しかくかびん

参考書や問題集は学校で一括購入、配布される。ここんとこ相次いで高校過程のテキストが配られているのだが、息子はちょっとした受難続き。

名前を書いて学校においていた古文の参考書が紛失した。学校に予備はなく、市販で売っているものを入手してほしいと言われたという。個人管理でなくクラスでまとめて管理していたときに紛失しているので、釈然としないが、しょうがない。アマゾンで中古のを探した。配送料込でも定価以下で入手できたので、よしとする。

ここから本題。英語の分厚い文法の参考書を持って帰った息子、これ、ぼくは使えない、と言うのだった。ページに色が多すぎるし、ゴチック文字の太字が読みにくいし、さっぱり頭に入ってこない。文章の背景に色が入っているのも駄目だ。どのページもなかなかカラフルで、一見わかりやすく見える参考書なのだったが。

しかくかびん。視覚過敏だ。
聴覚過敏だけでなくて視覚過敏もあったか。
つまり、視覚過敏のせいで、色が見えすぎて、肝心な文字の情報が頭に入ってこない、という状態になってしまうのだ。

英語の参考書は、以前に息子が自分で選んだものがあるので、そちらのほうを使えばいいのだが、見比べると、息子が選んだやつは、見事なくらい色がない、白と黒だけのすっきりした印刷で、「色彩という余分な情報がないので、わかりやすい」と言う。
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使えない参考書(左)と読みやすい参考書(右)


いまのところ、ほかの教材は大丈夫みたい。

そういえば、ピアノ友だちのYくんが中学に入学した頃に、彼は学校に通えなくなっていたので、自宅学習のためにゼミの教材を取り寄せたんだけど、それがカラフルで使えない、3色以上あると内容が頭に入ってこないらしいと、お母さんが教材選びで困っていた。へええ、そういうこともあるのかと思ったけど、わが家の息子も同じだったか。

そういえば、私も、高校生のとき、ラインマーカーだらけの友だちの教科書を借りたときに、教科書の内容が理解できなくて困惑した記憶がある。自分ではせいぜい赤ペンで下線を引くぐらいで、ラインマーカーはこわくて使えなかったな。色ばかりが目に飛び込んできて、文字のほうが頭に入ってこない、というか、ラインマーカーをぬったところが、別の生きものになって、てんでに動きはじめる感じで、気持ち悪い感じになってくるので、ノートの整理の最小限にしか使えなかったラインマーカー。
ちょうどラインマーカーが急速に普及した頃。使いたいのに使えなかったので、憧れと嫌いとを半々に感じる文房具だわ。


息子は自分で、英語の先生に話をすると言っているけど、誤解があってもいけないので、私も手紙を書いた。

たぶんどの学校にも、息子みたいな子はいると思う。視覚過敏があっても自覚のない子は、テキストがわかりづらいのではなくて、自分の頭が悪いと思ってしまうかもしれない。
これからの教材選びの際に、気をつけてもらえるといいと思うんだけど、わかってもらえるだろうか。教材費、安くないし、使わないのは本人の責任だけど、使えないのは困るのだ。

 

 

なまけものたち

来月には15歳になるかという息子だが。
ここにきて唖然とするのは、生活習慣が身についていないことだ。いったい生まれたときから、毎日毎日、お風呂に入れたり、歯磨きさせたり、してきたのはなんのためでしょう。
たしかに、毎日お風呂に入ってはいた。でもまさか体を洗っていなかったとは、気づかなかった。いつから、と聞いたら、夏休み頃から。
きっかけは、フィリピンだった。パアラランの学校で、蟻の這うトイレで体を洗う、というのがいやで、水だけかぶって、ごまかした。気づいていたけど。
ごまかせる、とわかってしまった。別に洗わなくてもいいや、と思った。で、怠けた。

洗わなくてもいいだろう、1日か2日か3日なら。
3週間も洗わなかったら、臭い。
怠けてもいいが、怠けっぱなしはだめだと、気づかないのが、なんというか、ほんっとに頭が悪い。
「洗わなかったら臭くなると、言ってくれればよかったのに」って、言っても聞いてないと思うよ。本当に臭くなるまで、なんのことかわからないから、絶対に忘れる。

だいたい、ママが教育してないから、とすぐに言われるわけですけど(むかむか)、これは親の教育の不足ではなく、本人の問題、怠け心を制御できないという問題、ずっと体を洗わなかったら臭くなるという想像力が働かないという問題、でも今やっと、臭くなるということが事実としてわかったんだから、ここからは本人の自覚の問題。

