ノリ・メ・タンヘレ

不謹慎かもしれないが、テレビのニュース画面に映ったドゥテルテ大統領が、「アメリカはバカだ」と言ったとき、たまさかそれを見ていた息子が、声をあげて笑った。私も笑った。それから私たちは、こっそり話した。
この大統領、うちのパパに似ているかもね。
何がって、まあ、悪態のつき方が。
「人権? ふざけんな。そんなこと、アメリカがどの口で言えるんだ。虐殺して、原爆落として、枯れ葉剤撒いて、あいつらは謝ったか? 人権だと? バカか」みたいなことですかね。
おまえらの偽善につきあっていられるか、ってことなんだと思う。

むかし、パヤタスにいた13歳の少女、家庭は壊れていて、危険でもあったから、学校の先生の家に一時保護していた少女、彼女が描いた絵のことを思い出すんだけど。切り株だらけの山から、大きな石が転がり落ちてくる。石にはそれぞれ、暴力、自然破壊、貧困、ドラッグというような言葉が書かれている。ふもとに咲いている花は、レイプされて萎れている。
むかし、パアラランは鉄柵で覆われていたりしなかった。22年前。ゴミ山の麓に住んでいるのは、地方から出てきて、都市で生きる術がわからない、素朴な人たちで、滞在中は、毎日、ゴミ山にのぼったり、あたりの集落を歩き回っていた。そこにある親しみの感情が好きだった。学校には地域の人たちが日常的に出入りした。
ゴミ拾いを教えてくれたJ……は、とても年上に思っていたけど、たぶんそんなに年齢は変わらないかもしれなかった。家のなかは、ゴミ山から拾ってきたあれこれの家具や小物が並んでいた。それがあるときから、新品のテーブルとイスに変わった。ジャンクショップ(ゴミの買い取り)をはじめて、羽振りがよくなったのだ。でもそれは長くはつづかなかったみたいだ。集落に電気を通すとき、電気を通してくれと、世話役をしていたレティ先生に言いに来たのを見たのが、最後かな。電気代を払っていないから無理だ、とレティ先生は言った。私も、もうJ……の家には行けなくなっていた。何かが壊れはじめてる感じがした。
それからは悪い噂しか聞かなかった。夫がドラッグの売買をはじめたこと、警察につかまりそうになったけど、お金を払って見逃してもらったこと、でもこの次はどうなるかわからないこと。そのあと、ドラッグはやめたみたいだ、という話も耳にした記憶もある。それが本当だったらいいなと思う。
2000年頃、地域は変わっていった。すこしずつ都市のスラムの表情になってきた。他のスラムから流入する人が増えたのだ。知らない人たちが増えてきたから、ひとりで外を歩いてはいけないと言われるようになった。旧校舎が取り壊され、新しい校舎をつくるときには、強盗除けの高い柵が必要だった。
人々が自分の住んでいる地域のなかで、ホールドアップを体験する(恐喝されて金をとられる)ということが、日常的に起こるようになった。ドラッグをやってる少年たちが、ある家を襲って、その家の人たちを殺してしまった、という話も聞いた。
パアラランを訪れる人たちに、時計やネックレスをしてきてはいけない、すれちがいざまにひきちぎられるよ、という注意を徹底しなければならなくなったのは、たぶんこの10年ほど。
ひとりで外を歩いてはいけない、ゴミの山に近づいてはいけない、写真を撮ってはいけない、ということも。
数年前の早朝、学校の裏庭に泥棒が入ったことがあり、幸い盗まれたものは、洗って干していたバッグ程度だったが、そのあと学校の柵は、屋根まで届くものになった。すっかり、檻。
ドラッグは身近で、たちがわるい。貧しければ貧しいなりに、助け合って生きていけるものを、そうはさせず、ずたずたに荒らしてしまう。
もういいかげんいやなのだ、ドラッグで、地域や親族がボロボロになるのを耐えているのが。

400年に及ぶスペインの支配から、ようやく独立できそうだったフィリピンを占領したのはアメリカで、そこをさらに占領したのが日本で、太平洋戦争のときは、戦場になって、100万人のフィリピン人が犠牲になった。というようなことは、学校では習わなかったし、フィリピンに通うようなことにならなかったら、私は今でも知らないかもしれないんだけど。

独立の英雄、ホセ・リサールの小説「ノリ・メ・タンヘレ」(われに触れるな)は、凄い小説で、スペインの圧政の残酷を綴っているんだけど、本、今出てるかな、「ノリ・メ・タンヘレ」の偽善の告発、はいまも生々しいと思う。そのあとの本「エル・フィリブステリスモ」は、テロリズムの敗北を描いて、さらに生々しいと思う。
この2冊は、ふるえるほど美しい本で、また読み返したいんだけど、昔の本は、文字が小さいのが、最近は私もつらいんだわ。

驚異的な支持率には、「ノリ・メ・タンヘレ」の響きへの共感がある気がする。