フィリピンに行っていました。(パアララン・パンタオ)

 

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7月25日から8月1日まで、フィリピンに行っていました。いつものように、パアララン・パンタオに滞在。

まず、会う人会う人から、この度の西日本豪雨災害への心配とお見舞いの言葉を聞きました。
フィリピンも自然災害の多い国であり、パヤタスでは、2000年に雨でゴミ山が崩落し数百人が犠牲になるという事故もあったことから、わがことのように心配してくれていました。被災地のみなさま、友人のみなさまへのお見舞いを、お伝えします。

...

さて。いろんなことがあったんですけど。息子、それも14歳という難しい年頃のを連れて行ったので、いつもと少し違っていたし、フィリピンの友人のみなさまには、本当に本当にお世話になりました。ありがとうございます。息子にはとてもいい経験になったし、とても楽しかったです。
詳しい記事はまたゆっくり。 

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パアララン・パンタオの写真から。
先生たち、奨学生(アシスタントの先生)たち。中央の車椅子がレティ校長。エラプ校とパヤタス校の建物。両校の生徒たち。

 

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今年は2校で計143人の子どもたちが登録しています。
パヤタス校61人(午前30人3~4歳と6歳 午後31人4~9歳。6歳以上の生徒も数人います。小学校に入学しそびれたり、通えなくなって学びなおしに来ている) 
エラプ校82人(午前41人2クラス、3~4歳 午後41人2クラス、4~5歳)


子どもたちもスタッフたちも元気でがんばってます!
詳細またお知らせします。ところで、
パアララン・パンタオの運営費が底をついています。7月は先生たちの給料を払うことができましたが、このあとの予算が、いま全くありません。

緊急に8月末までに少なくとも2000ドルが必要です。(2校で月に2000ドルほど必要ということです)
みなさまそれぞれに大変な中、本当に申し訳ないのですが、どうか、ご支援をよろしくお願いいたします。


パアラランへの寄付はこちらから。

郵便振替 00110-9-579521
名称 パヤタス・オープンメンバー


このあと、学校の近況報告、ニュースレターの発送等、努力していきますので、ひきつづきパアララン・パンタオのことを、気にかけていただけると嬉しいです。
ゴミ山のふもとの子どもたちと一緒に、希望をつくりたい、分かち合っていきたいと願っています。

パアララン・パンタオのホームページ

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パアララン・パンタオ(パヤタス校)の近く

夏休み

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今日から夏休み。昨日は学校に三者面談に行ってきた。学校では猫かぶっていい子にしているらしく、特に、話はなし。
「あのね、家で子どもが勉強しない、とか、怠けるとか、親の言うこときかないとか、そういうことについては、先生はこのあとたくさん聞かされるはずだから、わざわざママが言わなくてもいいと思うんだよ」
と息子が言うのが、なんかおかしかったので、黙っといてやることにした。

で、明日から息子連れてフィリピン行きます。雨季なので日本よりは涼しい。避暑してくる。はじめて息子を連れていくんだけど、そろそろ荷物運びでもなんでも、少しは役に立つかもしれないと期待して連れていくので、期待にこたえてほしいと思う。
友人のみなさま、いろいろお世話になります。
ほんとに、みんなにどれほどお世話になることか。


8月11日に、旧広島球場跡地で、盆ダンス、の催しがある予定。そこでパアララン支援の店出しをする予定。いろいろ仕入れてくるつもり。
その話は、息子を連れていくと決まったあとに、やってきた話なんだけど、ひとりだったら荷物運びはしんどかったので、それだけでも連れて行くかいはある、というか、ちょっといい流れかな、と思う。11日のボランティアもしてもらおっと。

今年度、新学期がはじまったときに、例年の半分ほどしか送金できなくて、これでやっていけるのかどうか、相当に不安だったけど、ペソとドルのレートが、ドル高のおかげで、少しはもちこたえられるかもしれないこと、現場も柔軟に対応していること、いつものように学生たちの訪問の話もあったり、盆ダンスの店出しの話が来たり、まだ天は見捨ててない、と思うので、私も、しっかり前を向いてがんばりたいと思います。

