2011年8月 パアララン・パンタオ 1

Img_1503    ☆新聞記事

2011年8月4日朝、広島空港から台北経由マニラに向かう。
飛行機のなかで読んだ毎日新聞に(地方版かな)亡くなった沼田鈴子先生の記事がある。

「沼田さんが原発の安全性に疑いの目を向けたのは、1986年4月に起きた旧ソ連チェルノブィリ原発事故だった。(略)異国の放射線被害者に心を痛めた沼田さんは、チェルノブィリ医療に携わる医師団に自らの体験を伝えている。
 被爆直後に生理でもないのに出血が続いた。79年には子宮と卵巣の摘出手術を受けた。原爆の後障害に苦しめられていた体験をはじめて明かし、若い女性は生理について話しづらいと思うので留意して欲しいと頼んだ。医師の一人からチェルノブィリでも同じ症例があったと聞くと、ちゃんと確認してくれていたと心の底から安堵していた。内部被ばくの怖さを知りつくしていた沼田さんらしい。」

被爆後の生理不順や異常な出血の話は、何人もの被爆者から私も聞いた。沼田先生もそうだったんだと、それは若い女性にとってどんなに不安なことだったろうと、あらためて思ったんだけど、数日後、ネットみていたら次のような記事を見つけたので貼っておきます。

http://blog.goo.ne.jp/nagaikenji20070927/e/f4adce1b6f515c142da087b6de864a88
たぶん、被爆後の広島やチェルノブィリで起こったと同じことが起きているんだろう。

記事はつづく。
「「核の平和利用」と鼓吹された原発で、放射線の被害者が出ている事実を、沼田さんは厳しく見据える。原発プルトニウムを生産するのだから、核兵器の原料を作る装置ではないかと考えるようになった。放射線の脅威は核兵器だけでなく、核エネルギーにも潜んでいると、被爆者の目は冷徹だった。
 旧ソ連大統領だったゴルバチョフ夫妻が92年4月に広島を訪問したとき、沼田さんは被爆者を代表して体験を述べた。このあとゴルバチョフ氏に語りかける。
チェルノブィリ原発事故による被害者の放射線後障害が広がっています。この実情を私ども被爆者は大変心配しています。このような恐ろしいことのなかで生きてゆく子どもたちの未来はどうなるのでしょう」」

記事は、福島の原発事故の後、沼田先生が、ショックで眠れなくなり心拍数が高まり、食事ができなくなり、急速に容体が悪化していった様子を伝えている。もしも原発事故が起きたらと、ずっと心配していた、その心配が現実になってしまったショックだった。


☆マニラ到着

台北からの飛行機のなかで見たニュースでは、台風で水浸しのマニラが映っていたが、からりと晴れたいい天気。
マニラ上空、飛行機の窓から、近くの湖とゴミの山が見えた。

ジュリアンが迎えに来てくれる。29歳。パアラランの最初の奨学生のひとりだった。
ジュリアンなら、きっと会ったら最初にそう言うと思っていたが、そう言った。「お腹はすいてないか。お昼は食べたか」
大丈夫。飛行機のなかで、2回も食べた。
彼が運転する車に乗るのははじめてだ。渋滞のなかを車はゆっくりすすむ。ジュリアンはもちろん今日は仕事だが、午後は私を迎えに来るのが仕事になった。レティ先生の息子のジェイが会社に言ってくれたのだろう。

昨日まで大雨で、学校も何日も休みだった。今日は久しぶりに晴れたのらしい。学校(パヤタス校)に着くと、クラスが終わったところで、ジェイン先生と、マイリンという新しい先生がいた。レティ先生、表情は明るくて元気そう。でも前夜は頭痛だった。今日はよくなったけど、と言う。Img_1515_3
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学校はパンパンガ通りにある。通りでは、暗くなるまで子どもたちが遊んでいる。この通りでたくさん見るのは、子どもと、野良犬と、犬のうんこ。
暗くなっても遊んでいる子どもたちの声がにぎやか。メンコしたり鬼ごっこしたり。10代の少年たちは、木にくくりつけたバスケットにボールを投げ入れて遊ぶ。それをしゃがんでながめる人たちもいる。
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夜、ジュリアンがビールとバロット買ってきてくれる。バロットは孵化寸前のあひるの卵をゆでたもの。見た目のグロテスクを気にしなければ、食べれるし、おいしい。好きなんだが、たちまち2個食べたが、それ以上は、無理。

7時半。ロザリンが帰ってくる。奨学生のひとり。彼女はビサヤの出身で、ここで住み込みで学校の仕事を手伝いながら、ハイスクールに通っている。今年3年生になった。
以前いたお手伝いさんは(ロザリンをここに連れてきた人だが)いなくなった。去年、レティ先生たちが、日本に来ていた留守中に、レティ先生の服なども盗んでいなくなっちゃってそれっきり。ビサヤの田舎に帰ったらしい。今年は資金不足でパヤタス校は給食もないので、お手伝いさんなしでなんとかやっている。
台所の奥が物置兼ロザリンの部屋だが、数字を書いた紙を一面にひろげて計算している。勉強してるのって聞いたら、あなたのだよって言われた。ああ、それはどうもありがとう。
学校の年間の経理のレポートをあげてもらうようにレティ先生にお願いしているのだが、あれこれ手分けしてやってくれているらしい。それで最後は、レティ先生が眠い目をこすりながらチェックする、と。

10時過ぎ、グレースが帰ってくる。カレッジの3年生。バロットはフライにしてもおいしいよ、と言う。それははじめて聞いた。そういえば去年は、マンゴー入りの巻きずしをつくってくれた。あれはおいしかった。
教室の奥のプライベートルームは、グレース(レティ先生の養女)とクレアアン(レティ先生のひ孫)が使っているが、滞在中、私がグレースのベッドで寝るので、グレースはクレアアンのベッドで、クレアアンは教室にマットを敷いて寝る。いつもそうで、また今度もそうみたい。グレースは夜遅くまで、パソコンとケータイでフェイスブックしたり、友だちと話したりしていた。
青春である。