夜の歯磨きもときどき怠けている。怠けていると感づいたときには、問答無用で、磨き直しをさせるんだが。顔を洗うのを怠けているときもある。洗ったかってきいたら、必ず「洗った」って言うんだけど。パパはわりとあっさりだまされるけど、私が疑うときはたいてい嘘だ。こちらが疑うのが面倒になると、ますます怠ける。

ほら、ごはんをたべて、お風呂にはいって、って、って、いちいちいちいち声をかけないと、頭の中はどっかに遊びに行ったまま、自分からはさっぱり動こうとしない。放っておいてすることと言ったら、時刻表を見ること、電車の動画を眺めること、氷をかじることとパンかカップヌードルを食べることぐらいだ。
宿題だけはしている、か。

またその文字が。
筆圧が弱いのは、小さい頃からそうだった。小学校に入った頃は2Bを使わせた。それでも最初の頃は、先生の指示にしたがって、丁寧な字を書いていた。それが乱れはじめたのは、2年生のとき。学級崩壊で、いじめもはじまったころで、緊張しながら学校に行っていたから、文字のことまで、うるさく言わなかったんだけど。
心が傷ついて、文字が乱れたとパパは思っているが、実は違う、と私は思っている。すこし雑な字を書いても、なんにも言われなかったので、どんどん楽なほうに、流れていって、そのうち雑な字しか書けなくなってしまった、のだと思う。
それで今、文字はどんどんうすく、小さくなって、先生たちよくこんな答案を読んでくれると思うけれど、文字はうすく小さいほうが、力もいらないし、早く書けるし、楽なので、楽なほうにしか流れてゆかない。

その怠けもの加減が、なんというか、もう、自分を見ているようで、この子どもは、ひとりで生活するということができるのだろうか、インディペンデント(独立)は可能だろうか。考えてしまうのだが、いや、私にしたって、家族がいなかったら、生活そのものを、怠けられるだけ怠けて、食べることさえ面倒で、ぎりぎりまで省略してしまうような人間なので、
なんかもう、鏡のような息子である。

「生活が大事」と息子に言いながら、15歳の私が、同じことを言われて、はいそうですねと納得したかと考えたら、してないだろうなと思うし。

あれこれ見かねたパパが、息子に長い説教をするが、右から左だろうなあ、と私は思う。でも、とても大切なことを言うこともある。

発達障害のいいところは、嘘をつかないところだ。世の中は信用、信頼で成り立っているから、嘘をつかなければ、なんとか世の中に居場所はある。だが、発達障害が嘘をついたら、居場所どころか、自分が壊れるぞ」

然り。他人の文脈に従って、自分の言葉かどうかもわからない言葉を言わなければならなくなったら、壊れていく。その罠に陥りやすいのは、自分の気持ちというものを、自分でうまく把握できないから、そして自分の文脈が、とても孤独だから。


きみの嘘は。
叱られるのが面倒くさいとか、そういうことなんだよな。怠けているのを叱られたくないとか、やりなおしを怠けたいとかでつく嘘で、なさけなくなるけど。
それでも、大事なことの記憶は、利害や私情を交えずに正確に表現できる公正さは、子どもながらにさすがで、感心する。


どれほど言い聞かせても、入っていかないということはある。あらかじめ想像して身を処すということが難しいし、失敗しないとわからないことが、たくさんある。なので、とにかくきみは、芯の強い人間に育つしかない、と思うよ。

 

 

風の吹く日に

6日、台風の風で電車が止まってしまった。改札に行くと、駅員さんが休止のお知らせをボードに書いているところだった。バス乗り場へ。バスと、止まっていない電車を乗り継いで、会場まで。息子たちのエレクトーンアンサンブルの発表会。
3歳の頃から一緒に鍵盤を叩いてきた子たちが、年に一度いまも集まって、演奏している。4人とも淡々としているけれど、幸せなことなんじゃないかな。
今年は、We are confidence manという曲らしい。

3日の夜はアマウラ・ビエイラ氏のピアノリサイタルを聴きに行った。息子と。学生2千円だったので、それなら連れていってやれるかと思って。非常に聞きやすくて、長時間聞いても疲れない音だねと言ったら、これは凄いよと息子は言っていたので、連れていったかいはあったかも。

