ゴースト

新学期がはじまったと思ったら、一週間でまた休校になった。定期の払い戻しに行ってきた。休校中、息子の学校は宿題たくさん出してくれているが、たぶん宿題がなかったら、このひとは勉強しないんじゃないだろうか。
ごはんのつくりかたは教えたが、ほうっておくと、カップヌードルしか食べてない。食べたいものを自分でつくろうとか、宿題でなくても、この機会に、苦手なところを克服しようとか、何か主体性みたいなものはないものか。放っておくと、スマホみて半日終わる。小さな画面のなかは、電車が走っている。あとの半日は眠っている…。
情報科学……みたいな名前の部活は、息子には居心地がいいらしく、すなわち、ぼっちとひきこもりの巣窟らしく、なんだ、おれたちの生き方が正しいんじゃん、とラインで留飲下げていて、それはそれでよろしかろうというもんですけど。

気づけば桜も散ってしまった。一週間ほど前、スーパームーンというので夜中に表に出て、桜と月を見ていたら、向かいの森はがさがさ音がして、たぶん鹿だわ、と思っていると、キーンキーンと鳴いて、私の足音にひるむふうもない、最近は、昼間、見かけて目があっても逃げない、この鹿たちに勝てるとはとても思えない。いつもこの頃は、畑の草引きなんかしてたんだけど、もうしない。鹿たちがみんな食べちゃった。

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この春、私はぼつぼつ仕事。被爆体験の取材と原稿書き。
気づいたけど、被爆体験って、ひとつ聞くと、次の日は眠らないと回復しない。音源の確認と書き起こしがあると、それは2日かかって、その翌日はまた眠る。それから原稿書きがまた2日かかって、また1日眠って目覚めると、自分のなかのゴースト成分が増している気がする。被爆75年でお仕事増えた、増えると思っていたけど、もしかしたらコロナが全部さらっていってしまうかもしれない。

でもまあ、話を聞いてしまったら、それはどこかで、神様との契約になってしまっている気がするので、目の前の作業する。聞く方もしんどいが、話すほうもどれほどしんどいかと思うので、原稿に起こしながら、一緒にゴーストになりましょうねとひそかに思う。これはゴーストライター冥利に尽きる仕事なんですけれども、いずれ、あとわずかのこと。

河原で人を焼いていたという話、焼かれている死体が、動くらしい。それで本当はまだ生きてたんじゃないかとか、ざわめくんだけど、それは死体の筋肉の都合で、動くのだとか。

  人に語ることならねども混葬の火中にひらきゆきしてのひら

長崎で被爆した歌人・竹山広さんの短歌を思い出すけれども。語ることならねども、どころか、そもそもが、人間が体験していいことではないから。それを体験する、語る、聞く、黙って死ぬわけにもいかなかったのなら、もういっそゴーストになって永遠の旅をしよう。

不謹慎ながら、こないだ死んだ父も、焼却炉で焼かれているとき、動いたのかしらと想像したりした。




 

春は春

それはそれとして、春。
向かいの森の桜が満開。2階の窓からお花見。

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町内会長がやってきたのは、書類に確認の印鑑が必要とかの件で。町内会総会は中止。近所の一人暮らしのおばあさんが入院したと言う話が気になっていたんだけど、おばあさん、最近、あまりものを食べなくなっていて、栄養失調と言われていたらしい。圧迫骨折で家のなかで動けなくなっていたのを、近所の人たちが、窓を破って、なかに入って、救急車で運んだらしいのだが。台所はもう使われてなかったって。病院は身内以外はお見舞いに行けないので、状態がわからない。一人息子は関西にいるらしいんだけど。犬の散歩をしているのをよく見かけていたんだけど、犬はどうしたんでしょう、福ちゃんという犬、と聞いたら、犬はもうとっくに死んだよということなので、私はたぶん少し浦島太郎である。おじいさんが死んだあと、おばあさんには、福ちゃんが生きる仲間だった。

