グレーゾーンでつく嘘は

学校に漫画を持っていくのは、禁止である。ところが、ライトノベル好きの男子が朝読用に持ってきている本には、相当にエロチックなイラストが描かれていたりして、おおっ、とみんなでのぞきこんだりする。「グレーゾーンというところですかね」と息子。

下校途中の買い食いも禁止である。一般的な公立中学校の校則に準じてはいる。こないだ大勢の校則違反発覚で、学年集会で叱られたばかりの、その直後、洪水ちゃんは、いつものように駅で買い食いをしていた。
それで男子たちが、それを責めたのである。すると洪水ちゃんは言った。「買っていない、食べていない」もちろん嘘である。その嘘をまた責められる。すると洪水ちゃんは先生に訴えた。「ひどいんです、みんながわたしが買い食いしたといっていじめる」。で、したかしなかったかを問われると、「店に入っただけです」という。それはそれで、営業妨害じゃないの?みたいな話になって、ほんとにどうでもいいことながら、おかしかった。

洪水ちゃんは嘘をつく。このことに限らず、こういう嘘はよくつく、と思う。
「嘘はよくない」と息子は言う。でも、きみだってそういう嘘は、家ではよくついているのである。
たぶん、買い食いしたかしないかで、責められるという状況そのものが、気に入らないのだ。その気に入らない文脈に、のりたくないのである。ひとたびその文脈にのってしまえば、買い食いした、おまえはよくない、反省しろ、みたいな話になるんだが、
洪水ちゃんは、買い食いが悪いと、全然思ってないし、反省する気はさらっさらっない、と思う。なのに、まるで悪いことをしたかのように責められる状況そのものが、彼女にとっては理不尽なのだ。この理不尽な文脈にはのらない、という意思が、「買い食いしてない」という嘘なのだ。
目撃者がいても、レシートをつきつけられても、防犯カメラに映っているのを見せられても、洪水ちゃんは認めないかもしれない。似ているかもしれないけど、誰か別のひと なんじゃないですか、ぐらいは言うかもしれない。(それは私の場合かも)。

公立中学の買い食い禁止のきまりは、通学範囲が限られているから、まあまあ妥当性もあるのであって(それだって守られているわけではない)、市外から通っている子もいる学校で、守れるはずがない、と思う。
男子たちの言い分は、叱られたばかりだろう、また連帯責任で叱られるのはやだよ、ということだったり、洪水ちゃんかまって遊んでるだけみたいなことでもあるから、なんてことない話なんだけど。洪水ちゃんの嘘のつきかたは、身に覚えもあってなつかしいな。嘘をつくとか、言い訳するとか、私もいろんな場面で、叱られたり憎まれたりしてきたものだけど、こちらにしてみれば、

私に嘘をつかせる世間のほうが、イカレているのである。
と言いたかったも。果てなく嘘をつきながら、嘘をつかせる世間をきらいだった。

洪水ちゃんに買い食いをやめさせるにはどうすればいいと思う?
と息子と話す。買い食いに限らず、いろんなことで、先生たちは洪水ちゃんに注意しまくっているのだが、さっぱり効き目がない。ないと思う。
買い食いは、洪水ちゃんが、私は買い食いをしない女の子になる、と思わない限りは、やめさせられない。世間ルールと自分ルールが対立するとき、必ず自分ルールが優先するのが、洪水ちゃんなので、買い食いしない、が自分ルールになったときだけ、洪水ちゃんは買い食いをやめる、と思う。
世間ルールに従えさせたいなら、そちらのほうが価値がある、ということを納得できないといけないんだけど、買い食いなんてなあ、したっていいじゃんって話だしなあ。

宿題の提出等もしていなくて、叱られていたらしいんだけど、成績はいいし、勉強しない子ではないのだ。そこもたぶん自分ルールがあって(たぶんお父様の方針もあって)家庭学習はがんばっていて、英語も数学もずいぶん先まで行っているのだが、いかんせん、学校ルール(宿題)にまで対応できる余力がないんだと思う。

自分ルールと世間ルールの兼ね合いを、なんとかうまくやっていければいいんだけど、なかなかたいへんだろうなあ。

息子はいまのところ、学校ルールと自分ルールとの間に矛盾がないので、平和そのもの。

 

 

 

 

 

 

 

