「わたしたちの路地」の批評(現代詩手帖4月号)に対する反論②

つづき。
「文化的特権性を付与してはいけない」の文章のあとには、次のようにつづく。

 「また、詩だから何を書いてもよいということもなかろう。「すりきれて穴もあいてるてらてらの黄色い毛布でねむれねむれ」という野樹さんの歌があるが、毛布や孤児の描写が通りいっぺんで粗く、処理が軽いと思う。それは、あまりに悲惨なものを目にして、適応不全のため判断停止に陥っているせいかもしれないが、どうも世界の事物に十分な愛を注いでいるようには見えなくなっている。裏返して考えれば、愛が必要なのは孤児ではなく、かわいそうな作者のほうかもしれないのだ。」

 まったくあきれるが、「かわいそうな作者」と名指しされたからには反論する。毛布の歌は、故郷についての一連のなかに書いたもので、孤児の歌でもなければ、ゴミ山の歌でもない。私自身が子どものころに使っていた毛布である。作品のなかでも、無理なく、そのように読めるはずです。穴があいていたのを覚えているのは、穴に足の指をつっこんで遊んでいたから。ねむれねむれは、子どものわたしに向けた子守歌。処理が軽くて何が悪いと思うが、いい歌だと言い張る気は、ない。

 問題は、この文脈で、評者が、ゴミの山とも孤児とも関係のない毛布の歌を、さも孤児の歌であるかのように引用するのはなぜか、ということだ。おとしめたいための故意の(あるいは無意識の?)悪意でなければ、杜撰な誤読である。
 何を書いてもよいというわけでない、ということを、評者が、どんな根拠で言っているかもわからないが、私が、私の愛用した毛布について、歌うことについて、いいとか悪いとか、ほんとに神さまにだって言われるすじあいはない。もう、めちゃくちゃだと思う、この人。どんな批評をしてもいいというわけではないと、こちらこそ言いたい。

 毛布の歌のあとには
「トタン屋根打つ雨音の激しければ雨から守られているふしぎ」
の歌がつづきますが、貧しさのなかでこそわかる恩寵があるということなど、この評者はきっと読みとる気もない。

「それは、あまりに悲惨なものを目にして、適応不全のため判断停止に陥っているせいかもしれないが」というが、穴のあいた毛布ごときで、あまりに悲惨なもの、とはおそれいる。穴のあいた毛布ごときで、かわいそうというなら、なんかもう、世間知らずというか、世界を知らないというか、はっきり言って人をばかにするにもほどがある。

評者が、ゴミの山の現実を指して「あまりに悲惨なもの」というのだとして、「判断停止に陥っている」のだとして、判断停止は、ごく正しい反応です。
一方的な愛とか同情とかふりまわしたところで(独善といいますが)そんなものは役に立たない、かえって現地の人に迷惑をかけるだけになりかねないことは、NGOの現場に、しばらくでも誠実にたたずんだことのある人なら、誰でも理解していることだと思う。
評者がいったい、どんな世界への愛を、もつべきだといいたいのかわからないけれど、いいえ、私には愛があるなんて、口が裂けたって言いませんが、たとえば「クリスティーナ」というひとりの名前を、記憶すること、記録すること、呼びつづけることが、このような世界に対して、私たちのできる精一杯であることに気づくこともできない、鈍い(人間とか、現実世界に対して鈍いということです)人のいう「愛」なんて言葉を、私は絶対に信じない。

かわいそうな評者、と申し上げる。
こんなばかばかしい批評がまかりとおる詩の世界ってなんなんですか。

かわいそうな作者のあとには、次のようにつづく。

「作者らの自我の場所は、フィリピンによっても、中上によっても、ほとんど移動していない。誰かに用意してもらった絶対安全地帯からセカイを眺望、観覧して、それが自分自身の「癒し」であるように錯覚させられていることに気がつかなければならない」

この失礼な決めつけは、なんなんでしょう。作品のなかに、ゴミの山の学校が出てくるけれども、それはゴミの山の人たちと、日本の人たちと、私も学生たちも、スポンサーさんたちも、みんなが助け合って、必死でつくりあげてきたものです。
むろんそんなことは、作品の背景に沈んでいることだけれど、素朴に考えても人生において「誰かに用意してもらった絶対安全地帯」なんてあり得ない。みな必死で、自分の生きる場所をつくっているし人の生きる場所を支えている。日本にいて、ゴミの山のことを書くからといって、「絶対安全地帯からセカイを眺望、観覧して」いるという決めつけは、評者自身の錯覚というか、評者自身が「文化を消費するお客さん」以外の存在の仕方を知らないということの告白のように、私には見える。

ついでながら、タイトルの「christmas mountain」という言葉は、ゴミの自然発火で燃える夜のゴミ山を見て、私が言ったのです。すると子どもたちがよろこび、おとなたちも、クリスマスマウンテンには何でもある、と笑った。その笑い、ユーモアは、彼らの文化であるけれども、その文化を私は共有させてもらったと思うけれど、それは「誰かに用意してもらった絶対安全地帯」で「文化を消費するお客さん」が、手に入れられるようなものではないはずです。

「「真剣」とは、言葉そのもの、世界そのものに対する愛情の反映であり、それには他者をきちんと他者としてリスペクトすることも含まれる。大変なことであるが、その方向を目指したい」

という言葉に別に異論はないが、その言葉をいうからには、私たちの作品を、評者の思い込みとか錯覚のなかの餌食であることから解き放って、きちんと他者として、尊重してもらいたい。悪意と思われてもしかたがないような杜撰な誤読をされて、「真剣」に「キメ細かく」愛情をもって作品を読んでもらっているとは、とうてい思えません。

とても欺瞞に満ちた批評と感じられて(評者の欺瞞を私たちの作品に転移させられたようで)、私は非常に不愉快でした。このような批評のまなざしは、詩を衰弱させ自閉させていく方向に向かうものに感じます。評者は、結局どこまでいっても、他者に出会わず、自分の顔をしか見ないのではないかと、それはものすごく、もったいない人生だと、他人ごとながら、心配ではありますが、とりあえず、私の反論は終わりです。

あとは読者の判断に(読者がいてくれるとして)ゆだねたいと思います。
現代詩手帖4月号は発売中。
私と河津さんのコラボ作品集『christmas mountain わたしたちの路地』は澪標舎から刊行中。インターネット、また著者経由でも入手できます。(最後は宣伝で締めくくりっ。)

河津さんの反論はこちら。
「世界に愛を注ぐなんて意味がない」
http://maruta.be/terrace_of_poem