ステルス性

近くの高校で、ゲストティーチャー。フィリピンのゴミ山とパアラランの話をしてきた。ほんとは人前で話すのはいやである。ところが、断れない。たぶんそれは、ボランティアの宿命というもので、活動を知ってもらうチャンスを用意してもらっているのに、それを断るということは難しい。
私のことなので、しゃべってる途中にぼうっとして、しどろもどろになるだろうと、これまでの経験から思うので、たくさん写真を用意して、写真をたよりに話すつもりが、途中でパソコンがフリーズして頭真っ白になった。再起動したら無事動き出したので、よかったけど。写真があってもしどろもどろだ。
こういうことの後には、いつも落ち込む。なんかもう苦しくて悲しい。自分のいたらなさのために、パアラランのすばらしさをなんにも伝えられずに終わった気がして。それは、ほんとうは受け取った人のなかで、勇気や希望や知恵にかわるような何かなんだけれども。……聞いてくれた生徒さんたち、ありがとう。

だれか、いてくれないかな。私は本当に、人前で喋るのは無理だなあ。それはもう絶対、向き不向きがあると思う。
学校の先生って、えらいなあと思います。



息子の学校の話。あるとき英語の授業で全員立たされて、挙手して発表した人から着席、ということになり、挙手がきらいな息子も、早く座りたいので、何度も挙手した。ところが、目の前には背の高い人がいて、息子はとうとう最後まで気づかれず、一番最後のグループに残されてしまったというのだな。何度も挙手したのに、全然しなかったと同じに扱われてしまった。
なかなかかわいらしい不満なのでしたが。そういうことはあるよ、気にするな、というしかない。
それで思い出したので、昔話をした。
私は小学校の低学年のとき、上り棒ができなかった。でも練習して、あるときできた。できた人はほめてもらえるはずだった。はずだったのだが。同じときに、もうひとり上り棒ができるようになった人がいて、彼女はほめてもらっていた。でも、私ができるようになったことは、先生もだれも気づかなかった。
高学年のときには、ポートボールのテストがあって、体育は苦手な私だったが、そのときはなぜか、たくさんボールをパスできた。ところが、私のパスの数を誰も数えてくれていなかった。そしてクラスのなかで、誰にも数えてもらえていなかったのは私だけだった。そして、あの担任は0にカウントしたかもしれない。体育の成績は最低の1だった。
たぶん、私が上り棒ができたり、パスができるなんて、誰も期待していなかったから見えなかったんだと思うけど、そういうことはあるし、でも、そういうことは黙ってのみこんで生きていくんだよ、と息子に話していたら、パパが、
「ママはステルス性が高いんだ」と言うので笑った。

ステルス性とは「ある兵器がセンサー類からどの程度探知され難いか」という事を相対的に表す言葉。ステルス性、という言葉で、しょげていた息子の表情があかるくなった。ものは言いようである。見えなくていいんだよ。