パヤタス・レポート 6 ゴミの山

着いた翌日、24日の午後、ダンプサイトにのぼった。Img_0251 
リサイクルバッグのビジネスのために滞在していた女の子が、縫製工場の人たちとのぼるというので、便乗させてもらった。
許可証をとっているのかと思ったらそうではなくて、ひとりのスカベンジャーのIDカードを隠れ蓑に、内緒でのぼるという。で、見とがめられないように、シャツで顔を隠して、手は、鍋の煤で黒く汚して、ごみ拾いの鍵型のピックをもって、ずっと道をくだっていった。
パヤタスの旧校舎があったあたりを過ぎて、さらに降りていくと、ダンプサイトの登り口のひとつがある。

そこでなつかしい人に出会った。カンデラリアのお母さん。でも声をかけても顔をかくしているので、誰かわかってもらえない。シャツから顔を出して、ようやく驚いてもらった。カンデラリアのお母さんは、赤ちゃんを抱いていて、でもこれはきっと孫だな、と思ったら、横に娘のバンジーがいた。バンジーの赤ちゃんだ。クリスマス・パーティで段ボールに綿を貼り付けた天使の羽を背負っていた5歳の女の子は、お母さんになった。

ゴミ山は途方もなく高くなって、ぬかるんだ急斜面を、垂らされたロープ一本をたよりにのぼる。臭いもぬかるみも、蠅も、なつかしいといえばなつかしいが、凄まじいわ。汗がふきでる。
8年ぶり、と思う。
それから、ああ、もう若くない、と思った。
以前は、平気だったけどな。Img_0263 

リサイクルバッグの材料にするジュースパックがリサイクルされる現場を見ておきたいという、彼女の希望で実現した山登りなので、ジュースパックを拾う。

しずかだ。
人が、こんなに近くにたくさんいるのに、嘘のようにしずかだ。
8年前まで、ゴミ山への立ち入りが、こんなに厳しくなるまでは、毎年、滞在中は毎日のぼっていたけれど、こんなにしずかな、ダンプサイトは知らない。
なんだろう、このしずけさは。

と思っていて、ふと気づく。顔を隠して、スカベンジャーの姿をしているからだ。

今までは、子どもたちが働くことを禁止されていなかったころは、子どもたちと一緒に遊ぶ場所でもあったし、誰彼なく、声をかけられていたし、禁止されてから、許可が必要になってからさえ、警備員と顔なじみになって、かずみはダンプサイトに男がいるよ、とからかわれながらのぼっていて、そこは人々と何かしらやりとりが生まれる場所だったのだ。私は外国からきた人間としてそこにいたし、堂々と写真を撮ったし、顔を隠したことももちろんなかった。

でもいまは、誰からも私の姿は見えない。
昼間の目立つ時間だし、子どもたちの姿もなくて、ダンプサイトには、顔をシャツでおおって、ゴミを拾う大人たちの、しずかなしずかな労働だけがある。
ゴミを拾っているとゴミよりほかのものが見えなくなる。物音もさらに消える。ゴミも物も、人間も、熱も、空気も、風景も、何かおおきな沈黙のなかに、溶け込んでいくみたい。名前がある、などというのはたぶんうそで、「私」という自他を区別する檻のようなものもなんだかうそで、ほんとうは名前もなんにもないものである、ただ沈黙である、ただ沈黙として、すべてが、まったく平等にある。
地上の差異に満ちた生活など、豊かさも貧しさも、ただただ儚い夢のようで、降りるよ、と促されたとき、ここを降りて、どこへ帰ってゆくのか、一瞬、いぶかしかった。

たぶん、つかのま、ほんの30分くらいかな、ゴミ山にいて、それから、パヤタス校があるあたりとは反対側、オルバンのほうへ降りる。10年前に、ゴミ山崩落で、数百人の犠牲者を出したあたりは、ゴミ山との間に長い長い塀を張り巡らして、その塀の傍らに長い長い道が出来、道に沿ってまたバラックが立ち並んでいた。
長い、と感じたのは、でも、私が疲れてしまっていたからかもしれない。足が思うように動かないのだ。
8年の歳月を無情と思った。あああ、若くない。

日本の怠け者の主婦は、いたってひ弱なのだ。