教科書の短歌

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庭のドクダミ。もう梅雨入りしている。
試験前の子が、ふだん学校に置きっぱなしの国語便覧など持って帰ったので見ている。なつかしかったり面白かったり。
短歌のところ、正岡子規与謝野晶子石川啄木は、何十年変わらずに教科書に住んでいると思う。なつかしいというか、なんか、田舎に帰って、おじいさんおばあさんの遺影をみるような感じ。

私たちの頃にはまだ載ってなかったと思う。
岡井隆「眠られぬ母のためわが誦む童話母の寝入りし後王子死す」
寺山修司「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり」
この二首たいへん好き。あと、俵万智穂村弘も写真入り。
歌だけだけど、笹井宏之「廃品のなかでひときはたくましく空を見上げてゐる扇風機」があって驚いた。亡くなって何年になるんだろうと数えたら、もう9年がたつのだ。たった昨日のことのようなのに。こんなところで、歌に出会うなんて。

中学生に何を読ませるか、編集の手つきも見えてくる感じ。
息子は穂村弘「校庭の地ならし用のローラーに座れば世界中が夕焼け」が好きなんだって。これは石川啄木の「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」と一緒にずっと教科書に住むかもしれない気がする。地ならし用のローラー、もずっとあるかな。

 

 

 

 

 

パアララン・パンタオ支援のお願い

6月。フィリピンは今月から新学期です。それで、火曜日にパアララン・パンタオへ送金。友人のみなさま、ほんとうにありがとうございます。

おかげさまで、1995年以来すでに23年支援を続けることができています。今年24年目になります。(学校は1989年から続いています)
パアララン・パンタオは毎年、ゴミ山周辺の100~300人の子どもたちの学びを支えて来ました。
20年前には、小学校に通うこともむずかしかった地域の子どもたちが、いまでは小学校に通えるようになり、努力すれば高校や大学へも進学できるようになってきました。
パアラランで学んだ子どもたちのなかには、大学卒業後にパアラランの先生をしてくれたり、公務員や会社員などよい仕事について、家族をもった人たちもいます。
ゴミ山に依存して生きるしかなかった地域で、数千人の子どもたちの運命が変わりました。支援してくださった友人のみなさまには、そのことを誇りに思ってもらえるとうれしいです。

貧困地域での幼児教育はことに大切で、就学前に適切な教育を受けることで、自信をもって小学校に通えるようになり、その後の多くの困難を乗り越えてゆけるようになります。パアララン・パンタオは貧困地域の子どもたちが、小学校に通えるように、親たちの啓蒙もかねて、就学前教育に取り組んでいます。

フィリピンでは、去年から公立小学校に付属して幼稚園が開設され、5歳になったら通うことができるようになりましたが、ジプニーに乗って行かないといけないので、実際には通うことが難しい子もいます。
小さい子の発達段階はさまざまなので、親たちの目の届くところ、家から近いところに、場合によっては親と一緒に通ったほうがいい子もいます。
幼稚園ができたことで、通える通えないの格差が生まれないように、地域の子どもたちの受け皿として、パアララン・パンタオには、また新たな使命が生まれています。去年からは3~4歳児の教育にも取り組んでいます。
フィリピンの経済状況や教育事情、地域の状況の変化、に柔軟に対応しながら、がんばっていきたいと思います。

おかげさまで新学期を迎える準備ができました。本当にありがとうございます。ただ7月~8月にかけての予算が、まだ準備できていなくて、不安です。ご支援いただけると助かります。
いくらでもけっこうです。すこしの金額が大きな勇気になります。

郵便振替
00110-9-579521 パヤタス・オープンメンバ-

まで、どうかよろしくお願いいたします。

パアラランのホームページはこちら。

http://www.fureai-ch.ne.jp/payatas/


新学期の様子については、7月訪問、8月のニュースレタ-で紹介しますね。

また、古本をパアラランへの寄付に替えることもできます。(旧記事参照)

ご協力よろしくお願いいたします。

kazumi-nogi.hatenadiary.jp

 

 

薔薇が咲いた

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庭のつるばらが、花盛り。でも庭からはあまり見えない。車庫の上から屋根をずっとのぼってきて、ベランダで花盛りなのだ。
ベランダの上や、屋根の室外機のまわりは枝を切っておかないとな、と思っていたけど忘れて、気づくと花が咲いていたので、花が終わるまでこのまま。
薔薇の花摘んで、畑のよもぎと一緒に、天ぷらにしてみた。香りを味と錯覚して食べる感じ。ちいさくてかわいらしかった。

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畑のにんにく収穫。1年分採れるからありがたい。ベランダの屋根がなくなっているので、二階の部屋のなかで干している。匂いがすごい。

季節も変わるけれど、気づけばいろんなことが変化している。
今、が変わり続けているし、対応しなければならないことは、私にもそれなりにあるし、未来ももちろん変わりつづけるのだが、すこし不思議な感じがするのは、過去が変わっていることだ。
年とったせいだけど。

