なまけものたち

来月には15歳になるかという息子だが。
ここにきて唖然とするのは、生活習慣が身についていないことだ。いったい生まれたときから、毎日毎日、お風呂に入れたり、歯磨きさせたり、してきたのはなんのためでしょう。
たしかに、毎日お風呂に入ってはいた。でもまさか体を洗っていなかったとは、気づかなかった。いつから、と聞いたら、夏休み頃から。
きっかけは、フィリピンだった。パアラランの学校で、蟻の這うトイレで体を洗う、というのがいやで、水だけかぶって、ごまかした。気づいていたけど。
ごまかせる、とわかってしまった。別に洗わなくてもいいや、と思った。で、怠けた。

洗わなくてもいいだろう、1日か2日か3日なら。
3週間も洗わなかったら、臭い。
怠けてもいいが、怠けっぱなしはだめだと、気づかないのが、なんというか、ほんっとに頭が悪い。
「洗わなかったら臭くなると、言ってくれればよかったのに」って、言っても聞いてないと思うよ。本当に臭くなるまで、なんのことかわからないから、絶対に忘れる。

だいたい、ママが教育してないから、とすぐに言われるわけですけど(むかむか)、これは親の教育の不足ではなく、本人の問題、怠け心を制御できないという問題、ずっと体を洗わなかったら臭くなるという想像力が働かないという問題、でも今やっと、臭くなるということが事実としてわかったんだから、ここからは本人の自覚の問題。

夜の歯磨きもときどき怠けている。怠けていると感づいたときには、問答無用で、磨き直しをさせるんだが。顔を洗うのを怠けているときもある。洗ったかってきいたら、必ず「洗った」って言うんだけど。パパはわりとあっさりだまされるけど、私が疑うときはたいてい嘘だ。こちらが疑うのが面倒になると、ますます怠ける。

ほら、ごはんをたべて、お風呂にはいって、って、って、いちいちいちいち声をかけないと、頭の中はどっかに遊びに行ったまま、自分からはさっぱり動こうとしない。放っておいてすることと言ったら、時刻表を見ること、電車の動画を眺めること、氷をかじることとパンかカップヌードルを食べることぐらいだ。
宿題だけはしている、か。

またその文字が。
筆圧が弱いのは、小さい頃からそうだった。小学校に入った頃は2Bを使わせた。それでも最初の頃は、先生の指示にしたがって、丁寧な字を書いていた。それが乱れはじめたのは、2年生のとき。学級崩壊で、いじめもはじまったころで、緊張しながら学校に行っていたから、文字のことまで、うるさく言わなかったんだけど。
心が傷ついて、文字が乱れたとパパは思っているが、実は違う、と私は思っている。すこし雑な字を書いても、なんにも言われなかったので、どんどん楽なほうに、流れていって、そのうち雑な字しか書けなくなってしまった、のだと思う。
それで今、文字はどんどんうすく、小さくなって、先生たちよくこんな答案を読んでくれると思うけれど、文字はうすく小さいほうが、力もいらないし、早く書けるし、楽なので、楽なほうにしか流れてゆかない。

その怠けもの加減が、なんというか、もう、自分を見ているようで、この子どもは、ひとりで生活するということができるのだろうか、インディペンデント(独立)は可能だろうか。考えてしまうのだが、いや、私にしたって、家族がいなかったら、生活そのものを、怠けられるだけ怠けて、食べることさえ面倒で、ぎりぎりまで省略してしまうような人間なので、
なんかもう、鏡のような息子である。

「生活が大事」と息子に言いながら、15歳の私が、同じことを言われて、はいそうですねと納得したかと考えたら、してないだろうなと思うし。

あれこれ見かねたパパが、息子に長い説教をするが、右から左だろうなあ、と私は思う。でも、とても大切なことを言うこともある。

発達障害のいいところは、嘘をつかないところだ。世の中は信用、信頼で成り立っているから、嘘をつかなければ、なんとか世の中に居場所はある。だが、発達障害が嘘をついたら、居場所どころか、自分が壊れるぞ」

然り。他人の文脈に従って、自分の言葉かどうかもわからない言葉を言わなければならなくなったら、壊れていく。その罠に陥りやすいのは、自分の気持ちというものを、自分でうまく把握できないから、そして自分の文脈が、とても孤独だから。


きみの嘘は。
叱られるのが面倒くさいとか、そういうことなんだよな。怠けているのを叱られたくないとか、やりなおしを怠けたいとかでつく嘘で、なさけなくなるけど。
それでも、大事なことの記憶は、利害や私情を交えずに正確に表現できる公正さは、子どもながらにさすがで、感心する。


どれほど言い聞かせても、入っていかないということはある。あらかじめ想像して身を処すということが難しいし、失敗しないとわからないことが、たくさんある。なので、とにかくきみは、芯の強い人間に育つしかない、と思うよ。