南京に行ったときの写真など探してきたら、何かあれこれと断片的に蘇ってきて、ああ、哥哥(グーグ)に会いたい、と思った。
哥哥。お兄さん。
だが、その哥哥が誰だか、わかんないんだ。記憶も面影も、歳月の霧のはるかな向こう。
お兄さん、と呼んだ。お兄さん、と思った。
そういえば。
韓国に行ったときも、オッパ(お兄さん)と誰かを呼んでいた。オンニ(お姉さん)と、別の誰かを呼んでいた。
フィリピンに行けば、クヤ(お兄さん)もアテ(お姉さん)もいる。
在日韓国人の被爆者の方を、出会ってから亡くなるまでの20数年間、ずっと、お母さんと呼んでいた。
子どもの頃に身近にいて、お兄さんと呼んでいた人を、死ぬまでお兄さんと呼んでいた。帰省するのは親の顔をみるためでなく、そのお兄さんに会いたいからだった。
私の子どもには、おばあちゃん(日本)とハンメ(朝鮮)とロラ(フィリピン)がいる。
18歳のとき母が死んだのだが、すると兄も弟も家を出たので、家族、というのは、どこにいったかわからなくなった。どこかに兄がいて(でもどこかわからず)、どこかに弟がいて(でもどこかわからず)、どこかに父がいて(きっと生涯故郷を離れることなく)、でも彼らのことを、ふだんはまったく忘れている。
何かある度に、親に報告したり、家族が集まったり、するなんてことは、思いつきもしなかった。
家族の誰かが、自分に関心をもつだろう、とは思わなかったし。
私は、父たちの望むような生き方をしないのだから、その私について、知りたいこともないだろうと思ったし。
そして、私自身もまた、家族に関心をもつ、ということをしなかった。
だって、家族が必要なのは、生きるのに困るときで、金がないか仕事がないか、そんなときだが、私自身が、いつだって金もなかったし仕事もなかった。近寄ったら、共倒れになるだろうと、おびえていた。
うん。家族に関心をもつ勇気は、なかったんだよ。
安心して思い出せるのは、母のことだけ。もう死んでいたから。生きてる家族のことを考えるのはこわい。
でもたぶん。
家族なしに、生きてはこれなかったので、私は見知らぬ人を、お母さんと呼び、お兄さんと呼び、お姉さんと呼んで、たぶん生きつないできたんだろうなあ。またそういうことを、ゆるしてくれる人たちもいたもんだ。
ゆきずりの家族。関係は一夜だけだったり、数十年に及んだり、いろいろだが、血のしがらみも何もなく、ただ親しみを感じる自分の感情にだけ素直であればいいので、それはいつだってやさしいものだった。
さて、難しいのは血のしがらみのある家族。
結婚とかしたら、いきなり出現してくるわけだ。相手の家族も自分の家族も。それでもって自分がつくってしまった新しい家族も。
親しみだけ、というわけにもいかないもんで、折り合いついているのかいないのかよくわかんないまま、いまだに、いろいろと、うろたえつづける。
義父さんが、私の父に、挨拶にゆかねば、と言い出して(以前も言っていたけど、もう忘れたかと思ってた)、そういう面倒くさいことは、やめましょうよ、とも言えず、でも、どうすればいいのか想像もつかず、とりあえず、ぼーっとしている。
それから弟。
そうさ、私は、弟が家を出たあとのことを、想像したこともなかったと気づいたんだが、最近になって、友だちが飯場で土方して、その話を聞いてようやく、弟がどういうふうに生きていたかを考える勇気をもてた。
ゆきずりの家族経由で、自分の家族にたどりついた、みたいな。
家族も、ゆきずりの家族も、ゆきずりの家族。
ゆきずりの家族なしに、生きてこれなかった。
やさしくしてもらって、いるよなあ。
去年、弟に、原発で働いていたかどうかを、聞く勇気がどうしてももてないでいるうちに、弟はまた、行方がわかんなくなっちゃったんだが。
原発労働について、こんなの見かけた。
原発収束作業の現場から ある運動家の報告
