外からの視線 その2

「薬の副作用で」と、話しづらそうななか、振り絞るように言われた「日本ほどひどい国はない」という声が、耳に残っている。
そしてそのような声を、聞くことで、何か晴れてゆく霧がある。

30日朝、朝鮮学校で呂サンホさんにお話を聞いた。
最初に聞いたのは学校の移転の話。私が東京にいた頃のことで、もう十数年前になるのだが、呂さんにお電話するまで、私は移転のことを知らなかった。

朝鮮初級学校と、中高級学校を統合して、ここに学校を移転するのに、20年かかった。移転の理由は、新幹線が通って、線路の近くにあった初級学校が、騒音で授業ができなくなったから。今まであった学校の土地を売れば、新校舎を建ててもなお数億残るはずだった。ところが移転に20年もかかった。その間に土地は暴落し、結局いまも借金が残っている。なぜ20年もかかったか。当時の国鉄とも話はつけて、行政とのことも何も問題はなかった。住民が反対運動をしたからです。
このあたりの道は、この学校ができるから、というので、きれいになった。その道ができたおかげで、周辺の家々も建って、その道をみんな利用しているのに、朝鮮学校だけはここに来るなという。それで20年かかったんです。最後には市会議員さんたちが、地主をまわって会って説得してくれた。

呂さんは、神戸生まれ、幼いころに広島に来た。軍の施設が密集しているなかに朝鮮人部落があり、広島は爆撃を受けていなかったけれど、呉のあたりは爆撃を受けていて、広島もやがて攻撃されるだろう、軍の施設が狙われたら自分たちも危ない、というので、市外に疎開するためのバラックをつくることになり、それまでの間、島根の山奥の親戚のところに疎開させられた。さてバラックができたので、迎えにきた父親に連れられて広島に戻ったのが、8月6日。入市被爆した。10歳のとき。

被爆手帳はしかし、60になるまでもらわなかった。東京の学校に進学したとき、広島出身だと言ったら、みんなが逃げた。放射能がうつる、と思われたのだ。被爆者だと言えなくなった。結婚もあきらめたが、後に親戚のすすめで結婚した。子どもは元気だったが、子どもの結婚に差し障るかもしれないから、被爆者手帳は申請しなかった。申請すれば、それはどこからか、人に伝わってしまうものなのだ。子どもたちが成人し結婚したので、ようやく手帳を申請することにした。が、証人がいない。一緒にいた父はもう死んでいる。両親は北に帰国した。だが自分は親の死に目にも会えなかった。なぜか。戦後も朝鮮人は、海外渡航を禁じられていたからです。何十年も。解放されたはずなのに、現実にはこの国から一歩も出れない。出してもらえない。籠の鳥ですよ。

朝鮮人がなぜ日本にいるのか。日本が朝鮮を侵略した。その侵略統治の結果として、在日朝鮮人がいる。祖国で食っていけなくて、徴用されて、日本に来た。なのに、日本はそのことを全然教えていない。
日本が戦争で負けて、侵略は誤りであった、反省しているというなら、日本が船を用意して国にお帰りくださいというのが筋でしょう。しかしそんなことはしない。ほったらかし。あろうことか、北海道の炭坑にいた人たちを国へ帰らせるといって、舞鶴にあつめて、いざ船に乗せたところで船を爆発させる、という残虐非道なことまでした。戦後ですよ。広島からは、七つある川の河口から、船がないから、小さな漁船に乗りあわせて帰国していった。原爆が落ちたあとの、8月9月10月、その季節は台風があるでしょう、沈んだ船もたくさんありますよ。

戦後、朝鮮からひきあげてきた男が、鉈をもって、近所に朝鮮人はいないか、いまから殺しに行く、と暴れたことがあった。あんなおとなしい一家に何をするのかと、お母さんがすがって止めて、ことなきを得たが、その男が、わざわざその家に行って、母にとめられたのでやめたが、ゆうべは殺しに来るつもりだった、と言った。
日本人は親分気取りで朝鮮や中国に行ったわけでしょう。引き上げるときに、石のひとつぐらい投げられたかもしらん。が、だから日本にいる朝鮮人を鉈で殺していいという話になりますか。
道を歩いていただけで日本人に殺された朝鮮人もいた。戦後ですよ。何をされるかわからない、こわいから、部落へ逃げこんだんです。いわゆる被差別部落に。

いい日本人もたくさんいますよ。日本人の友人もたくさんいる。そういう人たちがいるから、私たちも励まされて生きていける。日本が国際社会でやっていけるのは、立派な日本人がいるからです。日本政府が信頼されているわけでは絶対にない。
政府が一番悪い。戦前から何も変わっていない。ひどい国ですよ。経済制裁のせいで、帰国もままなりません。マンギョンボン号が出ないから。私は長男ですから、帰国して墓参りもしたい。だが北京経由で帰ると、非常にお金がかかる。拉致は絶対に悪い。もちろんです。だがその問題を、政治的に利用して、問題をこじらせて、私たち在日朝鮮人を苦しめて何になりますか。

ふるさとがないことがさびしいですよ。ふるさとと呼べる土地が自分にはない。日本にもない。祖国にもない。

生徒数は減っています。小学校から高校までで400人くらい。以前は700人くらいいた。少子化もある。日本で生きていくのだから、日本の学校に通わせるという考え方もある。しかし、ここの生徒は仲がいいですよ。私も教師をしておりましたが、日本の学校の先生のほうがかえって気の毒なくらいです。

被爆の証人がいないから、陳情書を書いたわけです。なぜ日本にいるのか、どんな経緯で被爆したのか。何十枚も書きましたよ。
韓国の在外被爆者や、広島にいても証人のいない人たちの陳情書を代わりに書いてあげることもある。そういうときは、2、3日かけて、徹底的に話を聞きます。どの道を歩いたか、そこで何を見たか、天気はどうだったか。役所は資料をもっているから、話に矛盾があったら、手帳は出さない。私自身が話を聞いて、被爆を確信して、それで陳情書を書くんです。ある人の証言に、被爆の日に、アメリカ兵が鉄線で木にくくりつけられていたのを見たという。それで確信して陳情書を書いたら、本当にそのようなことがあったそうです。

──だいたい、そのようなお話を、して下さった。
もの言う人たち、もの書く人たち、政治家も、陳情書を書く呂さんの誠実をもってほしいと思います。

日韓併合100年だけれど、私たちが近代はこのようなものだと思っている近代は、実は非常に偏ったいびつなものかもしれないと思う。疑ってみるべきだ。この国の近代を、私たち自身を。
1945年、日本は戦争に負けて、それから民主主義国家になりました、というのは事実ではなく歴史の虚構のようなものだろう。
パレスチナの人々がイスラエルを見るように、チベットの人々が中国を見るように、近代の100年、日本を見ているまなざしがあるということに、気づきたい。
というようなことを、思った。

外はとってもいい天気。向かいの森の桜は満開。
空き地の畑のブロッコリーを収穫。植えたじゃがいもの芽が消えている。けものの足跡があるが、だれか食ったか。これではじゃがいも、できないのではないだろうか。
昨日、小学校の先生から電話。入学式の前の日に、前もって会っておきましょう、ということになる。配慮ありがたい。