午前中、エラプ校。この日は色の勉強をしていた。これは青です。言ってみましょう。「ブルー」。子どもたち、雲の絵は、みんな青で塗るんだけど、ここでもやっぱり雲は青。
では空は何色になるかというと、黄色、が多いかなあ。
この日、入口で、ずっと泣いていたのはマーシー。するとジュディもやってきて、一緒に泣き出して二重奏、そこにクリスティもやってきて三重奏。
がんばって泣いていたんだけど。
でも、給食のスパゲティで泣きやんで、そのあとの書き取りは一生懸命やっていた。
奨学生のレオ君はお使いで町まで印刷に行っていた。帰ってきて、エプロンつけて給食配りながら、歌っている。レオ君はいつも歌っている。
ロウェルのお母さんが私たちの分も運んできてくれる。
文字の書き取りは、Uの字。プリントの……をなぞっていきます。
プリントを上下さかさまで書こうとしていたり、鉛筆をぐーでにぎっていたり、ひとりひとりおもしろい。
3階は、ケビン君とお母さんたち来て、縫製のトレーニングの日。
国際教養大学のメンバーの到着が遅れている。でもなんとか間に合いそうで、迎えに来た親たちを少し待たせた。来てくれた6人と子どもたちとみんなで、「しあわせなら手を叩こう」を踊った。タガログバージョンは、笑ったり、手を叩いたりのほかに、くるくる回る、というのもあるのだ。
午後、パヤタス校。学生たちが、ジュースパックのリサイクルグッズを欲しがっていたので、近所の製作者のロイダさんに声をかけておいたら、学生たちが来る時間に、パヤタス校のテラスに店出ししてくれていた。お買い物して、お昼休みの教室でごはん食べて、
そのあと、ゴミ山見学の予定で、バランガイセンターのほうには、全員のリストに、パアラランの先生が手紙を添えて申請を出して、許可はもらっていた。
のだけれども、数日、夜に雨が降っていて、危険な箇所の点検ができていないからという理由で、ゴミ山にのぼれないことになった。雨季のこの時期は、こうなることが多い。
それで、ロイダさんとリサ先生に同行してもらって、16人の学生たちと、あたりをお散歩。以前、パアラランの旧校舎があったあたりまで。そこからもうすこし先まで。
そびえたつ山と一面の草はらの全部が、ゴミを埋めてできた。昔よく歩き回った麓の集落も、いまはすっかりゴミのなか。ぎりぎりのところに教会が残っていた。あの教会はずっと昔からある。
ゴミ山が崩落したときは、牧師さんたちの寄付で、カンデラリアのお母さんたちが、あの教会を拠点に、炊き出しをしていた。手をつないで輪になって、小さい子たちと日が暮れるまで遊んだ。
集落まるごと消えてしまったなあと眺めていたら、ガードマンがやってきた。こっちは立ち入り禁止、だって。引き返す。拾った透明なビニール袋を洗っている人がいた。プラスティック、と呼んでいるけど、プラスティックは1キログラム25ペソ。
子どもたちが帰ったあとの教室に、お母さんたちが集まってくる。お父さんもひとりいた。学生たちが企画した座談会。
20人ほども集まってくれて盛況だった。口々にお母さんたちが語ったこと。
「たくさんの学校があるのに、私たちの学校に来てくれてありがとう」
「私の子は、いま小学校に通っていて、とてもうまくやっている。パアラランで勉強したおかげです。とても感謝している。このままこの学校を続けてほしい」
「みんな近くに住んでいるから、困ったときは助け合うのよ」
「子どもが好きな遊び?ゲームやテレビ、バスケットボール。」
「私の子は、自分の名前の練習をするのが好きよ」
「うれしいこと? 子どもが教育を受けられることがしあわせ。子どもがうれしければ、私もうれしい」
「どんな子に育ってほしいか? 家族を大事にして、お祈りを忘れない、教育のあるいい子に育ってほしいわ」
親たちの仕事は、スカベンジャー(ゴミ拾い)、トラックのドライバー、ガードマン、など。1人のお父さんは、「さっきまでゴミを拾っていた。いま子どもをここに迎えに来て、このあと、またゴミ拾いに行くんだ」と言っていた。
私は、ここの人たちが大好きだ、とお母さんたちの話を聞きながら、あらためて思った。率直で飾りがなくて、目があうとほほえんでくれる。
お母さんたちが帰ったあとは、先生たちとの懇談会で、リサ先生が、「先生になった最初のころは、毎日泣いてたわ。子どもたち、歩きまわるし、言うこと聞かないし、けんかするし、噛むし…」と言っていた。でももう7年、先生を続けてくれている。もっと給料のいい仕事を探せ、と親たちに言われていたこともあったのに。
この日、レティ先生は、朝からずっと、休みながらだけどずっと、パヤタスカードにサインをしていた。もう手が疲れた、と言うし、なかなかたいへんそうなので、これからは、最初にサインをして、それをコピーするようにしようよ、と提案しておいた。
学生たちのインタビューに、レティ先生は答えていた。
「地域の人々を助けることは、あたりまえのこと。教育は大切だし、子どもたちがいる限り、この学校はつづけていきます」
私も学生に聞かれた。20年以上も支援をつづけてきたのはなぜですか。
簡単です。レティ先生がやめないから。
……まだ続けるんだって。きっと死んでもつづけるんじゃないかと思う。
学生たちが帰っていったあとの夕暮れ、リサ先生が一枚の紙を出してきた。エラプ校の電気の配線図。事業を続けるために、電気の配線を規則にしたがって直さなければいけないらしいのだ。その見取り図をつくってもらうために12000ペソ(35000円ほど)かかったという話。
実際の工事にいくらかかるかは、まだわからないって。私、聞く勇気がないわ。……いつか聞くけど。
夜ごと、パアラランの昔のことなんかを、トモコちやんに話していて、いろんなことを思い出した。通りを歩くと「モシモシアノネ」って日本語で声をかけられた頃があって、それは、じゃぱゆきさんをテーマにしたドラマの主題歌だった。日本にダンサーとして働きに行った女の子が、ヤクザに殺されるっていうような話らしかった。バブルの時代、いたるところに、フィリピンから働きに来た女の子たちがいた。
あのころ、このあたりの子どもたちも、ジャパンは知らなくても、ジャパユキという言葉は知っていたのだ。
パアラランに全然お金がなかったとき、停電がつづく夜にろうそくで生活しながら、レティ先生は、私はダンサーになって日本に働きに行く、ナイトクラブは暗いから、私がおばあちゃんだなんてわかんない。日本で稼いで、そのお金で学校を続ける。そう言って笑ったんだった。
その話は何年もしていたから、レティ先生も覚えていた。「いまは車椅子だから」と言うから、
車椅子ダンスのグループがあるよ。車椅子でダンスする。すごいショーをやるんだよ。と言うと、「それなら、車椅子ダンサーになって、稼ごう」と言う。
きっと、伝説の車椅子ダンサーになるよ、と笑った。
そうだなあ、レティ先生がそんなこと言うから、かわりに私がお金をつくろう、と思ったんだなあ。22年前。
翌朝4時半、ジュリアンが迎えに来てくれて、私たちを空港に運んでくれた。
またね。また来年ね。