ひとりだったら行かない。息子がいてくれるので経験できる、ということがたくさんある。すごいことだし、ありがたいことだなと思う。きみがいてくれるので面白い。

首のあたり黒くなっているのは、日に焼けたのかと思っていたら、なんか臭ってきて、問いただしたら、毎日風呂に入っているけど、体を洗うのは怠けていた、と判明。「ちゃんと洗剤で磨いてね」と言ったら、「洗剤?」と聞き返された。…石鹸。
で、風呂から出てきたら、首、白くなっていた。


すっかり秋。庭に出ると金木犀が匂う。ある朝、柿をたくさんもらい、夕方には栗をもらう。子どもの頃は、春も秋も永遠ぐらい長かったと思うけど、いまは一瞬で季節が過ぎる感じ。
畑がまた夏の間に荒地と化しているので、晴れた日は草ひき。町内会の大掃除も近いし、庭もジャングルになってるし、怠けずに働かなければ。

 

 

 

 

 

半分、死後

青でできているとおもう空や海のように半分くらいはわたしも (野樹かずみ)


という短歌を数年前に書いていたから、「半分、青い」というタイトルは気になって、見ていた。朝ドラ。最後まで見て、なんというか宿題が終わったみたいな気分。なんか疲れた。いや、楽しんだんだけど。

ヒロイン役の女優が18歳というので驚いた。それで40歳まで演じてしまう。

私、18歳のときは、20歳からあとも生きてるなんて想像もつかなかったし、20歳を越えても、30歳や40歳の自分は想像もできない死後のような感じがした。母が52歳で亡くなっているので、人生はだいたいそのくらいの長さだと思っていたし(でもとても長く思えた)、そこまではなんとか生きてみよう、ということだけを思ってきて、めでたく目標達成しているのだが。
さて、このあとがまた、さっぱりわからん。私の母にとっては、この年齢はもう死後なので、それを考えていると、自分がいま死後を生きているような感じがして、死後のはずなのに生きて、たとえば子どもの学校の懇談会なんかに出席しているというのが、そしてその帰りに中学生の群れに紛れてバスに乗って、窓から夕焼けを見ているというのが、相当に贅沢なことに思えたりする。

そしてその贅沢を享受するために、何はともあれ、生命力が必要なのだった。たとえば、人に会うことも、ありがとうを言うのも、ごめんなさいを言うのも、手紙ひとつ書くのも、電話ひとつかけるのも、生命力がいる。

生きているときの、なんでもない仕草のひとつひとつがどんなに大変で、愛おしいか。ドラマで、わこさんが死んでゆく場面で、母が死んでゆくときのこととか思い出したりしたんだけど。

生きている私の傍らに、死んでいる母がいっしょにいるようで、半分、死後。そう思うと、死んでゆく母を、責めることができないように、私はもう、私を責めなくてもいいんじゃないかな、いつまでも、宿題ができなくて、あれもできないこれもできないと、叱られるのを怖がっている子どものような気持ちでいなくてもいいんじゃないかな、と思ったりした。

すこしの生命力でありがとうが言えて、またすこしの生命力で笑うことができて、それを大切に思うことが、死んでゆく母に対してできればよかったし、これから死んでゆく、いま生きている私たちに対して、できればいいなと。

 

希望

明日から定期考査なんだが。広島カープのせいで、まあそうでなくてもだが、落ち着かない息子だ。パパが音を消して見ていると、足音しのばせて後ろに立っているとか、私が台所からちょっと離れると、食器棚の引き出しにおいてあるiPadをのぞきにくるとか。ひっきりなしに冷凍庫から氷を出してかじっているとか。机に向かって5分とすわってないだろうっていう。学校で50分すわっていられるというのが信じられないくらいだ。

定期考査なので。日頃学校に置きっぱなしの教科書も持って帰る。(英語の教科書は持って帰るのを忘れている…) 国語の範囲が、魯迅の「故郷」と芭蕉の「奥の細道」で、なつかしく読んだことでしたが、ワークブック見ていたら、
「故郷」のテーマをめぐって、故郷への絶望、というような内容を選んでいる。
それもそうだけど、それならばよ、最後に出てくる、あの美しいフレーズは、なんのためでしょう。
 「まどろみかけたわたしの目に、海辺の広い緑の砂地が浮かんでくる。その上の紺碧の空には、金色の丸い月がかかっている。思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」