近所で、高校3年の男の子がいるお母さんに会った。進路が気になってたんだけど、東京の私大を落ちて、予備校に通いはじめた。高校の頃は部活ばかりしていたから、ようやく勉強をはじめたらしい。落ちてよかったとお母さん。この時期に東京に進学ということになってたら、とても大変だった。で、お互い手作りマスクのみせあいっこ。ゴムが売ってないとか、近所のおばさんはお茶のパックがマスクになるというので探しに行ったらしいけど、それもないとか、そんな話聞きながら、「足りぬ足りぬは工夫が足りぬ」というフレーズが頭をよぎり、これ何、戦時中だよね、みたいな。

私も、いまあるマスクは、息子が使うので、自分の分のマスク、作り足す。ゴムは髪くくるやつ。ミシン糸がなくなったので、買いに行かなければ。

7日から、学校は再開するらしい。朝のバスは殺人的に混むので、息子は、休みを延長すべきだと主張している。授業開始時刻を学年ごとにずらしてほしいとか。始まるなら、定期を買わねばならない。学校あるのも不安だが、学校ないのも不安。とてもとてもだらだらした生活をしているので、明日死ぬとしたら今日何するかを考えて生きなさいねと言おうとして、やめたのは、そんなの、電車に乗るか撮るか、模型で遊ぶかするに決まっているからだ。明日死ぬとして、今日勉強はせん。

2月3月、いまも、あれこれと慌ただしくて、父が死んだのもあるけど、急ぐ仕事もあって、畑ほったらかしだったんだけど、行ってみたら、見事に鹿の食卓になっていた。食い尽くされて何にもない。ニンニクが残っているだけ。10年楽しんだいちご畑も終了。向かいの森にあらわれて、目があっても逃げもしない鹿たちに、勝てるとも思えないので。お隣はがんばって、いっそうがんじょうに網をはりめぐらしている。玉ねぎもらった。

チューリップも全滅。庭に植えていた1つだけ咲いた。

それでも、春は春。

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ディーゼルしんかんせん

21日土曜日は、予土線を走る汽車を追いかけて遊ぶ。
松野あたりで、線路沿いで、汽車が来るのを待っていると、来た。

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トロッコ列車と新幹線とかっぱうようよ号。

写真、息子はなんかもっとこだわって、花と汽車と撮ってたな。そんで、もう菜の花はいい、と旅を終えて言ったのだった。
この日は菜の花ばかり見て、ディーゼル車の音ばかり聞いた。
芝不器男記念館も行った。私はここに来たかったの。おひなさま飾ってありました。

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道の駅でごはん食べて、江川崎まで行く。その近くの道の駅では、鉄道ジオラマがあって、息子がずっとそれを眺めていた。小さいころと何にも変わんないなと思う。飽きるまで眺めていた。アイスクリーム食べた。
私の悔いは、鹿肉のソーセージを買いそびれたことだ。あとで、と思って忘れた。

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江川崎の駅でしばらく遊んだ。父と一緒に来たのは、5年前かな。両手をひろげて、やじろべえみたいにゆれながら、レールの上を歩いたりしていた、子どもじみた、かわいらしい後ろ姿を見たのを思い出すわ。

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川に降りて、新幹線を待ってると、新幹線が来た。おもちゃみたいよね。しんかんせーん。
新幹線待ってる間に、クレソン見つけて摘んだ。菜の花とつくしも別の場所ですでに摘んでいて、つくしの袴も取っていたので、晩ごはんは、父の家(兄がしばらく借りている)で何かつくることにした。
帰って、兄に連絡して、一緒にスーパーに行った。カツオのたたき、のほかに、ふかの湯ざらし、丸ずし(おからのすし)も買った。なつかしいなつかしい。菜の花おひたし、つくしは卵とじ、クレソンはマヨネーズ炒め。
もうすぐに床がぬけてしまいそうな、古い家で、みんなで適当に晩ごはん。

   ふるさとや石垣羊歯に春の月  芝不器男

 

春にこっちに帰るのははじめてだよと息子が言う。いや、はじめてじゃなくて、赤ちゃんのときに一度、春に帰っているんだけどね。そのあとはいつも夏の帰省だったけれど、春にも、もっと連れて帰ってあげられればよかった。

