「わたしたちの路地」の批評(現代詩手帖4月号)に対する反論①

現代詩手帖4月号の詩書月評(田中庸介)に、私と河津聖恵さんとのコラボ集「わたしたちの路地」が取り上げられていた。

ほとんど意味不明な批評で、唖然としたのだが、たぶん酷評であろう。

批評は賛否両論あっていいと思うし、野樹の短歌は下手くそだとか、こんなの短歌じゃないとか、いうような内容なら、何もいわないが、これはあんまりというか、いちいち反論するのもばかばかしいが、無視するには腹立たしいし、私の信頼する詩人の仕事に対する侮辱のような内容でもあると思うので、反論します。

河津さんの詩への(自動記述云々の)評については、私には、評者が、自分の嗜好にすぎないものを、まるでそれが詩の理論であるかのように装って(しかし内容は意味不明)、詩人のことばを、無駄におとしめようとしているとしか見えないのだが、問題は次のくだりである。

「そして、詩作品に「ファクチュアル」なフレーバーを加えるために現実の社会問題が利用されている印象さえもがある。このテキストの論理のなかでは、ゴミ山や同和は、この特定の作者らに「詩のことば」を書かせるために、この世界に存在していたかのような扱いであるが、詩人は「詩のことば」を書くことに、そんな文化的特権性を付与してはいけない。」

なにこれ。つまり、ゴミ山や同和について、詩人はものを言ってはいけないといっているのですか。詩人がものを言うというのは、詩のことばを書くことにほかならないと思うのだけれど。
なにこれ。道徳に反しているとか言いたいわけ? 倫理委員会? 宗教審判? 言語警察? あんたなにさま?

この文脈だと、詩人は、社会的な問題に対して、口を開けないということになると思うのだけれど、黙れって?

ゴミ山や同和、というが、それは私には、私の家族や隣人や幼馴染みや友人や、敬愛する先生や、姉妹や兄弟のように親しい人たちが、いままさに暮らしている土地であり、私にとって、今生きている場所と同様に、あるいはそれ以上に大事な、私自身の人生の現場です。

私自身の現場であることが、私にとって書く必然であったのであり、話をするときには聞いてくれる人が必要であるように、河津さんという詩人に呼びかけたのであり、河津さんは、詩を書くことで、深く聞いてくれた、私はそのことに深い感謝と喜びを感じているけれど、それはそれとして。

私が、私の現場についてものを言うことを、いいとか悪いとか言う権利なんて、神さまにだってない。絶対にない。ただ、ものを言った責任は、当然、私は負うのである。

「文化的特権性」って、なにそれ。
「ゴミ山や同和は、この特定の作者らに「詩のことば」を書かせるために、この世界に存在していたかのような扱いであるが」という評者のまなざしそのものが、私には「文化的特権性」に汚れたものに見える。

私たちが、詩を書こうが書くまいが、彼らは存在し、そして存在しなくなる。あたりまえのことだ。詩人なんて、せいぜい、一緒にオロオロするぐらいのことしかできない。あるいは記録すること。

クリスティーナはゴミを拾う。
でも、ゴミを拾うクリスティーナの輝きは、詩人でなければ誰が記憶し、記録するのか。
ゴミ山崩落の犠牲になった生徒は23名。この数字は、事故のあと現場を訪れた私が、聞いて記録したから、現地の人の記憶にも残った。次の年、死んだ生徒は何人だったかと、私は現地の先生に聞かれたのだ。
あのとき、死んだ子どもの名前を書いた紙をもらってこなかったことを、私は今でも後悔している。なぜなら、もう誰も覚えていないし、記録もないから。

いなくなったクリスティーナたちのことを、河津さんが、「詩の言葉」でおいかけてくれたことに、クリスティーナたちを知っていながら見失った私は救われる思いであったけれど、名前も記憶されないまま、死んでいった子どもたちを、いったい「詩の言葉」以外のどんな言葉が追いかけてくれるのだろう。テレビカメラは、それなりにドキュメンタリーをつくれるが、目に見えるものしか写せない。

野樹の短歌はともかく、この作品集の河津さんは、すぐれて詩人のなすべき仕事をしたと思います。そして詩の言葉は、詩をなりわいとする人のためにだけあるのではないはずなのだ。詩人とか歌人とか以前に、現場の人間として私は嬉しいのだが、そのような彼女の仕事を、すくなくとも、私ほどにも、現場を知らない評者が、書いていいとかいけないとか、なんでえらそうに言うのよ、ずいぶん傲慢な人だな、と私は思います。

もしも、評者が言っているようなことを、ゴミ山の人たちとか、同和地区で暮らしている私の父とか隣人たちに言われたら、私だって考える。でも彼らは、けっして、ここで評者が言っているようなことを言わないでしょう。評者のまなざしは、彼らを尊重していると見せかけながら、実はものすごく侮辱している。

評者について私は何にも知らないが、若いのかな。詩の世界にこもらず、もっと人間が生きている現場で、詩なんか関係なく生きて死んでいく人たちの間で、裸の人間としての自分が何ができるか何ができないかを、詩の言葉でも批評の言葉でもいいけれど、そこで自分の言葉というものはいったい何なのかを、一度問い直したほうがいいと思う。

余計なお世話か。