今年も130人ほどの小さい子たちが、通ってきているというし。レティ先生学校つづけるし。

パアララン・パンタオ

寄付は一年中受け付けています。

郵便振替00110-9-579521 
パヤタス・オープンメンバー


健康・晴天・無事故で、行ってくる。また近況報告します。
酷暑の夏、ご自愛ください。

 

酷暑

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酷暑お見舞い申し上げます。
夕方、畑に行ったら、大きなポリバケツにためておいた水が、お湯になっていて、撒くべきか撒かざるべきか、悩む。夜明け前に撒くのがいいだろうなあ、と思う。

雨のあと、畑にスイカがなっていた。掌にのるくらいの小さいのが1つ。大きくなるかしらと思って待っていたけど、ならないので、収穫。小さいけど、ちゃんとスイカだだった。ブルーベリーも採れた。

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電話や手紙やメールの用件の度に、豪雨災害は大丈夫でしたかと、互いに聞きあっている感じのこの頃。報道されたところだけが被災したわけではなくて、思いがけないところ、身近な人たちの傍らに、被災現場があって、ふるえる。

災害のあとは、長く深くしんどいと思う。

大丈夫な世界の上で生きていると感じていられたのは、いつぐらいまでか。ほんとうは、こんなに壊れやすい世界で生きている。
こんなに壊れやすい世界で、生きていられるのは、奇跡のようなのに、なんの不注意で、子どもたちが学校で、熱中症で死んだり倒れたりしなければならないのか、絶句する。
注意深くなければ。

夢を見た。広大な砂漠のようなところにいて、人の列が続いているのは難民の群れのようで、自分もそのなかのひとりで、いまがいつか、ここがどこか、さっぱりわからない。なぜなら、家や街だけでなく国境線もながされてしまったので、この人々をどこにもどせばいいのか、私もどこにもどればいいのか、なんにもわからないのだった。国境線もながされてしまうのか、と夢のなかで驚き、国家は仮の城だから、国境線も流されるときは流されるよな、と夢のなかで納得していた。黄色くて大きな太陽がのぼるのを、まぶしく見ていた。





 

 

翔べない鳥

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「みらいらん」2号。エッセイ書いたので貼っておきます。
手紙、たった一通の手紙で、人生のかたちがすっかりかわってしまうということが、人生にはある。本当にある。たいへんなことでした。すばらしいことでも、あった。

マヤ・アンジェロウ『歌え、翔べない鳥たちよ』読んだ。南部やサンフランシスコのハーレムで育った黒人少女の自伝。ときどきはこういう本をきちんと読みたいと思った。はじめて読むのに、なつかしかった。
アメリカの黒人女性作家たち。20代のころ、トニ・モリスンや、ゾラ・ニール・ハーストンをよく読んでいた。大好きだった。
人生は大きな危険のようで、生きるというのは、サバイバルするということで、とんでもないけど、彼女らの本が傍らにあるというだけで、大丈夫、私も生きていける、と思ってきたなあと、なんか深く感謝したい気持ちになった。傍らに、大きなたのもしいお姉さんが、ついていてくれるみたいで。
あのお姉さんたちがいるなら、こわいものは何もないのだ。勇気ひとつで生きていける。生きることを好きになれる気がした。

 

 

壊音

「壊音」というタイトルの小説を、ずっと昔に読んだことがある、気がする。記憶は定かでないし、内容もなんにも思い出せない。たまさか立ち読みした文芸誌に載っていたんだろうか。たぶん、学生のころかな。壊音、という言葉を思い出した。

  夕焼けいろ 崩れそうな山も氾濫しそうな川もこわれそうなひとも
  すくってもすくってもなくならない土砂もかなしみもかなしみもかなしみも
                    /野樹かずみ

4年前の土砂災害のあと書いた。被災現場と同じような土地に暮らしている。山のふもと、川のほとり。あのあとしばらく、山という山は崩れそうに見え、川という川は氾濫しそう、人という人は、いつでも壊れてしまいそうに、見えた。
いままた、そんなふうに見える。