こんなに歳月がはやいなんて。


22日、日曜日。広島に帰る。春の旅の終わり。

 

 

 

 

 

 

 

遺跡めぐり

くる日もくる日も、耳に入ってくるのは新型コロナウィルスのニュースで、ほんの10日ほど前のことを書こうと思うのが、ずいぶん前のことのように思えるけれど、今朝、兄から電話があったのは、愛媛で集団感染があったという話だった。葬儀での集団感染らしく、まあね、田舎で人が集まるって、葬儀だわ。

で、父の納骨終えて帰省して、のつづきの3月20日。朝から、父が住んでいた家のまわりの草引き。息子は、眠い、と寝ていた。なんにもしなかった。私と兄はよく働いた。すみっこに、桜草が咲いていた。

昔、母が、庭先にこの花を並べていたことを思い出すわ。あちらこちらの庭先で咲いていて、この季節がほんとに好きだと思う。辻邦夫の「春の戴冠」という本のなかで、フィレンツェで、ボッティチェリメディチ家のロレンツォが、永遠の桜草の話をしていて、15歳の夏休み、どきどきしながらその場面を読んだことを、いまでも思い出す。
私には私の、永遠の春が、あると思う。

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途中で、兄と買い物にいったついでに、子どもの頃に住んでいたあたりに寄った。するともうそこは、全然ちがっていて、40年前にあったボロ屋などとうになく、新しい家が建っていたが、隣にあった寺は、当時は住職もいたんだけど、みごとな廃墟。毎日眺めていた、お寺の楠を私は見たかったんだけど、それが伐採されていたのが、ショックだった。
私の秘密基地があった、裏山は、登り口がコンクリートになっていた。コンクリートの上まで階段をのぼると、どの木の枝をもって、どこに足をかけて、この斜面をのぼったかというのが、ふいにありありと思い出されて、自分ながら驚いた。そのまま登っていきたい気がしたけれど、兄を待たせていたので、思いとどまった。

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きれいな新しい家々と、舗装しなおされた道と、滅んだ寺と見ていたら、私たちはもう、別の時代の人間なんだなと、思ったなあ。春の昼下がり、幽霊みたいにそこにいた。

午後、兄と別れて、私たちはお城山に登ったり、天赦園に行ったり。
お城の壁、昭和の補修で父たちが塗りなおした壁の一部は、1月の大風で剥がれ落ちたまま。昭和20年の空襲のときに、家を焼かれて、この山に逃げてきて、ふもとの火事を弟たちと見ていたという話を、以前、父がしていたなあとか、思い出した。
このお城山から見る町のながめが好きだった。ここにいたいけど、出ていくしかないよね、と高校を卒業する頃、友だちとここで話したのだ。そのあと、一度も再会してない。どこにいるかもわからない。歳月って、容赦ない。桜ちらほら。

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天赦園には、息子が小6のときにも来た。池の鯉にえさをやると、その食いつきっぷりがすごいので、キャーキャー飛び跳ねて喜んでいたが、高校1年のいまも、やっぱりやりたい鯉の餌やり。ここの鯉、おもしろい。勢いで胴上げされてる鯉もいる。鯉は変わらないが、でも人間の子のほうは、もう飛び跳ねて喜んだりしない、にやっと笑うだけ。
ここの鯉のアトラクションは最高だが、ほかには、とくに何もないのだが、ぼんやり日向ぼっこして過ごす。遠くに、鬼が城連山。

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それから、海を見に行った。いつも、釣りをしていたところに行くと、いろんなゴミとか積んであった空地が、何にもなくなっているのは、大風がさらっていったんだろうな。天気がよくて、海が青くて、風が吹いて、気持ちがよかった。

ここで去年の夏に、父や叔父と一緒に釣りをしたのが、最後。

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あんなに釣りの好きだった叔父も、もう全然釣りをしないらしい。夜、会ったら、手に湿布を貼っていて、しきりにさするので、聞いたら、リューマチだって。
夜、兄とふたりの叔父と私たちと、焼き肉。店の支払いは、ここで働いた兄のバイト料からだなあ。ありがたく、食べた食べた。

