ままごと

連休は長すぎた。
息子は、「学校にいきたくないわけじゃないけど、ずっとひきこもっていたいよ」と言いながら、行ったけど。
私はパスポートが切れているので、申請に行ったり、土曜参観とか進路のなんとかで、学校に行ったり、あとはとにかく天気がいいので、昼間は畑。
イチゴ、4個8個7個、ときて、昨日23個、今日37個。楽しい季節になった。

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5月の弁当は、畑のおかげさま。ちしゃが育ち、ラデッシュとイチゴも採れて、パセリは去年の種から勝手に生えているし、アスパラガスとかニンニクの芽とか。
ハハコグサの天ぷらも投入してみたら食べていた。

地面からあれこれちぎっては、弁当箱に入れるという作業は、あれですね、遠い昔のおままごとみたい。
毎日完食。弁当箱にはイチゴのへたしか残ってない。

アイたちの学校

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連休明け、上映の最終日にやっと行けた。

監督の高さんは、7年前にパアラランに来てくださいました。ところがところが、その時、連日の台風で学校休み、一週間ずっと休み……いまは思い出して笑えますが、あのときは、せっかく来てもらったのに子どもたちの撮影ができない、申し訳ない気持ちでいっぱい、天気は私のせいじゃないけど、いまでも、ごめんなさいを言いたいわ。
でも高さんはあきらめず、私たちは、無料で、パアラランの紹介ビデオつくってもらったのでした。その節は本当にありがとうございました。

映画、見ることができてよかったです。高さんらしい誠実な画面のつくりかただなと思いました。学校に愛情が息づいていること、守りたい可憐な何かがたしかにあることに、共感するところから、考えはじめたいし、そのような場を開くための映画なのだなと思います。機会あればぜひ。
釜山の映画祭でも上映されるそうで、高さんと映画の活躍、たいへんうれしいです。

 

 

連休の終わり

どこにも行けない何にもできない連休だったので、絵を描いた。
なんか物足りないけど、「これでいい、へんなことして台無しにしないでほしい」とモデルが言うので、こんなところで。
絵の終わりってわかんない。連休が終わるので終わることにする。

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終わりって、そんなふうかもなあ。永遠の未完成といえばかっこいいが、きっと、とても中途半端に、わりとぶざまに終わるしかできない人生でしょう。
パレットに残った絵具の片づけがてらにもう一枚。
息子3歳か4歳くらいのときの落書きが出てきたのが楽しかったので、写してみた。
「この子かわいいよね」と言ったら「ええっー!?」と息子は言った。
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連休最後の夜、宿題終わったの? 明日から学校だけど、時間割は? とか、高校生相手に声かけしなければいけないわけだ。勉強してるふりしながら、野球中継聴いてたり、ゲームやってたり、電車の動画眺めてたりするよねえ、もともとかわいい子だったことを忘れないために描いたんだよっ。

畑のイチゴ、季節最初の4個収穫。

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気づけば5月

気づけば5月。連休はぎっくり腰とともにはじまった。ぎっくり腰とともに終わるだろう。昨日までおうちでじっとしていました。2日ほど雨降ったけれども、昨日今日いい天気で。
テレビも見ないから、忘れてしまいそうだったけれど、令和になったんですね。

昭和が終わるときに、寒くて雨ばかりだった記憶なんだけれども、あれは冬だったからかな。
山中智恵子の短歌の印象が、記憶に滑り込んでいるかもしれない。

  雨師(うし)として祀り棄てなむ葬り日のすめらみことに氷雨降りたり
                   「夢之記」

とにかく30年は過ぎたのだ。あの氷雨のなかから、もう一度やりなおせるならいいなと思うけど、そんなことはできない相談だし、いろいろ悔しみもあるけど、子どもが生まれてからの後半15年間は、文句なく楽しかった。まあ上出来でしょう。