幼馴染みのルントウとの関係の変容は、封建社会身分制度のもたらす社会の絶望的な面を語っているのだが、それがなぜ、最後に突然、「希望」についての話になるのか、よくわからないふうだった。
そういえば、私も中学生で読んだとき、よくわからない話だった、と思う。教科書に載っていただけで授業ではやらなかった記憶だけど。魯迅で痺れたのは、大学生になって読んだ「狂人日記」だったが、たぶん狂人の妄想の話が面白かったのだ。

目の前に絶望がある。でも、未来を生きる子どもたちがいる。それならばどうしても、希望が要るのだ。希望がないなら、希望をつくらなければいけない。
という思いは、今でこそ私にも自然なものだけれど、
でも思えば、子どもにとって、子どもは、未来などではなく、相当にうんざりな現在、現実そのものなのだった。

そういえば、息子がいろいろ絡まれて、困って先生に相談したワンワンたちの件。息子は、それはしんどかったね、と先生に共感してもらったことで救われていたからいいんだが。事情をきかれたワンワンは「仲良くなりたくて」と言ったらしい、「カス」と暴言を投げつけてきたAは、去年息子に話しかけたときに反応が薄かったのが気に入らなかった、というのがずっとあって、それで思わず言ってしまったらしい。それぞれ注意されたらしい。
そこはもう、個性の違いなので、どうしておれの思うように反応しないんだと言われても困る話だ。コミュニケーションの流儀が違うのだろうが、無駄に傷つけたり傷ついたりしないことを考えたいよね、というところだけど。

ワンワンはでもその後も、学校に来ることと謹慎とを繰り返しているらしいんだけど、ふるまい方がわからないというふうなんじゃないだろうか。それで、踏んではいけないところばかりを踏んでしまう。あるいは自分で自分を踏み外してしまう。(私はすこし身に覚えがある)。

それでも、道は未来へつづいていく。

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青春18きっぷの広告。……雪国というものを初めて見た。
技術の授業でつくったらしい。雪国って、近くの駅ですけど、これ。

 

 



 

聖地巡礼

もう9年目になるのか。エレクトーンのアンサンブルの発表会が近い。幼稚園の頃から一緒に習っていた子たち4人のグループで、今年も参加する。今は個人レッスンだし学校も違うので、普段は全然会わないが、久しぶりに一緒に練習してきた息子、
「10か月ぶりなのに、ちゃんと居場所がある感じでうれしい」と言っていた。4人の空気感が、とてもおだやかでいい。
Yくんたちのグループにも久しぶりに会った。中3のNちゃんと高1のTちゃんもいて、おしゃべりしていた。進路の話とか。学校に行けていないYくんは、新しくできた通信制の高校に行くつもり。Nちゃんは行ける高校ない、と明るく言ってるが、どこかに行くでしょう。Tちゃんは、大学で心理学を勉強したい。それで困難を抱えた子たちに寄り添ってあげられる人になりたい。「そう思うようになったのは、きみの影響が大きいよ」とYくんに言っていた。
いい光景だなと思う。

居場所があるといいですね、自分の居場所があれば、難しいことがあっても、がんばっていけると思いますよ、
と、小6のとき、最後に療育に行ったときに言われたことだけど、いまのところ、息子は学校に居場所があるようで、しかも、楽しそうだ。
同級生とのちょっとしたトラブルも余興にみえるほど、余裕がある。

居場所があるというのは大事で、根っこのところの自己肯定感みたいなのがゆらぐと、障害特性が良くないほうに肥大して、無駄に傷ついて傷つけてぼろぼろになる、
のは私も経験済みで、それが一番心配。
自己肯定感がゆるがなければ、特性も個性に落とし込める。

多かれ少なかれ、人生はいろいろ失敗する。でもどうせ失敗するなら、自分の考えで自分の流儀で失敗したほうがいい。気づきもあるし、反省もしやすいし、立ち直りやすい。他人のアドバイスにしたがって失敗したら、傷が深いばかりで立ち直りづらい。他人は責任とらないし。

という話を息子にはすこしする。

定期考査の範囲が発表になってて、数学も英語も、はや高校の内容に入っているし、私はもうついていけないが、国語は芭蕉奥の細道があって、なつかしかった。
私、まだ暗唱できる。月日は百代の過客にして…。
歌枕、の説明は、聖地巡礼、でいいと思うんだけど、

息子は、奥の細道の旅を、列車で辿るとすると、どの路線をどう乗り継いで、何日かかる旅になるかということを、地図帳と時刻表でえんえん調べていた。
芭蕉とは別の、違う聖地が見えている、と思う。
聖地巡礼したいらしい。