そのあと、友だちに会った。マスクがないの話から、地元の人口減少の話から、これから大変よ、私たち、生老病死の、老病死がおしよせてくるよ、みたいな話。
友だち、翌朝、わざわざホテルまで、畑で採ったばかりのキャベツ、レタス、玉ねぎを届けてくれた。ありがたく。

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これは父が遺した遺跡だな。公園の大きなすべりだい。3歳か4歳くらいの私が、このあたりから、働いている父を見ていたはずなのだが、覚えていない。


 

 

 

 

 

菜の花の丘を越えて

地理が苦手だった。加えて、好奇心よりは気後れの強い子どもであったから、家と学校を行き来するより外の地域については、何にも知らないまま、郷里を離れた。
犬寄峠なんて、名前も知らなかったわ。
19日、朝ごはんを食べて高松のホテルを出て、宇和島まで帰ることに。息子はパパの車、私は兄の車、ふたりずつ乗って。高速が通って、子どもの頃から考えたら、信じられないほど近くなった。松山を過ぎたあたりで高速を降りて、菜の花の丘を見て、海に出よう、という予定で、犬寄峠を越える。

兄が安く買ったというナビは、前日、がたがた山道の真ん中で止まるという、とんでもない冒険をさせてくれたので、この日はスマホをもってる息子にナビをさせたら、これが。
旧道の狭い険しい道を走る。登り切ったあたりで、別の楽な道があったと気づいたわけだが、犬寄峠、佐礼谷の黄色い丘は、菜の花満開で、すばらしかった。ここには、海を渡る蝶々もやってくるそうです。

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それからヘアピンカーブを下って、海のほうへ。下灘駅に行きたいわけだが、駅の手前で急停車。ちょうど菜の花の丘のところを、1時間に1本だか2時間に1本だかの汽車が通って、カメラにおさめた息子は、偶然の運の良さを喜んでいた。近くの下灘駅は海が見える駅だが、そこそこ有名になったので、平日のなんでもない日なのに、人と車とこみあっていた。

海沿いを気持ちのよいドライブ、のはずが、急に曇ってきて、肱川沿いを走るあたりで、大雨。その大雨のなかで、兄の、昔の恋の話を聞いた。相手はその近くの病院で看護師さんをしていた、若いかわいい女の子で、一緒にこのあたりの山にのぼったり、宇和島城にのぼったりもしたらしい。で、彼女は病院の寮にいたので、送ってくるときにこの道をよく走ったとか、そういう話なんだけど、それいつ頃のこと?と聞いていったら、まだ母が生きていて、私が高校生の頃で……と、

ちょっと待ってよ、それは、うちに、借金取りからひっきりなしに電話かかってきて、ヤクザ来て、母が玄関で頭下げてた頃?
私が受験生だったけど、勉強どころでないから、夜は7時ころから寝て、真夜中になって電話もヤクザも来ない時間になってから起きて、朝まで勉強してって、頃?

すると兄はなんと。「うそやろ? 借金取りきてたか? 取り立ての葉書は来てたかもしれんけど」などというのである。
信じらんない。毎晩毎晩、30分おきに借金取りの電話かかってきて、3日おきにヤクザ来て、家じゅう、あんたのせいで発狂しそうになってたのに、知らない? 

まあそうか、本人はそこにいないんだから、知らないか。
知らないだけでなくて、デートしてた。
私が大学行く行かないで、父と大喧嘩して、金なんか出していらないから行くから、とか言ってるときに、で、夜中に母に起こしてもらったらある夜、耐えられなくて突然泣き出してしまったら、母は、私の背中を撫ぜながら、「兄もつらいよ」って言ったのよ、なのに本人は、かわいい女の子とデート? お母さん泣かせて妹泣かせて、デート? 信じらんない。

