菜の花の丘を越えて

地理が苦手だった。加えて、好奇心よりは気後れの強い子どもであったから、家と学校を行き来するより外の地域については、何にも知らないまま、郷里を離れた。
犬寄峠なんて、名前も知らなかったわ。
19日、朝ごはんを食べて高松のホテルを出て、宇和島まで帰ることに。息子はパパの車、私は兄の車、ふたりずつ乗って。高速が通って、子どもの頃から考えたら、信じられないほど近くなった。松山を過ぎたあたりで高速を降りて、菜の花の丘を見て、海に出よう、という予定で、犬寄峠を越える。

兄が安く買ったというナビは、前日、がたがた山道の真ん中で止まるという、とんでもない冒険をさせてくれたので、この日はスマホをもってる息子にナビをさせたら、これが。
旧道の狭い険しい道を走る。登り切ったあたりで、別の楽な道があったと気づいたわけだが、犬寄峠、佐礼谷の黄色い丘は、菜の花満開で、すばらしかった。ここには、海を渡る蝶々もやってくるそうです。

f:id:kazumi_nogi:20200328144653j:plain f:id:kazumi_nogi:20200328145557j:plain

それからヘアピンカーブを下って、海のほうへ。下灘駅に行きたいわけだが、駅の手前で急停車。ちょうど菜の花の丘のところを、1時間に1本だか2時間に1本だかの汽車が通って、カメラにおさめた息子は、偶然の運の良さを喜んでいた。近くの下灘駅は海が見える駅だが、そこそこ有名になったので、平日のなんでもない日なのに、人と車とこみあっていた。

海沿いを気持ちのよいドライブ、のはずが、急に曇ってきて、肱川沿いを走るあたりで、大雨。その大雨のなかで、兄の、昔の恋の話を聞いた。相手はその近くの病院で看護師さんをしていた、若いかわいい女の子で、一緒にこのあたりの山にのぼったり、宇和島城にのぼったりもしたらしい。で、彼女は病院の寮にいたので、送ってくるときにこの道をよく走ったとか、そういう話なんだけど、それいつ頃のこと?と聞いていったら、まだ母が生きていて、私が高校生の頃で……と、

ちょっと待ってよ、それは、うちに、借金取りからひっきりなしに電話かかってきて、ヤクザ来て、母が玄関で頭下げてた頃?
私が受験生だったけど、勉強どころでないから、夜は7時ころから寝て、真夜中になって電話もヤクザも来ない時間になってから起きて、朝まで勉強してって、頃?

すると兄はなんと。「うそやろ? 借金取りきてたか? 取り立ての葉書は来てたかもしれんけど」などというのである。
信じらんない。毎晩毎晩、30分おきに借金取りの電話かかってきて、3日おきにヤクザ来て、家じゅう、あんたのせいで発狂しそうになってたのに、知らない? 

まあそうか、本人はそこにいないんだから、知らないか。
知らないだけでなくて、デートしてた。
私が大学行く行かないで、父と大喧嘩して、金なんか出していらないから行くから、とか言ってるときに、で、夜中に母に起こしてもらったらある夜、耐えられなくて突然泣き出してしまったら、母は、私の背中を撫ぜながら、「兄もつらいよ」って言ったのよ、なのに本人は、かわいい女の子とデート? お母さん泣かせて妹泣かせて、デート? 信じらんない。

「衝撃の事実やなあ」と兄。
こっちこそ、衝撃の事実ですよ。涙出てきたわ。

夕暮れの雨のなかで、肱川の河原の菜の花の黄色が、ぼうっと浮かんでいた。

夜中に受験勉強してたら、兄がこっそり帰ってきて、「おなかすいた。おむすびつくって」って、私にのんびりした声で言ってたのは、
借金取りから逃げていて、すこしは後ろめたくて、そんな時間に帰ってくるのかと思っていたら。……ほんとにのんびりしていたんだ。もしかしたらデートだったんだ。

「ゆるせんな。だれや、そのばかたれは」と兄。「悪かった、許してくれ。40年前や、時効にしてくれ」などと言う。

兄が記憶していたのは、私が自分の金で大学に行くといっているのだから、行かせてやればいいと、父に言ったことである。父はかたくなに反対していたので。
で、自分の金、であるが、当時国公立はそんなに高くなかった。私は、入学金と半年分の授業料と、受験に行く旅費ぐらいは貯めていた。

それはもともと、私が中学生の頃から、兄が毎月私にくれていた小遣いをためていたもので、当時の中高生としては、私はたくさんもらっていたのだ。兄が賭け事で、サラ金(と当時言っていた)に手を出して、わが家が非道な取り立てに見舞われるまでは。
父を相手に金出していらないのタンカを切れたのは、その小遣いのおかげではあったから、
「功罪あわせてチャラや、時効や」
という話を終えて、宇和島に帰ったころには、雨があがっていた。

笑うしかないな。ああ、もう。昔からだけど、兄に対して、何かしら共犯者のような感覚になる自分が、不思議だわ。晩御飯の鯛めし、おごってもらう。宇和島にいる間のごはん、全部おごってもらう。