羊と鋼の森

日曜日が1日で、映画割引の日なので、息子を誘って映画に行く。
羊と鋼の森」。原作もふたりして読んだので。
息子と映画って久しぶり。たぶん、バケモノの子、以来かな。
ピアノの音も風景もきれいで、こころよかった。本を読んだのに内容はすっかり忘れているから新鮮だった。
ピアノの場面では、息子、指を動かしながら見ていた。
原民喜の言葉がよかった。

明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体
 
原民喜「沙漠の花」

またすぐに忘れるから、メモメモ。


国語の試験範囲に俳句の鑑賞、というのがあって、
鑑賞文の書き方を聞かれたから、たとえば10点分あるとして、季語と季節ぐらいは書くとして、2点もらえればいいとする。あとの8点分はあきらめる。あきらめたうえで、自分が思わなかったことは書かない、ことが大事。思ったことだけを書く。点を失っても、自由を失ってはいけないんだよ。自分が思ったことだけを、自由に書けるだけ書く、みたいなことを言っておいたんだけど、
10点満点の9点もらっていた。漢字、比喩の「喩」を間違えて、マイナス1点。
よく書いたな。

 じゃんけんで負けて蛍に生まれたの 池田澄子


じゃんけんで勝っても、きみはきみに生まれたかったかしらね。

 

 

 

天動説

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小学校のときに一緒で、地元の中学にすすんだ子たちについては、ほとんど何も知らないのだが、I君経由の情報で、Aはいじめられて不登校になっている、Bは背が伸びなくてまだ145センチくらいだ、と聞いた息子は、驚いた。
Aは息子をいじめた子のひとり。体も大きくて恐ろしかったのに、あいつがいじめられるなんて。Bは息子を「チビ」といつもばかにして呼んでいたのだが、いまはBのほうがずっと低くなってしまったということか。

定期考査の社会科の答案、持って帰っていたので、ひょいと見たら、時差の問題ができてないっぽい。時差は、これまでも連続で点を落としているところなので、試験前夜に最後に復習して、わかった、大丈夫、と言っていたんだが、できなかっただね。引き算のところを足し算した、と言う。ついでに理科の範囲は天文だったんだけど、それもよろしくなかった。満月と新月が逆、西と東が逆。
そういう間違いは私もやった、気がする。で、解けるようになった、記憶はない。

それはおまえの頭のなかが、まだ天動説のままだからだ。
と、なんか飛躍ありそうだが、間違う理由について、息子を納得させてしまったパパの見解。

西洋で、天動説か地動説かで火あぶりをしていた、そのはるかはるか昔から、東洋では、万物流転していた。星が動き月が動き、すべてが動くなら、この地面も当然動いている、という悟りがあったのだろう。

という話に感心したからといって、問題が解けるわけでもないが、息子、自分のことは棚にあげといて、まわりの同級生たちの天動説はよくわかる。
ほとんどみんな天動説で、自分中心で、自分に都合がいいから、あるいは悪いから、人をいじめたりからかったりしているわけだが、それが、次には逆にいじめられたり嫌われたりするわけだから、なるほど万物は流転するし、こいついやだ、と思う連中は、たしかに頭が天動説だ。自分の好き嫌いや印象で、人をばかにして恥じない。

社会科は公民に入り、少子高齢化核家族、大家族の話。それで祖父母が県外の人ときかれて、3割ぐらいは手をあげる。どこの県かときかれたIが、山口、と答えると、私も、と洪水ちゃんが言う。ぼくも、とぼくも思ったが、ぼくは言わない。
思うに、常識的な振る舞いといっても、洪水ちゃんにはなんのことかわかんないよ、ひとつひとつの場面で、このようなときには、こういう態度がいいとか、ここではしゃべらないとか、ひとつひとつ言ってあげないとわからないよ。
と、息子が言う。おお。


その通りだと思うよ。広汎性発達障害の広汎性の意味は、汎化ができないということなのだ。すべての場面について、ひとつひとつ。具体的に。曖昧にではなく漠然とでもなく明瞭に。明文化して、なぜそうでなければならないかのきちんとした説明が、必要なんだけど、たいていの子はそれを省略されるから、何も教えられてないことについて、なぜ適切な振る舞いができないのかと責められて困惑する。

その子がわかるようなやり方では、何も教えられてないので、自分ルールで生きるわけだけど、自分ルールとまわりの天体のルールとの兼ね合いや、適切さ不適切さの判断について、教えてくれる人もいない、相談できるところもないまま、育ってゆかなければならないので、本当にしんどい。大人になって、死ぬかもしれないほど傷ついてようやくわかること、というのはある。人生が手遅れになっていなければラッキーだ。