「衝撃の事実やなあ」と兄。
こっちこそ、衝撃の事実ですよ。涙出てきたわ。

夕暮れの雨のなかで、肱川の河原の菜の花の黄色が、ぼうっと浮かんでいた。

夜中に受験勉強してたら、兄がこっそり帰ってきて、「おなかすいた。おむすびつくって」って、私にのんびりした声で言ってたのは、
借金取りから逃げていて、すこしは後ろめたくて、そんな時間に帰ってくるのかと思っていたら。……ほんとにのんびりしていたんだ。もしかしたらデートだったんだ。

「ゆるせんな。だれや、そのばかたれは」と兄。「悪かった、許してくれ。40年前や、時効にしてくれ」などと言う。

兄が記憶していたのは、私が自分の金で大学に行くといっているのだから、行かせてやればいいと、父に言ったことである。父はかたくなに反対していたので。
で、自分の金、であるが、当時国公立はそんなに高くなかった。私は、入学金と半年分の授業料と、受験に行く旅費ぐらいは貯めていた。

それはもともと、私が中学生の頃から、兄が毎月私にくれていた小遣いをためていたもので、当時の中高生としては、私はたくさんもらっていたのだ。兄が賭け事で、サラ金(と当時言っていた)に手を出して、わが家が非道な取り立てに見舞われるまでは。
父を相手に金出していらないのタンカを切れたのは、その小遣いのおかげではあったから、
「功罪あわせてチャラや、時効や」
という話を終えて、宇和島に帰ったころには、雨があがっていた。

笑うしかないな。ああ、もう。昔からだけど、兄に対して、何かしら共犯者のような感覚になる自分が、不思議だわ。晩御飯の鯛めし、おごってもらう。宇和島にいる間のごはん、全部おごってもらう。

 

 

 

 

納骨と温泉と

父の葬儀を終えて、帰ってきたら、コロナ対策で学校は休みになり、学年末試験も流れて、息子は大喜び。ああもう、物理をやらなくていいんだ、とか、提出が4月なら、なんで通夜の後までノート開いて数学の問題解いていたんだ、とか言っていたが、そのあとすかさず、春休みの宿題がひとやまやってきたから、そんなに退屈もしなさそうだった。楽しくもなさそうだが。

それなら、ごはん作ってもらおうと、声をかけたら、いやがることもなく、いわれるままに、玉ねぎを炒めたりキャベツを刻んだりしていたが、一週間ほどで飽きたらしい。自分から積極的に料理しようなどとは思わないらしく、最大の発見は、母は、非常に簡単な料理7種類くらいで、毎日の食卓をまわしているということだった、らしい。
そうそう、簡単なことしかしてないよ。
簡単なことしかしてないが、息子を台所に立たせると、なんでもないようなことが、なんでこんなに難しいかと、それは私の発見。どうして包丁をもつ手首が、そんなに無駄にぐらぐらゆれるの。なんで、玉ねぎ切ってる間に、まないたが、どんどん向こうにずれていくの。
まあ、面白い。
おやつにたこ焼きも作って食べた。

春休みに納骨しようという話にしてたが、少し早くすることにして、18日から四国に帰ることにした。早いほうがいいのだ。今なら、父の残してくれたへそくりがあって、病院の支払いと納骨できるし、納骨のときに温泉旅行もできるはず。でもしばらくしたら、兄の手のなかで露のように消えるだろうから、いまのうちいまのうち。

……と思った私の判断は正しかった。

父はずいぶん前に、墓を高松のほうに移していて、いまは不思議なことに、弟がその近くに住んで、しょっちゅう墓参りに来ているらしい。石鎚SAで兄と待ち合わせ、墓園で弟と待ち合わせすることにして、18日早朝、パパと息子と私は広島を出発。いい天気で、しまなみ海道を渡るのは楽しかった。あちらこちら山桜咲いていた。