フィリピンの友人から心配のメールが来たりしたから、海外でもニュースになったのだと思う。フィリピンこそは、毎年の台風被害が深刻だと思う。ちょうど滞在しているときに台風にあったこともあるし、川沿いの家が壊されてゆくのも見た、昼も夜もいつまでもつづくあの雨音は、許してほしいと泣きたいほどだったけど、今回も4年前もフィリピンの雨を思い出した。激しくしつこい亜熱帯の雨の感じだ。

中学1年の夏、台風で床上浸水した。瓦も飛ばされて、雨漏りがひどかった。朝から弟と、鍋や洗面器をもって走り回ったけど、全然おいつかなかった。玄関から水が入ってきて、水位をあげてゆく。父と母が机の上に畳を上げていた。とうとう水が床上にきたころ、心配した叔父が水のなかを歩いてやってきた。私と弟と、連れられて祖母の家に避難することになった。腰まで水に浸かって歩いた。うまく歩けなくて、転んで泥水に頭からつかった。
しばらく歩くと、そこはもうふつうの雨の日で、振り向くと、私たちの家がある一画だけが、浸水していた。泥水のなかに浮かんでいた。あの取り残されたなかに父と母がいて、逃げてゆく私は頭まで泥水にまみれているが、100メートル先は、ただの雨の日だったのだ。
日常と悲劇の、紙一重の、でも決定的な断絶、を最初に感覚した経験だった気がする。
豪雨災害の映像を見ていたら、あのときの水のなかを歩いたときの、歩けなさ、泥水に沈んだときの感覚がよみがえってきた。流れがなかったから、転んでも起き上がれた、というか叔父が引き上げてくれたのだが、流れがあったら無理だったかもしれない、と今になって気づく。
祖母の家でお風呂に入った。家が片付くまで、1週間ほど祖母の家で暮らした。水のなかを歩いたあと、体中にぶつぶつ赤い湿疹が出て、かゆくてしょうがなかったのを覚えている。誰にも言わずに我慢したのか、誰かに言ったけど大人たちそれどころでなかったのか、とにかく放っておかれた。そのうち消えたと思うけど、全身ぶつぶつが、不安だった。

いまも、我慢している小さいひとたちが、たくさんいるだろうなと思う。報道されていない被害もたくさんあると思う。


愛媛は特別警報が出るのが遅かったと思う。出たときはもう、崩れたり氾濫したりしていた。蜜柑山の崩落の写真は胸に刺さった。車窓から、あの蜜柑山とあの海が見えると、ふるさとだ、という気持ちがした。私がそこにいなくても、そこにあってほしい幸福、そこにいない私のために、そこにあってほしい景色だったと、思う。

宇和島の夏のお祭りは中止になったらしい。私たちの夏休みの帰省も、鉄道では帰れないだろう。青春18きっぷを買わない夏休みになりそうだ。

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向かいの森は、すっかり夏の山。もう水の音も聞こえず、ロダンの池にも水はなく、水路も乾いている。

 

 

 

 

 

同時多発

豪雨被害のこと、友人のみなさまにご心配かけていますが、わが家は無事。雨漏りだけです。いろいろ大変な思いをされている方、お見舞い申し上げます。
6日の深夜に、兄から電話かかってきた。数キロ先の被災現場が全国ニュースで報道されたので。いやいやうちは大丈夫よと返事して、数時間後、7日の早朝には、宇和島が1時間100ミリの降雨と聞いて、今度は私が、父のところ兄のところに電話。こんな雨ははじめてだなと言いながら、父のところは雨漏りだけ、兄は仕事で通じず、午後になってから電話がきて、浸水しているところもあるみたいやけど、ここらは大丈夫よ、と聞く。わりとのんびりした口調だった。
ニュースで四国の映像が出てこないし、でも死者は多いし、気になってネット見たら、いやもう、土砂崩れとか河川の氾濫とかしてるし。国道が浸かったら、陸の孤島になる。今日になってようやく、海から船で、地元メディアが吉田(宇和島の被災現場)に入ったという記事をSNSで見かける。みかん山の上から海まで、土砂崩れ。なつかしい景色が一変している。
こんなに同時多発だと、報道なんて全然追いつかないんだろう、と思う。