ひきこもってる間に、庭の都忘れが咲いた。すずらんやつつじも。

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連休、帰省もしないでいたら、義父母さんが遊びにきた。一緒にお寿司を食べに行く。それからケーキを食べに行く。買い物をして帰る。息子はお小遣いをもらう。ピアノを弾く。
という午後でしたが、途中で、おじいちゃんおばあちゃんがいないときに、息子が「疲れたよ」とぼやいた。「ここにいる5人、みんなコミュ障でしょう。ぼくはもうどうすればいいか」と言うのだった。気持ちはわかる。たしかにたしかに。
するとパパが言った。「コミュ障でない人間なんかいるのか?」
そこまで開き直るか、と思ったが、それもその通りだと、笑った。

つまり、きみが感じているのはこういうことだよね、ママとぼくとふたりなら、共鳴できるところをあわせてうまくやれる。パパとふたりでもうまくやれる。3人になると、ときどきどっかがはずれるけど、それは慣れてるし、それでもめんどくさいけど、
そこにさらに、うまくいっているような、ぎくしゃくしているような、2人が加わると、なんだかもう、わけがわからない、どこにあわせてもどこかがずれる、ずれながら一緒にいるのがたいへんだと、きみは言いたい。
そうそう、とうなずく。

でも、息子は、黙って食べてるだけなんだよね、でも、おじいちゃんのおばあちゃんの関心の的は孫なので、快くちょうどよい感じに、孫の話題を提供しなければならない役回りの私のほうが、大変だと思うんだけど、
まあ、でも、適当なもんですよ。
大人たち4人が、このすばらしいぎくしゃくを耐えられるのは、ひとえに、きみへの愛情を、共有しているから、なんですけどね。

おかげで、すこしだけ連休らしかった。

ぎっくり腰、日に日に楽になっていく感じがよい。もう、短い時間なら普通に歩けるし、畑の水やりもした。ラディッシュ実った。いちごは、明日かあさってあたり、最初のが食べられるだろう。

雨の連休

雨。向かいの森の新緑がきれいだ。もう藤の花が咲いている。
畑も、雨でいっせいに緑が増している。レタスが育ち、ミニトマトが花をつけ、枝豆も芽を出した。いちばん元気なのは、雑草だが。
台所のすみで芽を出していたジャガイモを埋めてくる。

こんなに長いのに、どこにも行かない連休。
息子が友だちに借りてきているラノベを、取り上げて読んでいる。なるほど、こういう話かー。こういう作り方かー。どっかで読んだような話だなと、たちまち飽きた。
少年少女の物語は好きなんだけど。
14歳や15歳のころに読んだ本は忘れがたい。コクトーの「恐るべき子どもたち」もデュ・ガールの「チボー家の人々」も。リルケもヘッセも。
いい年ごろだよね。本読まないのはもったいないよね。
ラノベもいいけど。食い足りなくないか?
と思って「罪と罰」勧めたんだが、しんどくてめんどくさくて、かんべんしてほしいらしい。えー、最高だよ、と思わず読み聞かせなんかしてしまったが、
いや、読み聞かせするには長すぎる…。
ま、自分の好きな本は自分で見つけるべきだよね。

お隣から蕨もらって、つづいて筍もらって、せっせとあく抜き、瓶詰、冷凍した。
昔わたしは、霞を食べて生きていける人になりたいと思っていた。十代後半ころ。わりと本気で思っていた。漢文に出てくる誰だっけ、山菜ばかり食べて死んだ義人の話もあることだし。よく摂食障害にならなかったことだ。(いや、寸前だったかもしれないが)。
山菜を食べる、は霞を食べるに、やや近い、ような気がして楽しい。
蕨と筍、炊き合わせた。

 

新緑

一雨ごとに季節が移る。
朝、庭に出たら、向かいの森の新緑と、庭のチューリップが鮮やかだ。

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昨日は雨のなか、授業参観。受付でクラス名簿に〇をつけたとき、そういえば今年は、クラス通信にも、クラスの生徒たちの名前がなかったと思う。つまり、クラスの生徒たちの名前を知らないのだ。私はもちろん、息子も。そしてこの「息子も」というところが問題なのである。
で、名簿をもらえないか、そこにいた先生にきいてみる。それは担任に聞いてみないと、と探しに行ってくださるが、担任はいなかった、ので伝言だけ託した。