http:// fukushi ma20110 311.blo g.fc2.c om/blog -entry- 54.html
哥哥。お兄さん。
だが、その哥哥が誰だか、わかんないんだ。記憶も面影も、歳月の霧のはるかな向こう。
お兄さん、と呼んだ。お兄さん、と思った。
そういえば。
韓国に行ったときも、オッパ(お兄さん)と誰かを呼んでいた。オンニ(お姉さん)と、別の誰かを呼んでいた。
フィリピンに行けば、クヤ(お兄さん)もアテ(お姉さん)もいる。
在日韓国人の被爆者の方を、出会ってから亡くなるまでの20数年間、ずっと、お母さんと呼んでいた。
子どもの頃に身近にいて、お兄さんと呼んでいた人を、死ぬまでお兄さんと呼んでいた。帰省するのは親の顔をみるためでなく、そのお兄さんに会いたいからだった。
私の子どもには、おばあちゃん(日本)とハンメ(朝鮮)とロラ(フィリピン)がいる。
18歳のとき母が死んだのだが、すると兄も弟も家を出たので、家族、というのは、どこにいったかわからなくなった。どこかに兄がいて(でもどこかわからず)、どこかに弟がいて(でもどこかわからず)、どこかに父がいて(きっと生涯故郷を離れることなく)、でも彼らのことを、ふだんはまったく忘れている。
何かある度に、親に報告したり、家族が集まったり、するなんてことは、思いつきもしなかった。
家族の誰かが、自分に関心をもつだろう、とは思わなかったし。
私は、父たちの望むような生き方をしないのだから、その私について、知りたいこともないだろうと思ったし。
そして、私自身もまた、家族に関心をもつ、ということをしなかった。
だって、家族が必要なのは、生きるのに困るときで、金がないか仕事がないか、そんなときだが、私自身が、いつだって金もなかったし仕事もなかった。近寄ったら、共倒れになるだろうと、おびえていた。
うん。家族に関心をもつ勇気は、なかったんだよ。
安心して思い出せるのは、母のことだけ。もう死んでいたから。生きてる家族のことを考えるのはこわい。
でもたぶん。
家族なしに、生きてはこれなかったので、私は見知らぬ人を、お母さんと呼び、お兄さんと呼び、お姉さんと呼んで、たぶん生きつないできたんだろうなあ。またそういうことを、ゆるしてくれる人たちもいたもんだ。
ゆきずりの家族。関係は一夜だけだったり、数十年に及んだり、いろいろだが、血のしがらみも何もなく、ただ親しみを感じる自分の感情にだけ素直であればいいので、それはいつだってやさしいものだった。
さて、難しいのは血のしがらみのある家族。
結婚とかしたら、いきなり出現してくるわけだ。相手の家族も自分の家族も。それでもって自分がつくってしまった新しい家族も。
親しみだけ、というわけにもいかないもんで、折り合いついているのかいないのかよくわかんないまま、いまだに、いろいろと、うろたえつづける。
義父さんが、私の父に、挨拶にゆかねば、と言い出して(以前も言っていたけど、もう忘れたかと思ってた)、そういう面倒くさいことは、やめましょうよ、とも言えず、でも、どうすればいいのか想像もつかず、とりあえず、ぼーっとしている。
それから弟。
そうさ、私は、弟が家を出たあとのことを、想像したこともなかったと気づいたんだが、最近になって、友だちが飯場で土方して、その話を聞いてようやく、弟がどういうふうに生きていたかを考える勇気をもてた。
ゆきずりの家族経由で、自分の家族にたどりついた、みたいな。
家族も、ゆきずりの家族も、ゆきずりの家族。
ゆきずりの家族なしに、生きてこれなかった。
やさしくしてもらって、いるよなあ。
去年、弟に、原発で働いていたかどうかを、聞く勇気がどうしてももてないでいるうちに、弟はまた、行方がわかんなくなっちゃったんだが。
原発労働について、こんなの見かけた。
原発収束作業の現場から ある運動家の報告
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