神札

昨日の夜、スナフキンが言っていた。
「生きるっていうことは平和な事じゃないんですよ」
子どもが思わず顔をあげてこっちを見た。
寝る前に一緒にムーミン読んでいる。いや、面白い。スナフキンたちと遊べてしあわせだ。



地域コミュニティについて。

「神札は受けません」って言ったら、治安維持法で逮捕された時代があったが、戦後になっても、「神札は受けません」っていうのは、なかなかたいへんなことだったりした。
「神札は受けません」って私の母は言ったのでした。でも神札は、町内会で配られて、それでお金払うのだ。それを拒否するっていうのは、田舎ではけっこうたいへんなことで、それでもさすがに戦後、信仰の自由を言えば拒否してさしつかえはなかったが、役員になったら、今度は神札を配る係である。
配り終えるまでの数日、家のなかに神札おいていた間の、母の葛藤はかわいそうだった。神札は、ほしい人だけが自分で神社にもらいに行くようにしてほしいと、母は町内会に言ったのだが、そういうわけにはいかないらしかった。

尹東柱の評伝を読んでいて、彼が通っていたミッション系の学校が、神社参拝を拒否したために閉校に追い込まれたというくだりを読んだとき、そのことを数十年ぶりに思い出した。神札を配っていた母の憂鬱そうな顔。

どうなんだろう。いまも神札配ってるんだろうか。このあたりでは、神札は配らないが、年に一度、賽銭を集めてまわる。払いませんって言うのも、なかなか勇気のいることじゃある。
信仰は、町内会でとりまとめしていいものではないと思うので、払いませんが。

絆、という言葉は美しいが、地域コミュニティの同調圧力は、けっこうやっかいだ。私は母を泣かせた地域コミュニティをにくんだし軽蔑もしたが、ある土地で、家族をもって生きるとなると、コミュニティを避けてもいられない。

神社の行事の係はやらない。そのかわり、老人会のほうのお手伝いはします。賽銭は払いませんが、その分赤い羽募金のほうに出します。子ども会も神社がらみのものには出席しませんが、あとで届けてくれるお菓子はもらう。

個人的に、神社に恨みはないのですが、信仰もない。信仰もないのに、神札や、お守りをもらうのはいやなんです。賽銭を払うのもいや。素朴なことだと思うんだけど、これが意外に難しい。
子どもが小学校に入学するとき、義父さんが学業成就のお守りをくれたときは、どうしようかと思った。パパが、謹んで送り返してくれて、とりあえず波風立たなかったけど。

日帝時代に、平壌に神社が建てられて人々は参拝を強制されたという。
敗戦のその日に、その神社は放火されて燃やされた。当然だと思う。

何が言いたいかっていうと、強制するのはやめようよってこと。町内会で賽銭集めるのやめてほしい。集める係がまわってくるかしら、と思ったら、かなりいやな気分なんだ。子ども御輿の係とかね。宗教的行事は、自発的にやりたい人がやるべきで、当番でまわしてはいけないと思うよ。

と、当番が来たら言おうかと思ってるんだけど、賽銭払わないからかな、あらかじめ、当番をはずされている気配だ。

地域コミュニティ。
小さな体で、町内のドブ掃除していた母さんを思い出すと、いじらしいなあ。ここはドブ掃除は女の人はやらないでいいみたい。おじさんたちがやってる。