レティ先生のこと

パアラランのニュースレターの発送を終えました。遅くなりました。
9月6日にレティ先生が亡くなり、どうしても心を落ち着ける時間が必要でした。10月の終わり、レティ先生の息子のジェイコーベンが、長文のメッセージを寄せてくれました。(それを私の息子が下訳してくれて、ずいぶん助かりました。そういえばはじめて会ったころ、ジェイコーベンは今の私の息子の年齢でした。なんと歳月が過ぎたことか)

ニュースレターのために、昔の写真など探していたら、なつかしくて胸が痛くて、なんかたまんなかったのですけど、家族にはどれだけの思い出があるかしらと思います。

全文、載せます。

f:id:kazumi_nogi:20211109205832j:plain f:id:kazumi_nogi:20211109205938j:plain

(1999年8月の写真 ゴミ山で働くパアラランの生徒たちと、教室で読み聞かせするレティ先生)

 私の母の人生とパアララン・パンタオ

【レティ先生の子息のジェイコーベン・レイエスさんのメッセージ。全文紹介します。】

母が亡くなって47日が過ぎました。

全てのことがまだ本当のこととは思われません。彼女を失ったことは、とても大きな痛みです。彼女の直接の家族である私たちにとってだけでなく、彼女と一緒に過ごす機会をもち、彼女の人生の旅の一部になった多くの人々にとってもそうでしょう。

私はこのメッセージを準備しながら、悲しみや空虚さや、そして恐れ ──すでに彼女がこの世を去っていて、彼女を見送ることを受け入れることを意味する恐れを、感じずにはいられませんでした。一方で、それは一緒に過ごした時間を私に思い出させる機会を与えてくれ、彼女が私たち家族や、友人、パアララン・パンタオというコミュニティと分かち合ってくれたやさしさや愛を思い出させてくれました。

私の母、レティシア・レイエス ―─コミュニティでは、レティおばさん、レティ母さん、レティ先生、(日本語で)レティさん、レティ先生、として知られてきた人は、力強く、そして親切で慈悲深い人でした。

彼女は、人生を通して多くの困難を経験してきましたが、しかし前向きで、かつ気丈であり続けました。彼女が5人の子どもたち全員(私と4人の兄姉)でマニラに移住すると決めたとき、私たちには事前の準備は何もありませんでした。私は未だに、彼女が日銭を稼ぐために、一日じゅう親戚の人の洗濯をしていたことを鮮明に思い出せます。従姉の子守として働くときは、私を連れて行きさえしました。

そしてその後、ケソン市にある家を姉から勧められて、そこに住むことになったのです。ちょうど、その土地が、後にパヤタス・ダンプサイト(ゴミ捨て場)として有名になる場所に変わってゆく直前のことでした。

そう、その時も生活は厳しいままでしたが、彼女が、私たち家族に対してだけでなく、隣人に対しても、できることを何でもするような母親、そしておばあさんになることを、何ものも妨げることはできませんでした。

貧困は、私たちが持っていたほんのわずかの持ち物を、彼女が分け与えることをやめさせることはできませんでした。貧しいからといって、何かを与えたり、助けたりしないという理由には決してならないと教えてくれたのは母でした。皿の上にあるものは、どれだけ小さいものでも、食べ物がより少なかったり無かったりする隣人たちと分かち合うのだと、教えたのも私の母でした。

私が決して忘れられない出来事があります。私がまだ、1年生だったときです。毎日学校に持って行くための食事を、母が準備してくれましたが、彼女は、ランチボックスを、私が一人で食べきれないほどの量のご飯で一杯にしていました(卵焼きと塩漬けの魚だけが添えられていました)。なぜこんなにたくさんのご飯をつめるのかと、私が不満を言ったら、母はこう答えました。 

─―食事がない同級生がいたら、彼らと一緒に分けあえるようにね―─。

そのころ、栄養失調に陥っている同級生がたくさんいました。ダンプサイト(ゴミの山)で働くために勉強をやめなければならない同級生さえ、多くいました。私はまだ幼かったけれど、母の意図を鮮明に理解して、二度と疑問に思うことも、不満をもらすこともありませんでした。私が大学生活を終えても、働き始めても、彼女はランチボックスにたくさんご飯を詰めました。