とはいえ、とはいえ。話してわかるなら、話は簡単なので、話しても話しても話しても、通じなくて泣きそうな気持になることは、君に対してももちろんあるわけですけどね。

納得させてほしいツボ、があって、そのツボをはずされている以上は、何があっても納得できない仕組みになっている、と思う。そのかたくなさには、目に余る愚かさがあり、と同時に、何か尊厳がかかってる。なかなか、たどりつくに難しく思うのですけど、たどり着けると、楽しい、生きている醍醐味ほど楽しい、と思う。

 

天罰とか陰陽師とか密告とか

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息子、学校から、いじめに関するアンケートを持って帰ってきていた。何も書くことはない、と言う。「陰キャ、死ね」と言われるが、書くほどのことではないらしい。
それに、人を陰キャ認定している騒がしい連中が陽キャというんなら、ぼくは陽キャになんか絶対なりたくない。陰キャ上等、なのである。
それで、陰キャとも陽キャともつきあえる人を、陰陽師、と言うのだそうだ。笑ったね。

さて、息子に「陰キャ、死ね」と言ったKは、ある朝、始業前に廊下でスーパーボールを投げて遊んでいたのが、Kが投げたボールがまさかの火災警報器に命中で、サイレン鳴り響き大騒ぎになって、まあ、Kと遊んでいた数人はそのまま生徒指導室かどっかに連行されてゆき、その日は教室に戻ってこなかった。
「天罰だね」と学年トップの女子は冷たく言い放ったらしい。
「謎の連帯責任」(と息子は言う)とかで、臨時の学年集会もあったらしい。それが定期考査直前の週末。K以外の数人は週明けには教室にもどってきたが、Kは一週間ほどしてようやく教室に戻ってきた。
そのKが、これまで息子の名前を呼んだことがなかったのが(しかし、以前に噂になった女子の名前で呼んだり、からかったりなので、息子は断固無視していた)、あるとき君つきで息子の名前を呼ぶのでしょうがないので返事したら、それから、ふつうに名前を呼んで挨拶してくるようになったらしい。(しかし、どこに落とし穴があるかわからわからないから気は許さない、と息子は言っている。)

学校に騒ぎのもとのスーパーボールをもってきたIは、そのあと、漫画をもってきているのを見つかった。それでIは、俺だけじゃない、と言ったのだった。持ってきていたのはもちろん漫画だけじゃないので、許可なくスマホを持ってきているとか、それを授業中に見ていたとか、みんなのことを密告した。
また「謎の連帯責任」学年集会があり。それで、いじめアンケートとあわせて、それら校則破りについて、自己申告および、目撃したことを書くための用紙を持って帰っていた。

息子、自己申告については、学校帰りに自販機でジュースを買ったとか、バス通学なのだが、寄り道をしてわざと違う路線に乗って、遠回りをして帰ったとか(乗ったことのない路線なので一度乗ってみたかったらしい。むろん親には内緒だった)だが、目撃はたくさんある。一番腹立たしいのは、バスのマナーが悪い(騒いでうるさいので耳が痛い)ことで、それは書く。スマホについてもそのほかについても書く。ちょっと感心したのは、誰が、について、よく知らない人たちが、と書いているのだった。よく知らない人なので注意もできない、と言い訳するためでもあるのだろうが、もちろんよく知っている人たちだ。

で、ばれるものはばれる。Sは自分のことはたいして書かずに、他の人のことはすべてぶちまけて書いていたそうで、男女問わず、優等生たちも、次から次へとひとりずつ、呼び出されていたそうだ。
なかには、呼び出されたことがショックで、食事も喉に通らないほど落ち込んでいたという純情な男子もいたらしいんだけど。
ところで、息子は気づいた。あれこれ息子にしかけてきては、「おまえ先生にチクるんだろう」と言っていた連中こそが、ここぞとばかりによろこんで密告者になっているのだった。

ところで。洪水ちゃんは、定期考査の点数を「何点でしたか」と聞きに来たらしい。彼女の口からはなんでもこぼれてしまうので危険すぎる、「言いません」と息子は答えた。
洪水ちゃんが、遅れて教室に入ってきたとき、Oが彼女に中指立てて見せた。するとそれを見たHが、「○○、なんで中指立ててんだよ」と息子にぬれぎぬを着せたらしい。ぼくじゃないと言ったが、おかげで、みんなに変な目で見られた、のが、今日のむかつく出来事。
Hはあれこれ声をかけてくるが、ちゃんと名前で呼ばない限りは絶対返事をしない、振り向いたら負けと決めて無視しつづけている、そうだ。次に天罰くだるか自滅するのはHだろう、と息子は思っている。

