抒情にこそ、批評は降りたっていなければならない。

金時鐘 詩の朗読ライブ
「四月よ、遠い日よ。」

メモから。金時鐘さんが語ったこと。



東日本大震災で、日本の現代詩は瓦解している。言葉を無くしている。他者と関わってこなかった日本の詩が。
追悼の詩歌はあっても、とりわけ原発事故に対して、現代詩がものがいえなくなっている事情はなにか。
詩が、ほそぼそとでも通じていなければならないはずの、国家や民族、他者と関わるということを、日本の現代詩は切り捨ててきているから。



私にやってきた植民地統治は、小学唱歌、動揺、短歌などのやさしいものであった。こういう歌心のある日本はいい国だと思った。日本の詩歌の情感にほだされてきた。──皇国少年であった。日本の近代詩にどっぷりつかって育った。自分は戦後、朝鮮に押し返された人間である。

大正末期から昭和初期、近代抒情詩の時代に、日本は15年戦争につきすすんでいった。

大陸で三光作戦(焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くす)を遂行した兵士たちも、童謡を歌ったろう。近代抒情詩の情感にほだされたろう。

「きけわだつみの声」。死んでいった若者たちの遺書の最後に短歌がある。短歌のかたちである限り、批評ではない。
命をなくさせる側に対して、何も言えない。

情感は批評の力をなくさせる。詩は俗なことから抜け出る意思力である。
表現は政治である。抒情は警戒しなければいけない。

抒情にこそ、批評は降りたっていなければならない。



日本の抒情詩とかわらないくらいいい詩が自分の国にあると気づいた。

金素雲の「朝鮮詩集」は当時日本で絶賛され、詩壇でもてはやされた。名訳だと言われた。だが、朝鮮語もしらないのに、なぜ名訳と言えるのか。

それで、朝鮮詩集を翻訳しなおした。



「詩集 失くした季節」について

抒情と闘いながら、抒情詩を書いてきた。
抒情を全面に出して、淡くなりつつ、深まる。

五七調ではない音感が、日本語で自分でとれたら。
日本の近代詩に慣れた感覚の人も、違和感なく読まれたら、私の勝ち。

詩の言葉は行った先のもの。だからこそ、詩は永遠。行った先で、根づく。別のいのちになる。

近代抒情詩の根っこにあるのは自然賛歌。思いを三千草木に仮託する。
だが自然はそんな甘美なものじゃない。

自然というのは、そこで生きる、ということを意味する。
自然は日本の詩歌のように、感情が投影されただけのものではない。

自分の思いを反映する自然、自分の感情を託すだけの自然。
そこには批評がない。
地球を人間だけのものと思う不遜。

☆☆

以上、メモから。
欠落も聞き取れなかったこともたくさんあると思うんだけど、だいたい私の理解した文脈は以上のようなものでした。
「外からの視線」という言葉を思った。私たちに決定的に欠けているのはそれなんだが、「外からの視線」にさらされることは、ふと風通しのよい場所に連れ出されるみたいに、こころよい。

真碩さんの構成はさすがでした。

最後は「いとしのクレメンタイン」を歌ってくださった。
ネサランナ ネサランナ ナエサラン クレメンティ

いろんなことを感じたり考えさせられたり、思い出したりしたのでしたが、それはまたおいおい。



子どもが背中にはりついて、ゲームをさせろとうるさいので、こうたいっ。