いのるぼく

子ども、小さなころから犬が吠えるのをこわがって、子犬にきゃんきゃんなかれても、「ぼく、いぬにおこられた」と泣いていた。
このあたり、2、3軒に1軒は犬を飼っている。さすがに両隣の犬はなかなくなったが、ちびさん今も、犬に吠えられるのがこわい。

通学班の待ち合わせ場所までの間に大きな犬がいて、これが吠える。ものすごく吠える。最初遠回りをしていたが、それもしんどいなあと思っていると、パパがその家に話に言った。毎朝7時に子どもが通る。犬が吠えて近所迷惑になるかもしれないが、遠回りさせるのも変な話だと思うので、前を通るからよろしく。
その犬、近所の人には吠えないらしいのだが、うちは、角をまがった向こうなので、犬にとっては、近所ではないらしく、前を通ると吠えるのだ。たいてい出かけるときは車だし、歩くときは遠回りするし、幼稚園バスは反対側の道だったし、これまではあんまり困らなかったが、子どもの通学路となると、困る。

これまでも、いぬにおこられる、と泣く度、犬はほえているだけ、人間のほうがえらいんだから、こわがらなくていいんだよ、と言い聞かせてはきた。

で、なぜ人間がえらいか。人間は、学ぶこと、考えること、それから祈ることができます。それが他の動物とちがうこと。だからきみが、先生のいうことをきいたり、本をよんだり、いろんなことを考えたり、みんななかよく暮らせますように、とか、爆弾がおちませんように、とか祈ったりする人なら、それは犬よりえらいから、犬はきみをおこりません。だいじょうぶ。吠えているだけ。
でもきみが、ほしいからといって人のものをとったり、自分のしたいことだけして、あとかたづけしなかったり、お友だちにいじわるだったりしたら、それは犬より悪いから、犬はきみを怒るよ。

さて、通学路の大型犬、パパが話に言った次の日から、ちびさんは、その道を通るようになった。朝7時には飼い主が犬の相手をしてくれて、そうすると吠えない、または吠えてもすぐやめるし、通学班の集合場所までは、ママも一緒なので、大丈夫なのだった。

それで今夜の話なんだが。
夜、部屋を片づける時間になっても、ちびさんぐずぐず遊びつづけて片づけない。いいかげんにしてください、布団が敷けない、とママに叱られても、やっぱりぐずぐずと遊びつづけているので、パパが、じゃあ、出て行くか、犬のところがいいか、鹿がいいか、イノシシか、熊がいいか、とつめよった。ちびさん、いままでなら、いやあ、どこにもやらないのお、と泣きだすところなんだが、泣き出さず、いきなり正座して両手を前であわせて、「ぼくはいのってるんだ」と言う。
「ぼくはいのっているから、おこったらだめなんだ。それにぼくを、犬やしかのところにやることはできないんだ」。

あー。
たしかにね。いのる人に手出しをしてはいけないと思うよ。戦争のときでさえ、モスクや教会に爆弾落とすのは、とりわけ非道なことと思えるよ。
どこにもやらないよ。犬のところにも鹿にもイノシシにも熊にもやらないから、ずっとここにいていいから、片づけようよ。

つまり。
ちびさん、犬におこられませんように、といのりながら道を歩いているんだな。それでもって、私たちが叱っているのは、犬の吠える声といっしょなのだろうか。もしかして。