外からの視線 その3

逝かれてしまうと、遺言のように思えてくる。
「外からの視線」菱川善夫 (1993年短歌四季夏号)
文中で、野樹の短歌と卒論のことに触れられているからだけれど。それはともかく。

なぜ自分がそこにいるのかうまく理解できないまま、かなり緊張して、相当におびえて、私はそこにいたんだけれど、91年、短歌研究の授賞式で、菱川先生が喋ったことだけは鮮明に耳にはいってきた。あるシンポジウムの話で、ここに書かれている、まさにこの内容だった。

ワルシャワ大学教授、ミコワイ・メラノヴィッチは、戦争と文学について触れながら、日本の文学には、他国に対しておこなった残虐な行為のために、平凡な一市民が、どれほど苦しんだのか、それを掘りさげる文学がない。「野火」をはじめ、自分がいかに危機にさらされたか、わが身の危険を訴える文学はあるが、自分がおこなった残虐な行為のために苦しみつづける、という人間がなぜ登場しないのか、と語った。
「えたいの知れない態度で責任をあいまいにしている。何というかくれた力が作用していることか。それでは戦争は台風と同じものになってしまう」
と迫った言葉は、鋭く私の耳を突き刺した。」

「短歌の世界にひきもどしても、事情はそっくりあてはまるだろう。(略)どうしてそうなるのか。個人としての自覚の甘さと、短歌的抒情に原因がある。短歌の抒情は、視線をもっぱら自分の側にだけ集めてしまうように機能する。きわめてエゴイスチックな働きをするのが、短歌的抒情と言ってよい」

「朝鮮の慰安婦問題で浮かびあがったように、日本人の責任を回避する体質は、いまや民族全体の課題である。」

「日本人が犯した罪を、みずからの罪として自覚しながら、しかしそれが、たんに個人的懺悔や民族的贖罪といった方向にだけ向かうのではなく、痛みの克服が、同時に新たな全体性の回復という喜びに向かうような、生産的な視点を模索することが、これからの日本文学の課題として要求されてこなければならないだろう。」

「そのためにも、たえず外からの視線を持ちつづけることが大切である。いまの歌壇に欠けているのは、この視線。外への視線ならたくさんある。ベルリンの壁の崩壊以来、外部世界は激しく動いているから、外への視線は材料に事欠かない。そういう外への関心ではなく、いま帰属している世界の外側に立ち、そこから、自己自身を、家族を、国家を見つめなおすような視線──それが必要なのだ」

しばらく前に、高杉一郎の遺稿集を読んでいたら、アグネス・スメドレーが中国に行き、中国の革命を記録した、同じ時期に、日本の文人たちの間には支那趣味が流行って、佐藤も芥川も中国に行っていたのに、誰もアグネスが見たような中国の現実を見ていない、とあきれはてている文章があって、それはかなりショックだった。
彼らが中国に行きながら、中国を見ていない、その盲目さ加減は、現在もなお、この国にあるものではないのか、という指摘だった。
私の頭のなかにあった教科書の近代文学の年表が、いきなり権威を失墜した瞬間だったが、私たちが近代と思っているもの、たとえば、日本の近代文学とはこういうものだ、と教えられてきたものも、中央集権的に虚構されたものにすぎないのかもしれないのだ。

1月に、朝鮮大学校で、ピョン・ジェス先生にお会いしたとき、先生が「短歌の革新は、石川啄木でしょう」と言われたのが、すごく新鮮に聞こえた。日本人がそう言ったのを聞いたことはない。たちまち「辺境」という言葉が頭に浮かんだのだが、あの時代、朝鮮の作家たちも、辺境の作家たちなのだ。虐げられた土地の。
中国に遊びに行った大作家たちが、中国の民衆への共感をもたなかったことと、啄木がテロリストの安重根に共感したことの違い。

日本の近代文学史のなかに、金史良など朝鮮人作家や詩人たちの日本語の小説や詩を含めてみれば、また全然違う近代が、あらわれてくると思う。

外からの視線、についてのまた別の話だけれど、なんの話題だったのか、外からの視線をもつことが必要だよね、とふと私が言ったら、パパは、「そりゃむごい話だ」と言った。
「外から見たら私はどんなか。ブスでデブでチビでハゲで……というのを意識したら死にたくならんか。自分を外から見ることができないから、なんとか絶望せずに生きておれる。外から見たら絶望するぞ」

それは、たしかに、そうかも。
絶望との対峙の仕方を、考えねばならん。