クレメンタイン

土曜の朝、子どもが靴をはきながら、言った。
「ママ、原爆のことは忘れちゃだめなんだよ」
ああそうだね。もちろん、そうだよ。
でも、この唐突さはなんだ。



土曜の金時鐘さんの朗読ライブ、原田依幸さんのピアノよかった。ピアノがとても小さく見えた。子どもに見せてやりたいと思った。

そのピアノの音を聞きながら、唐突に思い出したことなんだけど。
これは、ライブとも演奏とも全然関係のない話。

殺されたカダフィ大佐の血まみれの顔の写真をふと思い出し、人間がそんなふうに殺されていくことを、受け入れている世界はまがまがしいよなあ、ということなど思い、それからまた赤い色。
なぜか、女子高生の赤いジャージの色。数人の赤いジャージが渦を巻いて踊って、それから倒れた。

あ、と思った。
高校生のときに体育の時間の創作ダンスで、原爆をテーマにした。
と、何十年ぶりに思い出した。班ごとに何かやらなきゃいけなかったんだ。
よりによって、なぜそれが原爆だったんだろう。シナリオは私が書いた。原民喜の詩か何か、を使ったような気がする。でも覚えてない。
原爆のこと、という以外。

体育はいやだった。いやでいやでしょうがなかった。バレーもバスケも卓球もバトミントンも水泳も走るのも、何もできないのでおびえた。グループでやるのは人に迷惑かけるからね。励まされるほど後ろめたい。ボールのくる先に手を伸ばしたつもりでもそこに手が行っていない、あのおそろしい不器用さが、アスペルガー症候群に由来すると、もしも当時わかっていたら、体育の時間あんなにまで憂鬱でなくてすんだかもしれない、と今になって思うけど。

走っても走っても追いついていけない、という絶望感は、その後何十年も、夢のなかにも、いろんなバリエーションであらわれつづけた。
どうすれば、世の中というところに追いついてゆけるのか、見当もつかない。

体育の時間のことなんて、記憶しておきたくなかったんだな。本当に忘れていた。思い出してびっくりした。
創作ダンスというのがあった、たしかに、そういえば。
シナリオを書いた。たとえば、私が広島の子どもなら、原爆がテーマであっても、それはごくありふれた景色だろうが、なんだって、四国の田舎で、創作ダンスで、原爆なんかやらなきゃいけないのか。
まさかその2年後に、自分が広島に行くなんて夢にも思ってなかったよな。

広島でなくてもよかった。
海を渡ろうと思った。この島を出て行こうと思った。
でもそれは広島でなくてもよかったのだ。広島でなければよかったのに。

たぶんそれは、大学受験の試験の点数の限界だった。私の貯金で出せる旅費の限界だった。それから、私の想像力の限界だった。汽車に乗ってバスに乗って船にのって、海を渡る。そこまでしか考えつかず、海を渡った先の港が広島だったんだ。

それにしても、どうして私ここにいるんだろうなあ。広島でなくてもよかったのに。どっか別のところでよかったのに、どこに行ってもよかったのに。

バイト先のパン屋のおじさんの広島弁が、ほんとにこわかったなあ。

朝、子どもが言った言葉が、あらためて不気味だ。
思い出したけど。原爆のこと、ひとつ。



金時鐘さんの歌うクレメンタインの歌詞は、娘が海を渡る。
娘が父親をおいて、海の向こうへ行ってしまう。

ライブのあと、駅までの道を歩きながら、
朝鮮半島から、海を渡ってきた、お母さんたちのことを思い出した。昔聞いた、渡日と被爆のお話のいろいろ。

そのことを以前にも書いた気がする、と思って探したら書いていた。
http://yumenononi.blog.eonet.jp/default/2010/04/post-a47d.html

それから、戦後何十年もたって、中国から帰国してきたおばあさんの、手記のことを思い出した。日本語で書かれた手記は、たしかに日本語なんだけど、こわれていて、内容が読み取れない。でもそれは確かに日本語だった。

あの手記を手にしたときの衝撃。その話はまた。