こんな場面がよくありました。家に帰ると、母がパアララン・パンタオのボランティアの先生や、手伝いにきてくれる隣人に、食料品を分けていました。十分な給料を払うための予算がなかったからでもありますが。

 ただ単に食料や米や、何かしらの有形の財産を与えるだけではありません。母はもっとたくさんのものを分かち合いました。家庭内の問題を持った隣人、とくに酔った夫に責められて傷ついた母親が、よくやってきて、母にアドバイスを求めていました。

母は家々を訪ねて、子どもたちの様子を見てまわりました。パアララン・パンタオの生徒たちが学校に来なくなったり、ダンプサイトで働いているのを見ると、働かせる代わりに勉強させるよう親を説得しました。コミュニティの人々を守って闘い、地域に電気と水道を供給するために奮闘しました。

母について、とてもたくさんの良い出来事を思い出すことができます。

ああ、そして、彼女は私が学校で使う机と椅子を作ってくれました ―─母は大工にもなれるのかと驚いたものです。これは、私の小学校時代のことです。そのとき、私が通っていた公立の学校は、教室がわずか2つしかなく、十分な数の椅子がありませんでした。

数週間、母は作った椅子を私に学校に運ばせ、私はぬかるんだ道を500mほど毎日歩いていきました(このとき公共交通機関は十分に整備されていませんでした)。教室にはドアも門もないため、盗難のリスクを避けるために毎日椅子を持って帰らなければなりませんでした。

とてもしんどかったので、母は援助を求める決心をし、生徒全員分の十分な椅子を集め、なんと新しい教室を追加で作る援助まで得たのです!

私の母のことを分かち合おうとすると1冊の本ができそうですが、一三さんのニュースレターには十分なスペースがないでしょう…

最終的な考えを共有させてください…

母がパアララン・パンタオを立ち上げ、つくりあげてきたのは、家族をいたわる気持ちと同じ気持ちからでした。彼女は、家族へ向ける愛を、同じように他の人々に向けることができたのです。彼女は、母としての愛情を、家の外にも向けて、子どもたちのために安全な場所を作りたいと願い、そのようにしました。貧困が、愛情を分かちあうことを妨げることはありませんでした。事実は、愛情を分かちあう道をさらに強固なものにしました。

母のパアララン・パンタオについてのビジョンは、ただ無料の教育や物資、給食や医療的なミッションを提供するというだけでなく、人間みなが持っているすべてのもの ─―時間、経験、努力、知恵、愛といった無形の資源を分かち合おうとするものでした。

パアララン・パンタオは、ただ子どもたちを学ばせるだけの場ではなく、ボランティア、訪問者、コミュニティでの生活について体験し学びたいと思うすべての人々に対して、開かれている場所でした。

そして、母が私たちのもとからいなくなり……、

一三さんがパアララン・パンタオを続けますかと尋ねたとき、私はYES!と言うことをためらいませんでした。簡単な道のりでないであろうことはわかっていますが、母は私たちに多くのことを教えてくれました。
─―助けを与えるためには裕福である必要はなく、分かち合うことは、ただ持っている資源を与えるだけではなく、人生を、私たち自身を分かち合い、簡単であるかどうかに関わりなく、必要な人に手を差しのべることです。私たちは一人ではなく、助けあうということは、みなで分かち合うべき、すばらしい機会なのです。

母はみなさまに、個人的に感謝をする機会はなかったかもしれません。なので、私が母の代わりにそれをしたいと思います。そして母の業績を表現できる最良の手段は、彼女の事業を続けることだと思います。

みなさまの支援に心から感謝します。そしてパアララン・パンタオの旅の新しい章に、これからも、みなさまが共に居続けてくださることを、望みます。

Jaycoben Reyes

ジェイコーベン・レイエス

☆★

そんなわけで、パアララン・パンタオは続きます。

パアララン・パンタオ 支援のお願い

パアララン・パンタオの運営は、みなさまの真心によって支えられています。 子どもたちにとってかけがえのない学校を守るために、どうかご協力をよろしくお願いいたします。

郵便振替 : 00110-9-579521
名 称 : パヤタス・オープンメンバー

パアララン・パンタオ (fureai-ch.ne.jp)

f:id:kazumi_nogi:20210912035837j:plain

(2007年やっとエラプ校の増築工事が完了したころ)