空白の十年

  6日の夜だ、たまたまテレビをつけたら、沼田さんが出ていて、ああ、お元気なんだ、と、なんだかこみあげるようにうれしかった。もう84歳になっていらした。
 NHKの「空白の十年」という番組。広島の被爆後の10年間についての証言などを取材していた。沼田さんには5年前の秋に、平和公園でお会いした。修学旅行の小学生に語り部としてお話される席に同席させてもらったあと、しばらくお話を聞いた。被爆青桐のあたりを沼田さんの車椅子を押して歩いたことを、ふいに生々しく思い出したりした。
 
 きっと一期一会だけれど、鮮烈な印象だった。片足を失った被爆の苦しみ以上に、自分がどんなにいじわるな子どもだったかということを、心底くやしそうに、子どもたちに語っていたのが印象的だった。あの日、友だちにやさしくしなかった、その友だちは死んでしまった。
 
 原爆で片足を失った後、ずっと高校の先生をされていた、という。私の学生のころのバイト先の喫茶店のママが沼田先生の教え子で、ときどき、たぶん平和公園での集まりのあとなどに、店に訪れる沼田先生に(そのときはそうとは知らないけれど)水を運んだことを覚えている。もっとさかのぼれば、大学に入った最初の年に見た、アメリカから戻ってきた被爆後のフィルムのなかに、着物を着た女性が切断された片足を見せている映像があったのを覚えている。
 
 お会いして、私が大学でアジア史を習った小林先生と親しいと聞いて、そのことに背中を押されるみたいに、はじめて小林先生に手紙を書いた。
 沼田さんのことを「魂の美しい方と思いました」と書いたら、「沼田先生は私のもっとも尊敬するひろしまびとです」と返事がきた。
 その小林先生も去年の8月、亡くなった。
 
 あの秋の日、体験が哲学になるというのはこういうことか、と私は沼田さんに向かいあって、思っていたのだった。それはなんていえばいいか、非常に美しい哲学に触れているような印象だった。彼女といると、あれこれゆがんでいる自分の内面がすっきりと正されていくような感じがした。
 
 「空白の十年」、昔聞いた被爆体験のあれこれを、思い出した。幼児の頃に被爆した女性が、被爆後、「原爆傷害調査委員会」(ABCC)につれて行かれて検査されるのがとても嫌だった、と語っていた。それでも飴がもらえるから行ったけど、兄さんはモルモットにされるのはいやだといって、絶対に行かなかった。その兄さんは、青酸カリで自殺した。被爆したこと、在日朝鮮人であることの二重の苦しみの中にいたのだろう。
 中学や高校のころ、夕方、学校の帰りに川面に映る町の灯を見ながら、この人たち、何がおもしろうて生きているんだろう、と思っていた、と彼女は言った。昔、原爆スラムがあったあたりに住んでいた。
 
 何がおもしろうて生きているんだろう、という言葉は、あの頃、20歳の頃の私に切実だった。