謎だったり苦しかったあれこれのことが、ふいにくっきりその意味がわかって、それがあんまりばかばかしいと、なんていうか、うしろ足で砂かけるよりしょうがないじゃん、というか、すでに砂に変わっているというか。
生きるほどに、過去の方角にはあれやこれやの、自分と他人のいまいましい思い出が溜まって、そういうものをたくさんひきずって生きて行くのはしんどいだろうなあと、それはごく子どもの頃からおそれていたことで、
他人の記憶のなかに自分が残るかもしれないことも、とてもいやだし、
ほんとのところ、
私は生きるのがこわくてしょうがないような子どもだったんだけど、
なんとか生きてみたら、
どうやら、後ろはどんどん砂にかわってゆくので、 
それはもう捨てていいというか、消えてしまうと言うか、どんどん身軽になって、
いつか私は、なんにももたない人になると思う。
夥しい砂のなかに、ほんの少しだけ手渡されたダイヤモンドのような輝きがあって、それを、未来の方角にもってゆけたら、人生はそれでよさそうな気がする。

他人の記憶の中で、私が砂になれるかはわかんないが、歪んで奇怪なものとして記憶されるのかもしれないんだが、それならばそれで、他人の記憶のなかの私は、歪んだまま死んでゆくのでいいんだと思う。

国語の先生が、太宰の「人間失格」は、読むと人生しんどくなるから、読まなくていいよと言って、それで息子は、あー手遅れだよ、読んでしまったよ、と思ったらしいんだけど。
恥の多い人生でも、大丈夫だから。ほんとに大丈夫だから。

 

おれはおれを気に入らない

去年かきかけだった絵のつづきをかいた。
「おれはおれを気に入らない」というタイトルは息子がつけた。(もしかしたら、おれは母ちゃんの絵を気に入らない、と言いたかったかもしれん。)
一年前の春休み、山口線から山陰本線三江線に乗ったときの。三江線もう廃線になってしまった。子どもは毎年顔がかわる。

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白く咲くのは百合の花

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本棚の本は、きみのものだから(母たちが処分しそこねたら、きみが処分しなければならないガラクタだから)自由に見ていいよと言っているけど、あんまり見ない。でも、へんなものだけはさぐりあてて、どきどきさせる。
(これ、読まれてよかったかしら?)
しばらく前の「洪水」という詩と歌の雑誌。母の筆名を見つけたねえ。で、読んだ。
謡曲についてのエッセイ。

笑いながら読んで、「あなたというひとは、なんか、すごいな」と言ってくれたので(その言い方も面白かったので)書いておくが、(母さんの頭はやっぱりへん)とも聞こえた。
息子はもちろん藤圭子も知らなければ、この曲も知らない。先日亡くなった西城秀樹のことも知らない。広島の人だよ、と伝説を伝えるみたいに伝えたが。
「ぼくは70年代に生きてみたかった」と日頃言うのは、古い電車に乗りたかったかららしいけど。
なつかしいな。抱えきれないほどの百合の花。
去年の夏、植えてないのに、畑にぽつんと咲いていた。今年も咲くかしら。

長谷川櫂『俳句の誕生』読了。
面白かった。なるほど、こういう仕組みなのか、と腑に落ちることたくさん。門外漢にも読みやすい。人間は言葉によって世界を認識するが、言葉は「永遠の静寂」を失わせる。言葉によって失った永遠の静寂を、言葉で探る、詩歌の営み。最小の言葉でそれをなそうとする企てが、俳句。
古池に蛙が飛び込んだときに起きた革命が、何だったかも、ようやくわかった。

ぽっかり月がのぼるように、ぽっかり歌が生まれるといいんだけどなあ。

 

◯と△

もう一週間ほど前の話だが。息子の学校の参観日だった。
参観日には行くべきだ。授業中の姿勢の悪いのは、ずっといい姿勢でいろというのも無理な話なんだが、それでもときどきは姿勢をしゃんとする、ということもあってもいいんじゃないかと思いながら見ていたが…しなかったね。
学力推移調査というやつの、つまりテストの、最高点と平均点が廊下にはりだされていたのだが。数学が、あまりよくなかった、とは聞いていた。でも3教科5教科あわせると、いつも通りの得点だったので、気にとめてなかったのだが。
数学、ざっくりと平均点以下だった。

わかんないのかときくと、わかんないわけじゃない、
わかんないわけじゃないけど、解けないしケアレスミスも大量発生する、ので点がない。
つまり彼は、考えるとか、手を動かして作業するのが、面倒で怠けているのである、と私は思った。
塾にもやれないので、つきあうことにした。家庭学習。

円周角と三平方の定理
苦手なことは5分とすわっていられない。覚えるのは得意だが、考えるのはきらいである。動かずに問題解け、と言っても無理なので、母が解くまで動くな、と言ったら、30分も動けないでいるの、ざまあみろ。
母がいつまでも解けないでいるので、見かねて自分でも考え始めた。それで結局、私たちは問題集の一番難しい問題までやったのだが。

