ヒルバーグが語ったのは、加害者も犠牲者も傍観者も、ともに共犯者であった、という何か救いようのない真実だが、
そこからどうやって、魂を救い出すかは、おそらく誰にとっても切実な普遍的な課題なのだが、
犠牲者が、犠牲者でなくなる、という地平を、
こんなにシンプルな言葉で、こんなに生々しく、確信をもって、伝えうるということに、戦慄する。

詩のような言葉で綴られた前半の収容所の体験も鮮烈なのだが、
後半のエッセイ風の文章は、タゴールの詩を読んでいるような感じがした。
きっと同じことを語っている。



それから、帰りの飛行機で読んでいたのは、新装版の大田洋子の「屍の街」で、これは、山口で子どもの本を買いに本屋に行ったとき、たまさか目にとまって、買ったの。ずっと昔に読んだと思うんだけど、でも全然覚えてないから、最後まで読まなかったのかもしれないけど、
ええ、この人はこんないい文章書くんだ、とはじめて気づいた。

これはすごくいい文章だなと、読みながら妙にうれしくなってきて、書かれている内容は、原爆の異様な現実なので、あかるい、と言っていいかどうかわからないけど、ことばのあかるさ、平明さ、これはたいしたことだなと、発見だったのでしたが、
ほんとに、こんな地獄が書かれてても、文章がよければ、読むのは快楽なんだ、

でもやっぱり、それでも読むのは疲れるので、台北のトランジットを過ぎても、広島上空にたどりついても、まだ読み終わらず、10日すぎたいまもまだ読み終わってない。



そういえば、毎日新聞の取材受けたのが記事になってた。しばらく前だけど。思い出したついでに貼っとく。http://mainichi.jp/area/news/20130809ddn004070047000c.html