パアラランの友人のみなさま
SNSなどで、すでにご存じかとも思いますが、あらためて書いておこうと思います。
9月6日の午後、パアララン・パンタオのレティシア・レイエス先生が亡くなりました。
その前日に、息子のジェイとメールのやりとりをしたばかり。コロナ禍で、何もかも調子が違っているけれども、そろそろ、フィリピンも新学期がはじまるし、パアララン・パンタオも地域の子どもたちへのディスタンス・ラーニングを続けると思うし、ニュースレターをつくろうと、近況を聞いたばかり。
レティ先生、7月に体調崩したり、骨折したりで、医療崩壊のフィリピンで、入院先を見つけるのに苦労しながらも、無事、入院、治療、手術できて、8月のはじめには退院して、パヤタスに戻って療養していて、よくなっているよと、聞いたばかりだった。
突然のことだったのだと思う。79歳でした。
悲しくて、なんにも手につかない。コロナでなければ、飛行機の切符を探したはず。
とにかくそれから連絡が飛び交って、久しぶりに友だちと電話で話したり、でも口を開くと泣きそうだったり。
それからフィリピン、シンガポール、日本、アメリカをつないで、昨夜、10日の夜に、zoomでお別れの会。かれこれ3時間ほど。
英語なので、みんなが挨拶する、思い出を語る、話の内容はよくわからないけれど、でも間違わず理解しているのは、パアラランの友人たち、奨学生たち、家族はいうまでもなく、みんな泣いても泣いても泣きたりないほど、レティ先生が大好きで、受け入れてもらってやさしくしてもらって、敬愛できる人に出会えて、ほんとうにしあわせだったってこと、いなくなってさびしくてたまらないということ。
なつかしい人たちを見かけた。小さかった子たちが大人になって、大人だった人たちが、お互いですけど、歳とったね。
事前の準備で、私は英語で話すの無理だよと言ったら、もと留学生たちが、翻訳と代読してくれるっていうので、当日の朝、挨拶を書きました。草稿貼っとく。
あれこれ思い出したら、泣くから、思い出さないように努力しながら、書いた。だからごく、抽象的に。原稿には、マラミンサラマポ(thank you so much)が百万回くらい足りない。
★
☆★
11日、朝、埋葬。SNSで、ライブ配信を見た。病院で、ワクチンの順番待ちながらだったけど。昔、レティ先生に連れていってもらった墓地に、レティ先生の棺が運ばれてゆく。雨のなか。土のなかに降ろされ、埋められ、花を飾られ。
私でさえこんなに悲しい。家族はどんなに寂しいかしらと思う。レティ先生のいない部屋、レティ先生のいないキッチン。
次のニュースレターは、追悼の記事を載せることを考えただけで、また泣きそう。パアラランの人たちが落ち着いてから、学校の相談はするとして、ニュースレターも遅れるでしょう。
2年前に、最後に会ったとき、帰国の日の朝、一緒に行った私の息子に、「come here again」と声を掛けてくれたときの笑顔が、すばらしくて、その笑顔をずっと見ていたいと、思ったことを、思い出す。
パアラランの本、出すことができてよかった。2014年の9月だから7年前。まだ版元にあると思う。アマゾンにもあると思う。
自分の書いたものって、恥ずかしくて、読み返せない習いだけど、会いたくなったら、読みなおそう。
11日のパヤタス校の前。クヤ・ジョジョ撮影。花壇にろうそくを灯してくれていたんだね。
パアラランのHP → パアララン・パンタオ
HPも更新しないといけない……。