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午後、墓園で合流。手続き済ませて、最後に父の骨を見たのは私だ。墓をあけたら、すでに名簿では七人くらい、骨壺は5つくらいある、上の段はぎゅうぎゅう。弟が、骨壺の場所を、あれはこっち、これはこっち、親父とおふくろは並べて、と指示しているのが、なんかかわいらしかった。
祖父母と両親と、若くて死んだので私は知らないおじたちがいて、もう墓のほうがにぎやかそうだ。
あと、のこっている叔父たちと兄と弟が加わったら、もう絶対混沌、混沌、笑ってしまう、そっちが面白そうでいいけどな、また一緒に、釣りして花札して遊びたいけどな。遊びたいけどな。
でも、私はそっちに行かないんだろうな、
……でも、どこに行くんだろう。

兄と和解した弟は、そもそも人なつっこいやつだから、またなついてくるだろう。母が死んだあと、母の兄たちと父との関係は途絶えていたが、弟だけは、なぜか顔を出していたらしく、父が死んだことも、弟が吹聴してまわっていたとわかって、笑ってしまう。とはいえコロナ騒ぎだし、父の家の電話も止めたら連絡しようもないので、不義理を責められることもあるまいよ。

早いもん勝ちやな、と兄は言いながら、残った叔父たちの間を行き来している。

その夜は、レオマの森とかいう、温泉ホテルに泊まる。兄が、温泉と夕食朝食つき、というもんで。息子は、琴電に乗るか撮るかしたいというもんで。線路が近くにあるところ。
んで、案内の弟の車のあとをついていく。途中でうどん食べてホテルへ。息子と弟は、それから琴電を撮りに行った。

そういえば、パパと私の弟は初対面なのだった。どうよ、シンとリクは似てるでしょ。全然似てないけど、でも似てるでしょ。

弟は泊まらないが、飯ぐらい食わせてやろうよとチケット代余分に払う。お風呂もどうぞと言われたが、お風呂は……無理だな。
バイキングはカニが食べ放題ということだったので、ここにしたのだ。息子はエビを食べないので、彼はエビやカニは嫌いらしいと、以前私が言ったら、カニは食わせてもらったことがないと抗議しやがった。で、さあ食え、食べ放題だ、と皿をとってやった。
……で、生まれてはじめてかもしれないカニを、不器用にハサミを使いながら食べた息子が言うには、「カニカマのほうがいい」「面倒くさくないし」だってさ。
でも、昔、子どものころに、おいしいなと思って、夢中で食べたようなカニではなかったよね、たしかにね。

翌朝、早朝から起き出した息子は、今度は、兄に運転させて、琴電を撮りに行ったらしかった。面倒くさいので、私たちは朝食の時間までは知らんぷりで寝た。

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窓の下のテーマパークはコロナで休止とか。

風が吹いて

1月27日、宇和島にかつて経験したことがないほどの、突風が吹き荒れた。上の叔父の家の納屋は崩壊したし、父の家の周辺も、そこらじゅういろんなものが散らばったらしい。お城山の管理や観光案内をしている下の叔父は、お城の木が倒れたところに遭遇、小枝で頭を叩かれただけですんだが、あと数秒よけるのが遅れたら下敷きだった。
26本だか、倒木したらしい。こんなにひどい風なのになぜ門を閉めないんだと、市に電話したら、でも警報が出てないので、と困惑していたが、とにかく客を山から降ろした、とか。
その風のことを、忘れないと思う。その翌日、父が入院した。

手術のあと、「先生、わしは1週間ほど死んどったような気がする」と言ったらしい。死ぬ数日前には、兄が帰るときに「おまえが帰るということは、わしは死ぬということかあ」と言ったりしたらしい。
祖母が死ぬときに「わしはあと3日で死ぬらい」(らい、は未来推量か)と言って3日後に死んだらしいから、わかるのだろうな。

葬儀のあと、仕事があるので帰るという弟を送りがてら、兄と弟と私と息子で、和霊公園に散歩に行った。
すると立ち入り禁止。ここも、突風で大木が何本も倒れたのだ。信じられないような大木が根もとから倒れていた。
公園の遊具も撤去されていた。それらの遊具は、もう50年以上前、若かった父が、市の仕事を請け負ってつくったもの。管理のおじいさんが言うには、もう古くて壊れてもいたので、この機会に撤去したのらしい。
公園の遊具も、父さんと一緒に風にさらわれていった。いままでよく残ってたなって話だが。
一陣の風が吹いて、世界が変わってしまったのだ。父がいた世界から、いない世界へ。