7日の文化祭は中止になり、息子はiPad抱えて、鉄道の被害状況を追っていた。
学校の下級生の女子が、ツイッターに壊れた鉄橋の写真をUPしたところ、全国各地の鉄道オタクたちがリプを返してきて、その内容がなかなか専門的なので、女の子、理解がついてゆかず、私、駅名とか国語とかもっと勉強します、と返事していた、という話が、かわいらしかったけど。
今朝、息子が、宿題しているふりで宿題せずに書いていたのがこれ。

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山陽線呉線芸備線、こんなにたくさん壊れている。なんかとほうもない。息子の学校は電車通学の生徒たちも多いのだが。

家の向かいが森なので、木々の葉を打つ雨音と、流れてくる水の音がすごい。森が水がたまって沼のようになっている。森の奥には池があり、ロダンの考える人の像がある。この森には昔、人間嫌いおじいさんが住んでいたらしく、おじいさんがつくった庭の名残の池とロダンなのだが、日ごろ水のない池が水のある池になっている。山から滝のように水が流れている。雨音、聞き疲れた。

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7月6日は

異様な1日だった。
先日の台風から、ずっと雨。警報が出たり消えたりして、息子は午後はやく帰ってきたり、昼から学校に行ったり、落ち着かない日々だったが、今朝はいつも通り学校へ行った。文化祭なのである。そのあと、雨音が激しくなり、それなりに心配でテレビはつけっぱなしにしておいた。
すると突然、オウム真理教の麻原死刑囚の死刑執行のニュースが流れ、驚いて見ていたら、やがて、他の死刑囚、当時の弟子たちの死刑執行が順番に報じられる。その報道の気持ち悪さに見るのをやめた。これから死刑執行しますよ、しましたよ、とライブ中継のような報道の仕方ってあるだろうか。

23年前の事件当時のことも思い出した。東京にいたんだけど、あの異様な数か月間と、胸の痛さと。あのとき私、同世代の信者たちの姿に、シンパシーを感じた。自分に似た人たちがいると思ったのだった。
あれは、私に、青春の終わりを告げた事件だった。
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思い出して探したら、見つかった。死刑執行された井上嘉浩被告(当時)の陳述。1995年10月13日付東京新聞。衝撃を受けて切り抜いていた記事、奇跡的に手元に残っていた。見る度に胸が痛くて捨てられずに来たのだった。追悼に代えて載せておきます。「私たちの目的は菩提心を培い真に覚醒することにあったはずである」。




7月6日、という日。何かあった気がして、しばらくして思い出した。
  『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日 (俵万智
思い出して気が抜けたけど。俵万智さんも同年代。そのような明るい青春が一方にあり、もう一方に、オウムの弟子たちのような青春があった。

あのころ、バブルの時代の、生きやすく楽しげに見える世の中で、でもそんな嘘くささのなかで生きられなくて、もしかしたら人間以上の何かになろうとして、墜落したイカロスの群れ。事件のあと、私、すこし長い文章を書いた。「偽善の領土、子供の王国、破壊の夢」というタイトルは覚えている。でももう読み返す勇気がない。
オウムのVXの被害者でもある、永岡氏が「憎しみなんかない」「あんな好青年たち」と彼らのことを語っていたことに、すこし救われる思いがしている。

死刑制度。国家がそんなことができるということが、相当に気持ち悪いのだが。

同世代に、あんなに痛ましい、悔しい青春があったことを、私は忘れたくないし、忘れられないと思う。はからずも、7月6日はオウムの命日になった。

息子が学校に行ったあと、警報が増えて、生徒帰宅。お昼頃に帰ってきた。そのころからJR止まるし、帰宅困難な生徒もいたんじゃないかしら。夕方、避難勧告で、町内会の連絡網回して、つづいて特別警報だが、このあたり避難先が遠いし、そこまで行くのが危ないし。家の向かいが森なので、雨の音がひときわ大きく響くなかに、救急車の音が混じると、なんかもう不穏な夜。
空が、大号泣。