髪を切る

 台風が近づいてくる、という雨。夜からずっと降っている。今日、義父母のところへ行く予定だったけれど、延期にする。
 
 昨日、子どもの髪を切った。じっとしてくれていたのは最初の数分だけ。首にまいたタオルも新聞紙も振り払って逃げ出してしまった。一番気にかかっていた耳もとの伸びた髪は切れたので、まあいいか。でも切り足りない気分なので、ついでに自分の髪も切った。ざくざく切った。「美容院に行けば?」と見かねた夫が言う。「行かない」と答える。どう切っても、髪はそのうち伸びてくるからいいのである。……しばらく、帽子を深くかぶって歩くことにしよう。
 
 小学校の低学年の頃は、弟と一緒に近所の散髪屋に行かされていた記憶がある。それから母が切ってくれるようになったのは、たぶん経済的な理由だった。中学校の入学式の前に、母に連れられて美容院に行ったけれど、その後、美容院というところへは、たぶん、片手で数えられるくらいしか行ったことがない。母が死んでからはずっと、自分で切っているけれど、さっぱり上手にはならない。
 にもかかわらず、学生の頃は、男の友人たちの髪を切っていた。みんなお金がなかったのだ。隣の部屋には、中国人留学生の周さんがいて、ときどき休みの日には留学生仲間が集まって、廊下で髪の切りあいっこをしていた。夜になって、周さんが、お願いがあります、とやってくる。もっと髪を切ってほしい。いいかげん短くなった髪にさらに鋏を入れて、ざくざくざくざく切った。それから周さんがつくってくれた晩御飯を食べた。ときどき周さんがつくってくれる料理はおいしかった。周さんのところには米も炊飯器もなく、私は炊飯器はもっていても米が買えなくて、ふたりで、すいとんのようなものばかり食べていた。
 フィリピンでは何度か美容院に行った。ゴミの山へ行く途中、ジプニーを降りたところに、ゲイのマニがやっていた美容院があって、近所の子どもたちも来るような小さな散髪屋で、安かった。「最新流行のヘアスタイルにしてあげる」といいながら切ってくれるのが、いつも後ろが刈り上げのおかっぱのワカメちゃんカットだったのがなつかしい。何年前だろう、マニが死んだ、と聞いた。まだ30代のはずだった。美容院もいつのまにかなくなっていた。
 
 桐の箱に、母の髪と私の髪が、ひとつまみずつ、紙にくるんで、収められている。中学のとき、母が私の髪を切ったとき、私が泣き出してしまったので(どうして泣いたのか思い出せないのだが)、そのあと、母が私に自分の髪を切らせてくれたのだ。(どうしてそれで泣きやんだのかもわからないのだが)。そのときの髪を、母が桐の箱にしまって、特別大事にしてきたつもりもないのに、今も私の手もとにある。あってもしょうがないのだが、捨てるに捨てられないものになってしまった。
 
 子どもの髪、最初の一年間は切らずにいて、散髪屋に連れていって、「赤ちゃんの筆」というのをつくってもらった。あのころは、切り落とした爪のかけらもいとおしかったのだ。使いようのない筆ではある。年とったときにつくづく眺めることにしよう。