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ただ、父がセメントでつくったゲレンデ状の大きな滑り台だけはまだ残っていて、子どもたちが滑りたがるので、そこは立ち入りできるようにしたらしく、小さい子たちが遊んでいた。たぶん、宇和島じゅうの子どもが遠足に一度は来る公園なので、誰もが一度はすべる滑り台。こわがって滑らなかったのは娘の私だが。

半世紀以上もこんなに愛される遊具をつくったことは、きっとあの世でも自慢していい。公園のまわりの、木の柱をかたどったセメントの柱も父がつくった。せいぜいここにきて、父を偲ぶことにしよう。子どもなので、その作品に、父の性質とか癖とかがにじんでいるのを、なんとなく感じるのだった。好きでもあり嫌いでもあり、だったけど。

去り際はとにかくあざやかで、仙人かしらという感じだったので、お父さん上手に死んだねえと、お父さんと話したいなあと思った。そのお父さんがいないというのが、死んだという意味なんだけど。

 

兄と弟(このふたり、通夜のあとに、けんかの続きのような和解をしていた。私も知らなかった弟の、過去と現在のトラブルいくつか発覚するが、そのネジのはずれっぷりは理解を超える。もう生きてるだけでえらいと思うよ)、私と息子で、鯛めし食べに行く。

 

葬儀の翌日、息子はひとりで広島に帰る。はじめてのひとり旅。アンパンマン列車で朝10時前に出発。夜7時に帰宅というから、遠いねえ。
息子を帰したあと、兄と私は、支払いほか、種々の用事を片付けて、父の家の近く、親しかった人たちのところに挨拶にまわる。お見舞いに行ったけど、親族以外の見舞いはできないと言われて、病棟に入れてもらえなかったのよ、と聞く。

コロナのせい。

お通夜のあとに、下の叔父から、「クルーズ船から降りてきた人のなかに、この町の人がふたりいて、検査の結果も出ないうちから、飲み屋に行ったりカラオケに行ったりしているから、気いつけえよ、と知り合いの飲み屋から電話がかかってきたから、気いつけえよ」という電話がかかってきていた。

木がたくさん倒れたというお城に兄と登った。あちこち立ち入り禁止。カンザクラが咲いていた。それも半世紀近く前だろう、このお城の壁の塗り替えも、父と上の叔父の仕事のひとつだった。

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上の叔父を誘って、温泉に行く。食堂で、さつま汁を食べたかったが、ないので、しらす丼食べる。(さつま汁は別の日に別の店で食べた)
男湯の客の噂話で、クルーズ船から降りてきたのは、どこそこの島の人らしい、いまのところ陰性らしいけどな、と聞いた、とか。

それから数日後、クルーズ船とは別の、隣町の女性の感染が、ニュースになるんだが。

 

私たちには、偏屈なところもあった父だが、地域では、穏やかないいおじいさんだったらしい。近所のおじいさんが、死んだと聞いて、うそやろー、と叫んだとか、大家のおばさんが泣きだしたとか。近くの空き家空き地の草引きをせっせとしていたことを、近くの人たちが口々に言ってくれるとか。

家のなか、すっかり何にもなくなっていたが、もしも私が泥棒だったら、ほんとにうれしいだろうと思ったのだが、引き出しの底に父が隠していたお金を見つけた。兄が通帳あれこれの探し物をしたときは気づかなかったのに。
黙って持って帰ろうかと思ったけど、さすがに良心がとがめるので、兄と山分け。病院の支払いもあるし。こんなお金残すなら、もうすこしましなところに住めばよかろうもんを、とか、父さんらしい、とか、話したことだった。

ありがたいお父さんでした。本当に風とともに去ってゆかれました。

金曜日、兄が松山まで送ってくれる。途中で通りがかった梅津寺パークが変わっていて、みかんパークみたいな建物あって、そこでは、蛇口からミカンジュースが出てきました。お金払うけどね。おいしかったよ。

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