というのも、小学校のときに、息子を脅してこわがらせた男子、が、いま地元の中学でいじめられて不登校になっている、という話を聞いて、息子は驚いたらしい。自分がしたことはいつか、自分の身に返ってくるよ、と思ってはいるが、本当にそうなんだ。

さて、洪水ちゃんだが、自分はどうもみんなに嫌われているらしい、相談にのってほしいと、特別支援担当の先生にカウンセリングを申し込んでお話ししたらしい。常識のある振る舞いをして、と言われたらしいのだが、さて、教室にもどってくるなり、洪水ちゃんはラアラアとお歌を歌っていたそうで、だからそこが、と息子は思ったらしいんだけど。で、そういうことが全部息子の耳に入っているっていうことは、洪水ちゃん、全部しゃべってるんだな。


 

 

生きる

沖縄の慰霊の日に、14歳の女の子が読んだ詩。素直で力強くて、風土のように体温がある。朗読の声も音楽のように、こころよい。こんなに健やかなものがある。なんか、うれしくなった。このうれしさは、とてもよいものだ。
このあたりを貼っておこう。

沖縄慰霊の日:平和の詩「生きる」全文 - 毎日新聞


最初に目に留まったのは、女の子の名前だった。私の、死んだ友だちと同じ名前だったので。読み方は倫子(みちこ)だったけど。小学校6年の1年間同じクラスだった。小さい頃から病気で入退院を繰り返していて、その1年間だけ、学校に通えたのだったと思う。翌年はまた入院して、11月に亡くなった。
帰り道が一緒だったので、毎日一緒に帰っていた。駄菓子屋でみっちゃんに借りた10円玉のいくつかを私はたぶん返していない。忘れていただけだったんだけど、思い出したときには亡くなっていて、やがて、みっちゃんの家のあった市の古い団地はまとめて取り壊しになったので、家もわからなくて、とうとう返しに行けなくなった。
返せなかった10円玉が私の宝物だ。いつか、借金の利子が膨大に膨らんでしまって10円玉が大きな金塊くらいになったときに、その大きな金塊をあの子に返すことができたらいいなと思う。わたしが返せなくても、かわりに神さまがかえしてくれるだろうとも思っている。
みっちゃんの声も顔も、いまもはっきり思い出せる。ふしぎなくらいはっきり。

それから、沖縄の子どもの平和メッセージ展、のサイトで、何年分もの詩や作文や絵の優秀作が見られたので、見ていたんだけど、祈りの実感、というか、祈りに体温があることを感じた。生きることと祈ることが同じであるような、自然さ、健やかさ、力強さ。こういうところから生まれてきた詩なのか。

この子が書かなければ、なかった詩なのに、書かれたら、その詩が存在しないことを想像できないような、そういう詩。

 

 

 

 

エトワール

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蛍見にゆこうと思っていたのに、息子を誘ったら、試験前でそれどこじゃないとか、疲れているのにまた坂道上り下りするなんていやだとか、ふられて、そのまま忘れていたんだけど、昨夜、もしかしらもう蛍いないかも、と思い出して、せっかく近くに蛍が明滅するところに住んでいるのに、蛍見ないまま季節が過ぎるのも残念すぎる、夜中ひとりで懐中電灯もって、坂の下のポストに手紙落としがてら、川まで行った。いないかもしれないと思ったけど4匹ほど飛んでいた。
星や飛行機の灯、遠くの家の灯と同じほどの大きさで、蛍。
川のあたり真っ暗ななか、蛙がにぎやか、草の匂い、田んぼの匂い、水の音、風に鳴る森の音。こういう夜道を歩いていると、この道はこのままずっと、子どものころの景色にも、また別のなつかしい場所にも、つながって行きそうに思えるんだけれども。

暗闇のなかでちらちらする、あれこれの光を見ながら歩いていて、エトワール(星)という言葉を思い出した。「ジヴェルニーの食卓」(原田マハ)という本は、印象派の画家たちの物語、いくつかの短編のなかの、ドガの話が「エトワール」というタイトルだった、と思う。新しい画風が世間の嘲笑に晒されていたころ、14歳の貧しい踊り子をモデルに創作しているドガの言葉を、ときどき思い出す。
「闘いなんだよ。私の。──そして、あの子の」
蔑まれながら、エトワールを目指して生きる画家と踊り子の共感。

