「海と蝶」

 「海と蝶」   金起林

誰も彼に水深を教えたことがないので
白い蝶は海がすこしも怖くない

青い大根畑とおもって飛んでいったが
いたいけな羽は波に濡れ
姫君のように疲れ果ててもどってくる

三月の海は花が咲かずやるせない
蝶の腰に真っ青な三日月が凍みる
 
 (1939年発表)
青柳優子 訳

金起林(キムギリム)1908年咸鏡北道鶴城生まれ。本名は金寅孫。渡日して日大専門部文学芸術科卒業(30年)、帰国後、朝鮮日報記者を勤めながら1933年に「九人会」に参加、モダニズム傾向の詩を創作。再渡日し、東北大英文科で学ぶ。卒業後、再び朝鮮日報の記者に。解放後、ソウルで「朝鮮文学家同盟」に入り活躍。朝鮮戦争時に越北。消息不明。


昔、下宿していた家の近くに住んでいた女の子が、そのとき中学生で、それから高校生、専門学校生になり、それから社会人になったが、いつ聞いたんだろう、「私のお婆さんは、世が世なら、朝鮮ではお姫さまの身分だったらしい」と言っていた。
在日一世のお婆さん、二世のお母さん、三世の彼女、女3人の暮らしで、別れた彼女のお父さんは日本人だった。新しい家が建ち並ぶ一角に、ぼろぼろの木造家屋があって、お婆さんは、廃品回収をして、生計をたてていた。リヤカーをひっぱって、段ボールを集めて歩いているお婆さんの姿を何度か見かけた。そのころ、お婆さんの顔をはっきり見た記憶はないのだが、リヤカーをひいていく姿は、そのお婆さん以外ではあり得なかった。
孫娘は、子どものころはいやだったらしい。みるからに貧乏なのも、庭でお婆さんが、廃品の古雑誌の上にすわって、やってきたおじさんたちと朝鮮語でしゃべっているのも。

自分が朝鮮人であることに、海を渡ってきた姫君は、なんの疑いももたないが、二世のお母さんと、日本人とのハーフの娘は、そんなわけにいかなかった。貧しかったり、いじめられたり、民族名をもてあましたあげく、悔しさから、孫娘は本名を名乗ろうとして、韓国人だって言っていいことなんかなんにもない、と母親に反対されてけんかし、お母さんを悲しませたらだめだよと、事情のわからない日本人の女の子にたしなめられて、また憤った。
ところがアメリカに行ったら、そこは多様性の世界で、民族も国も、なんでもよかった。日本で生まれた韓国人と日本人のハーフ、という自分は、そのままで自分だった、と、大人になった孫娘は言った。

姫君たち、どんなふうに日本に渡ってきたのか。
学生のころ、50代~70代の何人もの女たちから聞いた話を思い出す。お父さんに連れられてきた5歳の女の子、先に徴用された夫を追ってやってきた10代の若い妻、日本に行けば働き口があるとだまされて、遊郭に売られた少女もいた。
京都の遊郭から、広島の男の再婚相手にさせられて、大勢の子どもの面倒を見るためにつれてこられた少女は、被爆して、家族はみんな死んで、ひとりぼっちで残された。
あのお婆さんの名前はなんて言ったろう。被爆体験を本にするとき、匿名だった。本名をそのときは知っていたけれど、もう思い出せない。

金起林のこの詩を読んだとき、かつて海を渡ってきた姫君たちのことをおもった。たくさんのチマチョゴリの少女たちが、おとなたちにまぎれて、下関の港に降り立ったのだろう。

海は一日で渡ってこれたのに、帰ることは難しかった。
原爆のあと、親戚は帰ったけど、自分たちは残った、というパクさんの、「原爆で焼かれて何にもない、向こうに帰ってもなんにもない、帰れないのよ」と言った声が、まだ耳にある。
50代半ばだったのに、病院に行くと、70代の体だと言われた。それから10年しないうちに亡くなった、と聞いた。5歳で日本に来てから、一度も国に帰ったことはなかった。

海を渡ったが最後、月より遠いふるさと。

先日送ってもらった新聞記事は、詩人の金時鐘さんの話だった。子どものころに、父親が歌っていたという「いとしのクレメンタイン」の歌の話。
こういう歌詞だったそうだ。

「ネサランア ネサランア ナエサラン クレメンタイン
ヌルグンエビ ホンジャトゴ ヨンヨン アジョ カッヌニャ」
(おお愛よ、愛よ、わがいとしのクレメンタインよ
老いた父ひとりにして おまえは本当に去ったのか)

海を渡った姫君たち、たくさんのクレメンタインたち。
近代は、ふるさとに帰れないたくさんのクレメンタインたちを、つくりだしてきたんだなあと、思う。