原爆文学研究会 メモ②

原爆文学研究会メモ つづき

●宇野田尚哉「被爆地広島のサークル詩誌『われらの詩』と峠三吉

『われらの詩』被爆地広島で詩人峠三吉(1917-53)を中心に編集発行されたサークル詩誌。1949年創刊 53年終刊。

この詩誌をめぐる話。聞いているときはすごく面白かったのですが、まとめられません。資料には、被爆、占領、レッドパージ朝鮮戦争平和運動朝鮮総連の成立、共産党内部の抗争、など、書き込みしてますが、
つまりそういった時代のなかで、同人も詩誌も、翻弄されてゆくのでした。
平和運動が、アカと白眼視された時代のこと。
運動の高揚と、混迷と、衰退。

内在的要因*スローガン詩を克服するための努力の不足。取材の観念性と芸術的方法への未熟。
外在的要因*共産党の党内抗争とも絡んだ政治的引き回し。「詩が自分自身のものにならないにもかかわらず、それを直接外部の、所謂政治的なものに結びつけようとしたセクトが「書けない」ことにした大きな原因だ」(吉本修一)
レッドパージによる中心的活動家の失職・離散。

作品世界については、
「大多数が無名の約200人の広島の詩人たちと、広島の外部からの寄稿者たちが作品を遺す。無数の駄作と少数の佳作。政治的主題が表に出すぎている作品も多いが、駄作は駄作なりに、佳作は佳作なりに、〈時代の証言〉としての意味を持つ」
という、思わず笑ってしまったまとめだった。

引用されていた詩は、面白い。「平和特集号」に「銃をとれ わかものよ」とあったりする。朝鮮戦争への、ひとりよがりの連帯の表明であるとか。
一個の卵を兄弟がとりあう生活詩であるとか。

2年前に、朝鮮学校の無償化除外反対の朗読会でお会いした、御庄博実さんの名前を発見。「われらの詩」の活動に、岩国療養所支部、というのがあって、そこで関わっていたのらしい。

御庄さんが、朗読会のときに読まれたのは、広島の平和公園のドングリが、韓国のハプチョンという、在韓被爆者の多い土地で育っているという詩だった。
ハプチョンは、学生のときに2度訪れた。そしてそれっきりになった。
広島を離れたときに、自分にとってはもう閉ざされたし、失われたと思っていた景色と、こんなふうにまた出会ったのが、不思議だった。
あの日、朝鮮学校の廊下で、御庄さんにお会いしたときに。


ふだん、歴史、というものを直線的に理解する。たぶん、そうすることになれている。サークル詩誌の興隆と衰退、という直線。でもそこで起っていることは、その場その場が混沌のひろがり。
 
運動、というもの。自分もいくつかの運動に、責任あったりなかったりする立場で関わっているわけだけれども、心しよう、と思った。運動が先々どうなるかはともかく、今このとき、ひろがりの細部に、どれだけ心を運べるか、ということなんだけれども。

発表者の宇野田さんが、「朝鮮高級学校無償化を求める連絡会・大阪」共同代表だということは、あとで教えてもらいました。うれしく。



それで私は反省して、パアラランの寄付へのお礼のお手紙、遅ればせながら、ぼちぼち書いてます。すみません。一ヶ月以上怠けていた。
長い間、応援してもらっているスポンサーさんたちだからと、気持ちがすっかり甘えているんでした。 



それから、在特会的な言説の書き込みは、UPせずに削除します。もっと勉強するようにっていうのは、あなたたちのレイシズムむきだしの歪んだ世界観に洗脳されろってことでしょうか。まっぴらごめん。