その言葉を、ほんとうにどこかで聞いたことがある言葉のように、私はときどき思い出す。
「闘いなんだよ。私の。──そして、あの子の」

庭のあじさい。各種咲きそろった。雨の日は、門のところ出入りする度にあじさいの花があたって濡れるから切ってって息子が言うけど、いやだ。
 
大阪の地震、お見舞い申し上げます。友人のみなさん、大丈夫だったでしょうか。疲れませんように。
 
 


パラダイス

先週、映画「万引き家族」観てきた。シナリオも役者も凄かった。あの疑似家族のもっているなつかしさ。子どもの頃、よその人も、ときどき家族みたいにうちにいて、一緒にごはん食べたりしていたこととか、思い出した。家族だけじゃない、いろんな大人や子どもがまわりにいたことに、たぶん私は救われた。大人になってからは、私が、よその人に家族みたいに受け入れてもらって、住まわせてもらって食べさせてもらって、生きのびたこともあったし。
最後に安藤サクラが、あの家族の日々を、「おつりがくるほど楽しかった」とたぶんそういう言い方をしたのが、心に残った。そうか、家族と過ごすって、おつりがくるほど楽しいことか。

それから新幹線の殺傷事件があった。事件の残酷さは、そのままこの社会の残酷の写し絵のように思えるんだけれども、偽善と利己と無理解と暴力がつくりだした殺意と思う。そのどれもが、偽善も利己も無理解も暴力も、とてもありふれていると思う。私たちはその殺意の形成に加担していないかに自覚的になったほうがいい。
何年か前に、私の住んでる町の近くで、不登校になった高校生が、祖父母に預けられて暮らしていたんだけど、学校に行かないことをなじられて、祖父母を殺してしまった事件があったことなども思い出すけど。

 

ふと思い出したのが、昔読んだ、トニ・モリスンの『パラダイス』という小説。人間は楽園をつくろうとして、地獄をつくりだすという話。
黒人だけが住むルービィという名の架空の町があって、町はずれに修道院がある。その修道院には、いろんな過去と傷とをもった女たちが流れついている。ここには黒人も白人もいる。親に捨てられて自傷癖をもつ娘とか、自分の子を不注意で死なせてしまった母親とか、幼少期の性虐待で心に傷を負った者とか。彼女らは、無秩序で自堕落な暮らしをしていて、でもありのままを受け入れる寛容さがある。
一方町は、男たちが支配している。厳格な父権社会で、肌の黒さを基準にした差別的で排他的な社会。社会的な成功や経済的な豊かさを獲得しながら、人間の器を小さくしている。よそ者を蔑み、支配できないものを憎み、男たちは、若者たちの反抗や障害児が生まれたことも、忌まわしいことは全部、修道院の女たちのせいだと考え、そして町の秩序と幸福を守るつもりで、修道院を襲う……という話。

男と女、親と子、肌の色の濃い薄い、いろんな対立や相克があって、それらが不幸やら苦悩やらをもたらしたあげくのはてに、暴力や破滅に向かう、地獄にまっしぐらなんだけれど、でもこの物語は、彼らが歩まなかったもうひとつの可能性をきらめかせている。不幸や苦悩だと彼らが思う同じものが、調和や癒しでもあり得たということ。地獄へ向かう道の裏側にいつでも、パラダイスへの道もあったということ。それはほんとに紙一重なのに、その紙一重の向こう側に行けなくて、人間は地獄をつくってしまう。

その紙一重に、思いをこらしたい。ヴェイユなら、注意深さ、祈り、と言うと思う、その深さでしか超えてゆけないような、紙一重の、とほうもないはるかさの。

『パラダイス』を読んだのは、20年ぐらい前だと思う、自分が家族や子どもをもつなんて思ってもなかった頃だけど、いま家族がいて子どもがいて、本当におつりがくるほど楽しいと思う。

ここんとこ毎夕方、ピアノから「きらきら星変奏曲」が聞こえてくるのも楽しいし。いま考査前で、夜中まで、因数分解の問題の解けないやつを一緒に考えるのも、泣きたいほど楽しいし。
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これは向かいの森の、沢の近くの。モリアオガエルの卵だよって、近所のおばあさんが教えてくれた。