運命

10歳の夏、いきなりひどい倦怠感に襲われた。ふらふらしてつらくて怖かった。それから今にいたるまでつづく原因不明の倦怠感は、両親が戦後の広島で暮らしたこと(母親は原爆を遠くから見た)、自分が広島で生まれ育ったことと関係があるだろうか、とパパが話したりしている。66年後に。
倦怠感、のことはもちろん知っているが、成人してからの病気のせいだと思っていた。子どものころから、というのははじめてきいた。
ふだんはそれも、慣れてしまって、忘れていることなんだけれども。
だいいち、関係あってもなくても、運命は運命としてあるだけで、おんなじことだけど。

原発のことを口にすると日常が壊れそうで口にできないと東日本の人がいう。
被爆者に聞き書きするのに、原爆のことは思い出したくない、と何度言われたか。
私は弟に、福井では原発で働いていたのかを、おそらくそうなんだけど、確かめる勇気がない。
今さら聞いたってしょうがないし。

語っても語らなくても、運命である。
もうすでに、事故ではなくて、運命になってしまったし、運命になってしまうんだと思う。
事故なら技術が対応すればよいが(できるのか)、運命に対峙するには、
哲学が要る、か。

覚悟がいる。被ばくに限ったことでもないが、覚悟がなかったら、愚痴だらけの人生になってしまう。不幸は、ある人々の人生を崇高にする。多くの人々の人生を醜悪にする。醜悪になってしまった人々の不幸は、耳を傾けられることがない。そしてだれも、他人の人生には責任をとらないのだ。

繰り返されてしまうんだろうか。
子どもたちを被ばくから守ってください。