序詩(ソシ) 尹東柱
死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱(はじ)なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた 道を
歩みゆかねば。
今宵も星が風に吹き晒される。
(1941.11.20)
この詩を最初に読んだのは、17歳のときだった。岩波新書の「韓国からの通信」に引用されていた詩だった。「続・韓国からの通信」だったかもしれないし、「第三・韓国からの通信」だったかもしれない。とにかくその頃、田舎にいて、韓国に関する本といって(私の文通相手のいる国だったのだが)、本屋にあったのはそれくらいのものだった。(図書館で読むことができたのは李恢成の「見果てぬ夢」だった)、田舎の高校生が、民主化運動とか、なんのことかわかんないままに読みはじめて、読み続けたのは、そこにおびただしく引用されている詩の力だったと思う。
全編が引用されていたのか、詩人の名前はそこにあったのか、おぼえていないが、
「死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱(はじ)なきことを」
(ひとかけらの恥ずべきなきを、と訳されていたかもしれない)
というフレーズは、心臓に刺さった。
そんなの、無理です。
と思ったのだ。
生きてみることは、日ごとに恥にまみれてゆくことで(「恥の多い人生をおくってきました」って、太宰治も言っているではないか)、いまだって耐えがたいと思うのを、さらにどうやって、この先、耐えてゆけばいいのか、思えば呆然とするのに、ひとかけらの恥ずべきなきを、という。どうやってそんなことが可能なのか。
思いながら、そのフレーズは、心臓に刺さりつづけていた。
それから何年かして、宝島、だったかな、雑誌にその詩が載っていて、詩を暗記し、詩人の名前を記憶した。
手もとの詩集「空と風と星と詩」(伊吹郷訳)影書房の奥付は1984年11月30日とあるから、本屋で、その本を見つけて心ときめかせて買ったのは、最初の韓国旅行から帰ってまもなくのことだったんだな。
詩碑の前に立って、ふと傍らに、17歳の自分がいる気がした。
あのとき、この詩に出会わなかったら、きっと、いまここに私はいなかった。たぶん、もっと違う人生だった。
詩碑のうしろの建物に、尹東柱記念室があると聞いていたので、行ってみる。きれいな廊下だったので、思わず靴を脱いであがったが、脱がなくてもよかったのだ。そこにいた人が、「2階です。小さな部屋ですよ」と案内してくれた。
机の上に、序詞の原稿が載っていた。
17歳のあの日から、ずっと、心臓に刺さったまま、息づいていた詩。
大学の門を出るとき、ふりむいて、頭をさげて、カムサハムニダ、ありがとうございました、って、つぶやいている自分に気づいたとき、自分の出身校に対してだって、こんなことしたことない、と思ったらなんかおかしかった。
さて帰ろう。詩碑の前にいるとき、記念室にいるとき、すっかり忘れていた背中の荷物の重さを、歩き出して思い出す。地下鉄の駅よりは京義線の駅が近い、と思って歩き出したら、路地に迷い込んだ。ずらっと、ブルーシートをかけた屋台が並んでいる。屋台の待機場なんだな。
道を聞いて、駅まで。
大きくて新しいシンチョン駅の片隅に、古い駅舎が残されている。日帝時代の建物は保存されることになったみたい。
ホームで待っていたけど、電車がこない。だんだんたよりない気持ちになりながら、見知らない土地にひとりでいることのたよりなさは、でもなんていうのか、このたよりなさが、もともとの自分だという、シンプルなところにもどる感じがする。生きることはいつだって、このたよりなさの場所からはじまった。このたよりなさがなかったら、私はなんにもわからなかった。
でも釜山行きのKTXの時間に間に合うのかな。
27年前、ソウル駅からセマウル号で釜山に向かった。隣にすわったおばさんが、車内販売のバナナジュースを買ってくれたのを思い出した。とてもおいしかった。途中の駅でおばさんはおりて、そのときに私の膝に手を置いて、「アンニョンイ」って声をかけてくれた、その声をおぼえている。