息子は(それから私も)人の名前と顔を覚えるのが苦手みたいなのだ。自分には自分があたりまえなので、私はずっと苦手に気づかずに過ごしてきていたわけだけど、息子が小学生になって、クラスの子たちに叩かれたり、バカとか死ねとか言われて帰ってきて、誰にされたの? ときいても「わからない」というのは困った。
そこでクラス名簿をみながら、番号と名前と、日ごろの教室でのエピソードとを結びつけて、あれこれあだ名もつけて、クラスメートの名前と顔を覚えるように意識させた。それでも、かたくなに、名前を呼ばず、番号でだけ呼んでいた低学年のころ、息子をいじめて、番号でいいつけられた女子たちが、自分たちを番号で呼んだということを理由にまたいじめたりしてたけど。
そういったことに対応するために、クラス名簿は必須だったのだが。
去年まではクラス通信で、名簿もらってたんだけどな、だいたい6年間一緒ですでに4年目なら、学年の生徒数も少ないし、生徒たちは誰が誰だかよくわかっているから、必要ない、という判断なのかもしれないんだけど。
もう高校生だし、いじめがあるような環境でもないし、私が心配することでもないんだけど。
息子も、そのうち、たぶん1年一緒に過ごしているうちには、クラスの3分の2を占める女子たちの顔も名前もはっきりわかってくると思うし。
で、教室に行って、よくわかった。女子は人数が多い上に、髪型とか眼鏡とか、雰囲気とか、よく似ている。なるほどこれはハードルが高い。しかも、女子の名前はややこしい。難しいと思うよ。

人の名前と顔を覚えるのが難しいのは、視覚過敏に由来する。でもそういうことは、最近まで全然わからなかったから、私は長い間ずっと、自分が人としてどこか駄目なんだろうと、漠然と不安だった。
私は、クラスメイトの名前も顔もよくわからないままに、小学校から大学まで過ごしてきて、ごく親しかった人たち以外は誰が同じクラスにいたか、名前も顔もほとんど覚えていない。あるとき同窓会に行って、なぜみんながそんなに同級生たちのことを覚えているのか、とても不思議だった。
で。誰が誰か、全然わからない同級生ばかりの同窓会で、初めて見る名前、初めて見る顔みたいに思われる、誰か知らない人、を、なんとなく知っている人、なつかしい名前なつかしい顔、にこっそり落とし込む作業は、なかなかスリリングだったのだ。

でも、すこしの努力と少しの工夫でなんとかなることも多い。工夫が必要だと、気づければの話だが。

今日はお隣の奥さん(10歳ほど年上のお姉さん)から、蕨もらった。うれしすぎる。

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子どものころ、蕨摘みは春の日課だった。毎日毎日、卵とじ食べていた。
たぶん、私たちは似ているのだろうと、うすうす、お互い勘づきながら、言葉少なく、でもこころよく、隣人している。

 



 



紫のチューリップとソウルフード

紫のチューリップも咲いた。きれいだわ。

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ベルベットみたい。小さいころにこんな感じの服を着せられたとき、つやつやしている服が、さわると光の加減で、色が変わって見えるのが不思議で面白かった。


紫の、とくると「ガラスの仮面」の紫のバラの人を思い出すわけだけど、いきなり私は悟りました。この世では、誰かが誰かを応援している…。

兄から届いた応援物資のじゃこ天。私のソウルフードですね。ちくわとかまぼこも入ってた。大変ありがたく、息子の弁当に入れたり、つまみ食いしたり。
昨日今日は作ってみたいものがあって、作った。母が死んでからは食べたことがなかったけど。じゃこ天入りのカレーとかまぼこ入りのシチュー。
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昔、肉は高くて、じゃこ天はごく安かったので、母がつくるカレーには肉のかわりに、じゃこ天が入っていたのだった。
ああもう、じゃこ天最強。じゃこ天の味がするカレーだった。あの頃は貧乏人のカレーだったけど、もしかしたらいまは、高級食材入りのカレーということになるのかも。
シチューというものが、我が家にやってきたのは、小学校の高学年になってから。誰が持ち込んだものだろう。母がつくると肉の代わりにかまぼこが入っていた。
ピンクのかまぼこ入れたら、色がかわいかった。
いーや、なつかしかった。
母がいた台所を思い出した。タイルの流し台は窓に向いていて、母が窓から米を投げるから、毎朝雀がにぎやかだった。