 

沈黙の春の子どもたち

貼っておく。

発達障害の原因としての環境化学物質

https://i.kawasaki-m.ac.jp/jsce/jjce23_1_1.pdf

発達障害の急増、という言葉にまず驚いた。増えているのか。その原因は遺伝ではなく環境化学物質によるという内容。農薬の使用量の多い国で発達障害が急増している。韓国、日本、アメリカ…。
レイチェル・カーソンの「沈黙の春」を思い出す。沈黙の春はずっと続いていて、私たちは沈黙の春の子どもたち、ということになるんだろうか。

遺伝だと思っていた。息子が自閉スペクトラムの診断を受けたとき、その診断内容は、親の私たちにこそあてはまったから。このふたりの親から生まれたら、こうなるしかないだろうという自然さだったので、それは遺伝なのだと思う、やはり。

では私たちについてはどうか、というと、なんともいえない感じがしてくる。
私も、私の弟も発達障害だと思う。では、その親はどうかというと、これが微妙だ。私たちは、これがふつうの親、と受け止めたが、たぶん、ふつうじゃなかったかもしれない。


母ははやくに死んでいるが、母と世間との感覚のずれ、は子ども心に感じていた、と思う。そのずれ、に母が傷つくとき、自分もともすると母を傷つける側にまわってしまうのだったが、そういうとき、母をせつなくて、私は世間と自分をきらいだった。

父は、まじめに仕事をするお父さんだったのだが、どっかヘンではある。職人は頑固だから、という言い方があるから、まあそういうことにしておいてもいいが、何か心のクセのようなものがある。叔父たちもそれぞれにヘンである。
親たちは親たち世代としてそれぞれにヘンなので、それが発達障害によるのか、戦争のせいなのか、教育を受けられなかったせいなのか、個性なのか、よくわからない。
もう70代80代だから、どうでもいいというか、どうにもならないんだけど。

子どもの教育については、たぶんお手上げ状態だった。仕方ないのだ。父も母も小学校しか出ていない、ふたりが子どものころは戦争だったし貧乏だったし。
私も弟も、親から見れば、どうしていいかわからない子どもだったと思うのだが、お手上げながら、母が母なりに心を砕いてくれたことは、よくわかっていた。

パパのほうは、義父母さんとも高学歴の一族だけど、「発達障害の子どもへの教育のありかたとしては、まったく適切ではなかった」らしい。責めようもないことだけど。


私たちと息子との関係では、遺伝は疑えない、と思う。だから心配であり、同時に安心もしている。互いにわかりやすいので、家族の関係にストレスがない。仲間意識もある。だから、そうか遺伝か、と思って納得、だったのだが、

私たちと親たちの関係で、互いのわかりあえなさ、異文化交流の難しさみたいのは、時代の違いなのか、発達障害のあるなしの違いによるのか、個性によるのか、よくわからないところだ。

化学物質が原因と言われれば、それはそれで納得できる。父たちが子どもの頃には、きれいだったという川は、腐敗臭のするどぶ川だったし、学校は田んぼの中にあったが、農薬散布の白い煙がただよってくるなかを歩いたりしていた。私は小学校4年生ころまで、ずっとぜんそくだった。


とすると、戦後、高度経済成長の私たちの世代から、発達障害は増えていて、それが親になって、子どもたち世代にいよいよ顕著にあらわれてきているということかもしれない。

親が発達障害でなくても、子どもが発達障害であるということも、あるわけだ。化学物質が原因なら、増え続けるばかりだと思う。
もう、障害という言葉が不要に思えるくらい、あたりまえに、存在していると思うもん。クラスに2人や3人はいるし。不登校もあるし。

思い返せば、子どもの頃から、発達障害の子は、まわりにけっこういた。悩んだり泣いたりしているお母さんたちもたくさん見てきた。それがいまもずっと続いている、しかも増えているらしい、ということなのだ。

もとより無傷な命はないというか、壊れたり壊れかかったりしているものが、家族、のようなものをつくっているというか、でもそれでも、懲りずに命をつないでゆくし、

こんなに危うげでありながら、私たちは幸福にしかならない、と思っている。


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ピアノの調律。このときしか見る機会がないけど、羊と鋼の森は、造形的にも美しいなあと思う。学校から帰ってきた息子、音がきれいだと喜んで弾いていた。
線路はつづくよ、どこまでも…♪