途中で吐き気するほどつらくなったのは、私だった。そのあと何日も、夢のなかまで、△と◯が出てきたもん。

そのかいあって!
めちゃ難しかった、らしい単元テストは、学年一番をとったねえ。大いに感謝してもらいたい。それで、テストのできなかった問題が気にかかったのは私のほうだったが。解き直すのが夜中までかかった。半分は私が先に解き、半分は息子のほうが先に解いた。
数学はこれで中学の範囲が終わり、はやばやと数ⅠAにはいるらしい。この怠けものに先取り学習なんて大丈夫かと思うが、せいぜい怠けずにやってほしい。
母はもう限界とおもう。これより難しいのは、無理。もういやだ。


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息子、ホットケーキをつくった。家庭科でホットケーキを焼くテストがあるので、その練習。こんなに簡単そうなことも、実際やらせてみると、信じられないような失敗をするのだったよ。私はいちごジャムをつくった。

数学もホットケーキも、自分が手を動かした分しか、できるようにはならないよ、という話。

季節が移る。毎日数十個から100個も採れたいちごもそろそろ終わり。この春最後のいちごケーキ。

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夢と翼

 


宿題の国語のワークブックをやって、丸つけしているらしい息子のボールペンの音が怪しいので、見てみたら、やっぱり。ペンが速いのは、答え見てないから。彼は、間違っていても◯なのだ。
答え合わせ、やり直しさせて、そのワークブックぱらぱらめくってみたら、丸山薫の詩とか載っていて、なつかしいな、
本棚の「日本の詩歌」全集のなかに丸山薫があるから、息子に本もってこさせて、そのなかの「嘘」という詩を読ませた。

  「嘘」  丸山薫

 少年の嘘は
 さまざまの珍らしい夢をふくみ
 波を縫ふ海鳥の白い翼の巧みをもち
 ちちははもそれに欺(だま)されるときばかりが
 少年の眼には世に崇高(けだか)く見えた
 だが少年が悲しくないと誰れが云はう
 あまりにも美しいものが遙かに飛び来つて少年の心に住(すま)ふとき
 たとへば時ならず花がいちどきに咲き匂ひ
 または遠い空の涯(はて)の夕暮がこの世を薔薇色にかがやかすとき
 欺されてゐるのは自分ばかりだと
 空や雲に涙を流さないと誰が云はう


この詩は私の中学校のときの友だちが、見つけて教えてくれたんだけど、嘘をつくのがいいかどうかは別として、ききたいのは、きみの嘘に「さまざまの珍しい夢」や「海鳥の白い翼」がありますかってことよ。
ないでしょ、なんにも。中身ないでしょ。怠けたいと面倒くさいだけでしょ。いつまでもいつまでも、そういうつまんない嘘つかないでくれるかな。夢も翼もない、なさけない嘘つかないでよ。
……と言ったら、「ああ…」と呻いていたが。


ところで、いま同じクラスで、こないだ一緒に太宰を読んでいたMは、いまは夢野久作を読んでいるらしい。彼らがどこでそういう古い作家を知るのかというと、「文豪ストレイドッグス」というアニメから。私も見たけど、めちゃくちゃな話だったけど、息子たち、あれでひととおり、作家の名前と印象をインプットしたらしい。
それで谷崎潤一郎の『細雪』を読みたい、などと言うのである。アニメの異能力「細雪」は面白いが、本は、私、高校のときに読んで、ものすごく退屈だった記憶が。あれは図書館で借りたので、私はもってない。

さらに、坂口安吾の『白痴』を読みたいと言うから、本棚から探す。本棚の前にパソコン台があったりダンボールつんであったりするから、探すのも大ごとなんだけど、出てきたよねえ、2冊あった。私が高校生のときに読んだ新潮文庫は、紙がもう茶色い。
安吾の話のほうはうろ覚えだけど、解説の福田恒存の文は、印象に残っている。
めくったら、昔読んだ通りの文章が、いまもそこにあった。(あたりまえか)

 「〈おもりを除かなければ、翼は高く羽ばたかない〉というのは、おもりをできうるかぎり重くするというしごとと矛盾しない。矛盾しないどころか、一致する。

 こういいなおせばいいのであろう──
 おもりを重くしなくては、翼は強くならぬ。軽いおもりのために飛べなかったような翼なら、それを除いてやったところで、どうせ高くは羽ばたくまい。」


息子と一緒に本めくりながら、中学校の図書室あたりに、タイムスリップした感じがした。図書委員だったとき、土曜の午後30分開けていればよかった図書室を夕方まで開けて、お昼ご飯のあと戻ってきた友だちと、まんが読んだり、友だちが読んだ本の話を何時間も聞いたり、本の貸し借りしたり、して過ごしたけど、その頃の同級生と一緒にいる感じがした。

息子、読みたい本、何冊か持っていった。有島武郎とか志賀直哉とか。谷崎の『痴人の愛』とかも。教科書の文学史に出てくるあたりのを、というか、文豪ストレイドッグスに出てくるあたりのを。あのさ、面白いと思わなかったら読まなくていいんだからね。
「いや、面白いよ」と『白痴』を読んで笑っている息子のツボは謎である。

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畑のいちごと庭の都忘れ。